犬が吠えれば屍は哭く
chocolateSphinx
《第1部 宝永4年の犬屋敷》
「時計之進(ときけいのしん)、御用であるッ! 」
黄金の月が廃寺を四周に囲む同心たちの顔を照らしている。既に忘れられて幾十年は過ぎた荒ら屋までの道程は決して楽ではなかったのであろう。みなうっすらと汗を垂らしている。
「そこにいるのは判っている! 観念して出てくるが良いッ!」
先頭に立つ同心の呼び声からしばらくして、廃寺から一人の男が現れた。
着流し姿で見るからに貧乏くさい。浪人ということが一目で判る出で立ちだ。だが、月光のなかで揺らめく虚空を覗くような虚無的な瞳は、廃寺に棲む亡霊のような印象さえ受ける。
「何か御用か?」
寺内から数十人並ぶ同心を見下ろす時計之進と呼ばれた男は、その状況に怯みもせず悠々と問いを発した。その姿はさながら幽鬼のようで、見るものをゾッとさせる鬼気迫るものがあった。
「と、時計之進! 御用であるッ!」
「それは先ほどから聞こえている。俺は、一介の浪人にすぎん。何の罪も犯した覚えはないぞ」
そう言い計之進はじろりと周囲を見渡した。
どの役人も十手に刀、腕には籠手を身につけている。頭には鎖鉢巻き、服の隙間からは鎖帷子が見え隠れしている。入念な用意が窺える。
「ええい、往生際の悪いことを! 江戸市内でご公儀を差し置き《御犬請負人(おいぬうけおいにん)》なる御犬様のお捕まえすることで依頼主から金銭を受け取る商売をしていたであろう! 不届き千万! 御犬様への畏敬に欠いた行為である! その角による御用であるッ!」
「何を馬鹿な。ただ、町人に害をなす犬を投網で捕らえ、奉行所に引き渡しただけだ。望むことを与えることが商売の根元であろう。どこに問題がある」
「その際、貴様の飼い犬をけしかけ、御犬様に危害を加えたであろうが!」
「俺自身が傷つけた訳ではないぞ」
「飼い主である貴様の咎は免れぬぞ」
「ふん、犬役人が寝ぼけたことを。犬愛護令のお触れ込みはこうであろうが。《御犬同士の喧嘩があった際は、近くにいた者が仲裁をすべし》 俺はその法令に従い喧嘩を引き分けたまでのこと。そこで野犬であった際は、お上の手間を省くため、奉行所に引き渡していた。むしろ銭を払うべきはあんたらの筈だがね」
「か、飼い主に責任はないと申すか」
「少なくとも法令にそんな記載はなかった筈だぜ。御犬請負人なんて商売をしているんだ。飽きるぐらいに条文は読んでいる」
「むむ……」
「ついでを言うと、町奉行には飼い犬登録は済ませている。何を間違ってかは知らぬが、縛につかねばならぬ理由は俺にはないということよ」
「ふ……」
同心は俯く。
「理解したようだな。ではお引き取り願おう。夜中に叩き起こされて俺も眠いんでな」
計之進は欠伸を押さえるように手を口元にやった。
すると、人間の耳では捉えることができない音域が廃寺を中心に広がった。役人たちに見えぬように計之進が犬笛を鳴らしたのだ。その場にいる誰一人、その音に気付いた者はいない。廃寺の奥、月光に映る計之進の影の上で警戒態勢を取っている獣以外は。その音を示す意味をあえて言葉にするならば、こうであろう。
“まだ待て”
同心の口から哄笑が響いてきた。
「ハハハ! そうはいかん。一応、捕物出役である以上、捕縛の理由を説明してやろうという拙者の好意であったのが、聞く耳持たぬのならそれでも良い。これはな、御犬支配役である久世重之(くぜしげゆき)様ご直々のご下命である。時計之進はお白洲を通さず伝馬町行き。飼い犬である黒犬は、中野犬屋敷行き。いくら喚こうがそれはもう決まっていることだ!」
ずあっと計之進の髪が波打ちだったように役人たちには見えた。計之進はまるで悪鬼の如く怒りに満ちた顔つきになった。役人たちが照らす炎が揺らめき計之進の顔は、地獄の羅刹そのものだった。
役人たちの間にひぃっという声が上がる。
しかし、計之進の口から発せられた声は思いの外、静かであった。
「……つまり……、俺と影狼(かげろう)を引き離そうというのか。貴様等……」
「ひ、引き離すどころではないわ! お白洲抜きということは、吟味など必要ないということ! 貴様は死罪よ! 何の罪かは知らぬがな、この世とおさらばの身だ!」
「ク……、何故いつもこうなるのかな。何故俺を放っておいてくれんのだ」
「もはや、口上の必要はない! 皆の者、奴を捕縛しろッ!」
役人たちは一同に刀を抜く。その数は三十は下らない。
「俺は、ただ影狼と静かに暮らしたいだけなのに、な……」
「かかれッ!」
「影狼ッ!」
同心と計之進の叫びが重なり、廃寺の奥から黒い大きな塊が十手で段上の計之進を打ち込もうとする同心目がけて躍動してきた。
「ぐぉおっ!」
黒い塊は同心の首に齧り付き地面に縫い付ける。ぐちゃぐちゃと嫌な音が聞こえてきた。組み敷かれた同心は十手を黒い塊の腹に突き上げるが、びくともしない。そのうち、十手を取り落としても地面と黒い腹を力ない拳が反復するが、それもぴくりとも動かなくなった。
黒い塊は、それを確認すると役人の群れに向かって頭を上げた。同心の血で濡れた鋭い牙をその大きな口から覗かせている。
それは、大きな犬であった。ただの犬ではない。二つの大きな瘤が角のように額から生えていて、眼は充血して真っ赤に光っている。体全体が黒光りする程、脂を湛えた獣毛で覆われている。計之進を地獄の羅刹とするならば、地獄の番犬といったところである。
段上から計之進が降りてくる。役人たちの耳にはミシ、ミシとぼろぼろに朽ちた階段の音が妙に響いた。
計之進は、黒い塊に身体を向けてしゃがんだ。
「よぉし、よし。影狼よ。それぐらいにしておけ」
そう言い、影狼と呼ぶ黒犬の首を揉む。
黒犬は堪能するかのように眼を細め手の動きに身を任せている。
「まだ、腹を一杯にすることはない……」
計之進は口元を綻ばせ、役人一同を見渡した。影狼もそれに倣う。
「餌は……まだまだたんまりとあるからな……」
影狼はまるで計之進の言うことを判っているかのように、役人たちを餌として見るかのように目付きで見て、ぐにゃっと大きな口を歪ませた。それは、まるで嗤っているかのように役人たちの眼には映った。
絶叫が役人たちを包んだ。恐怖に包まれた彼らの取った行動は、恐怖の元の排除であった。三十人もの人数が一斉に計之進等を襲ってくる。
刹那、計之進は身体を回転させた。最前列にいた役人たちは体勢を崩す。何が起こったのかと己の足下を見ると、地面を直立している足首が見えた。だが、そこから上はなく、代わりに紅い歪な円があった。ぎ、ぎぁやああああああ……! 最前列にいた6人の男たちの両足は綺麗に切断されていたのだ。
後方に詰めていた役人たちは急に地面へと臥した同輩に足を囚われ、次々と転倒してゆく。
彼らは転倒しながらもただちに迎撃態勢をとるべきだった。しかし、江戸の治安を守る者とはいえ、太平の世を続く当世、命のやり取りの経験が乏しい彼らに血戦場において、僅かな隙が己の生命が滅消することになるなど判りようもなかった。判る機会もなかった。そして判った時にはその生命はこの世からおさらばしていた。
影狼の鋭い牙が、あまりの痛みで泡を吹いてのたうち回っている役人たちの身体をすり抜け、眼にも止まらぬ速さで首に短刀を突きつけていた。いつの間にか影狼の口から血に塗られた短刀ががっちりとその牙で固定されていたのだ。
ものの数分で、一列六人六行で隊列を作っていた前二列は先頭不能に陥ってしまったのだ。後四列の役人たちは流石に踏みとどまっている。
だが、計之進は倒れ伏してまだ息のある役人たちを一人一人まるで団子を串で刺すかのように刀で刺し殺し始めた。
「我流だからな、俺と影狼の刀は……」
ザク……ザク……と頭が貫かれる音が、静かに、重く響く。
「一度振るえば殺さずにおけない。双頭流と呼んでいる」
ザク……ザク……
「貴様等が仕掛けてきたことだ」
ザク……
「この不条理な世で俺たちが唯一平等に持っているもの……それが命だ」
前列最後の一人が涙を湛えて計之進を地面から見上げる。
「た、助けて……」
「貴様等は、それを不当に奪おうとしたのだ。奪うだけならまだしも、影狼と引き離した上で俺を殺そうとした。孤独の地獄を俺に味わらせて殺そうとしたんだ」
「お、お上直々のご下命だったんだ……。た、頼む……殺さないでくれ」
「影狼は俺の半身だ。俺たちの命と貴様の命……、天秤にかけたらどちらが傾くか言うまでもあるまい」
ザク……助けを乞う呼び声が聞こえなくなった。
「貴様等、全員の分を足しても影狼の命には及ばないな!」
殺戮が始まった。計之進と影狼の連携はほとんど一分の隙もないほどであった。まず、影狼の短刀が野獣の素早さを以て大人数の足の健を切断してゆく。あとは計之進が確実にトドメを刺す。役割は臨機応変に自在に変化する。彼らのそれは剣術と呼んでいい類のものではなかった。相手の四肢を奪い確実に命を奪う、徹底した命獲り。計之進と影狼からすればそれは狩りだった。
屍骸の山が築かれてゆく。計之進も影狼も真っ赤に染まっているが、ほとんどが返り血だ。計之進と刃と交わすこともなく死にゆく役人たち。そこに初めて刃がかち合う音が響いた。
双頭流を逃れたその男は、眉目頑健。岩のように厳格な顔をした男であった。この時代既に形骸化した武士道を体現したかのような男だ。
「貴様の剣は邪流だ。武士たる者が振るう剣ではない」
「ぬ、少しはやる奴もいたか」
「名乗らせて頂こう。拙者は津山藩士、樋口藤左衛門(ひぐちとうざえもん)と申す」
「どけい。貴様一人にかかずっている暇はない」
「全て切り伏せたとして、貴様に生きる道はないぞ。しばらくしたら増援を呼び行った者が戻ってくる。墜ちたといえど、お主も武士の生まれであるのならば、あの奇怪な黒犬を引かせて拙者と尋常に立ち合え。せめて、武士の花道を飾らせてやる」
鍔と鍔が噛み合った硬直状態は、徐々に武士の方が押し始めてきた。疲れもあるが、御犬請負人では雀の涙ほどの金銭しか得られない。ここに来て日頃の極貧生活の付けが回ってきたのだ。
影狼はといえば囲まれて分断させられている。素早さで翻弄はしているものも、さすがに多勢に無勢の頃合いとなってきた。
「……ふふ、果たしてそのゆとりがあるかな? ぶっ……!」
血霧が樋口の両目を塞いだ。計之進は舌を噛み口腔に溜めた血を一気に噴き出したのだ。よろめく樋口を計之進は斬り上げた。
「がっ……!ひ、卑怯な……」
「ごほっ……!げほっ……!が、がげろう!」
蹌踉めきながら影狼の元へ刀を振り上げながら駆け寄っていくなか、計之進の身体に衝撃が走った。森の中から火縄銃を構える男がいた。血反吐をまき散らしながら計之進はどうっと地面に臥した。意識が混濁するなか影狼の悲痛の鳴き声が計之進の頭に木霊した。
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