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「状況がここまでよじれるとは、奴らも相当焦っているようだ」

 ハンドルを握りながら、麻戸はそう言った。車の速度は一般的な巡航速度に落ちている。助手席に腰掛けて、前のめりになった黒瀬は、どうしても収まらない荒い息に苦しんでいた。どうぞ、と麻戸が何かを差しだした。蓋を開けた缶コーヒーだった。今この状況で、こんな物が出てくる事自体が、酷く牧歌的でアンバランスだと思った。

「多めに飲んでください。落ち着くはずです」

 彼の言った通りだった。甘い物が喉を通ると、荒くなった息も次第に落ち着いていった。

「……何なんだよ、何なんだよ、ジョーが――どうして殺されなきゃいけないんだ」

「V-tecLife社の報復・特殊工作部隊SADです。社の秘密を守るために殺害したのでしょう。彼らも一枚板ではない。社の一部が暴走して、やっきになって殺害した」

 あんな銃撃戦の後なのに、麻戸は全く平静な声でそう言った。

「V-tecLife社は前身のミコト・セキュリティサービスの軍事的側面を引き継いだままです。あのフリーライターは優秀でしたが、サーバーの秘密を知ったのはやり過ぎでした。結果的に彼らを刺激しすぎてしまった。秘密を守るためなら、奴らは何だってする」

 唇を噛む彼を見つめる。

「……お前、誰なんだ」

 赤信号にぶつかって、車が停止した。反対車線を、パトカーが駆け抜けていく。横断歩道を行こうとした人々がそれを物珍しそうに見送った。さっきの銃撃戦の通報で向かったのだろう。サイレンの音が遠ざかり、人々が再び歩き出した時、麻戸は小さなため息混じりに言った。

「……私の名前は晴。天田 晴」

 思いも寄らぬ言葉に、黒瀬は彼に顔を向けた。見開かれた目を見て、麻戸は言葉を重ねた。

「すみません。あなたの事をずっと監視していました。あのフリーライターから、私の正体はもう耳にしたようですね」

 彼は自嘲気味にそうつぶやいた。

「そう、私はPlay fun!12の開発に中枢的役割を果たした張本人。ランドウォーリア計画をミコト・セキュリティサービスで推し進めた技術者の一人です」

 思わず、弾かれたように麻戸――いや――天田の胸ぐらにつかみかかった。

「お前――!! お前は何をやったんだよ!? 教えろ! アウターワールドは、爺さんは、鴉隊SADは――――コーディはなんなんだ!? どうしてこんな事になったんだ!」

 天田は能面のように表情を変えなかった。やはり、あなたと一緒にいたんですね。そう言った。黒瀬は困惑する。こいつ、事態の中心にいたんじゃなかったのか? まるで蚊帳の外にいたかのような事を言う。

「この事態を引き起こしたのは私じゃない。確かに私は種をまいた。恐ろしい悪魔が生まれる種を。種は成長し、今この世界を飲み込もうとしている。この事態を招いたのは私です。ですが……事態を引き起こしているのは私ではありません」

「お前、ふざけてんのか……!? 知ってる事話せよ、全部!!」

 胸ぐらを握る力を強める。「話しましょう、全て。ようやくその時が来た」その手に、麻戸は太く節くれ立った手を重ねた。彼のつり上がった目は、力を失って、全てをあきらめてしまったような、悲しい光を宿していて、黒瀬は思わず、握る手をゆるめた。







 40年前、人々が知る極東戦争という目に見える(内側)の歴史の裏側では、誰にも知られない戦争があった。


 外側戦争アウター・ウォーと呼ばれたこの戦争は、核兵器が抑止力としての意味を失った21世紀初頭から既に行われていた戦争で、40年前には激しい抗争に発展していた。激化した情報戦は暗殺の応酬となり、泥沼化していく――――私の妻も、その渦に巻き込まれ、死にました。

 SADとして外側戦争に参加していたあなたのお爺さんは、フォース22計画に参加した末に、現実と仮想世界の区別がつかなくなり、発狂した。妻を失った復讐心から、フォース22計画をしゃにむに主導していた私は、発狂した彼の姿を見て、ようやく我に返った。システムには重大な欠陥がある。強い依存性、現実感の喪失、妄想、脳の一部機能の肥大化――――

 私は慌てて実験の――――計画の中止を訴えた。ですが、外側戦争に頭の先まで浸かっていた政府と軍は、私を計画から追放し、秘密を口外しないようSADによる監視までつけた。それは下手な事をすれば殺すという、脅しだった。私は何も出来なかった。自分の無力さに気づくと、私は廃人同然になりました。失ったものが、大きすぎた――――

「――――脳です」

 ハンドルを握った麻戸は、唐突にそう言った。脳。ファミレスで落ち合ったジョーも、それを口にしていた。

「脳?」

「そう。フォース22計画の、仮想現実を実現するシステムには、現実をシミュレートするための膨大な情報を処理する情報処理装置サーバーが必要だった」

 サーバー、初めてジョーにあった時の事を思い出した。彼は言っていた。それは都市伝説であると。全世界26億人もの人間の情報を維持し、処理するためのサーバーは現実的に製造不可能なはずであり、それにもかかわらず、アウターワールドは平然と運営されている――――

「……確か、ジャーナリストのレポートにもあった。結局サーバー問題を解決できなくて、フォース22計画は頓挫したって」

「解決したんです……私が、そうした。唯一の答えは、人間の、脳だったんです」

 麻戸が握るハンドルが、軋む音を立てる。握りしめた彼の手が、立てた音だった。


 当時、国際共同研究で進められていた脳の解析計画は、既に計画の七割以上が終了していました。解析はほとんど終り、完璧なシミュレーションができるデータまで収集できていた。しかし、それを情報処理機器コンピュータ上で再現する事は出来ませんでした。当然ながら、脳はコンピュータをはるかに超える処理能力と、記憶領域、その他あらゆる点で、電算装置コンピュータを凌駕していたのです。そしてフォース22計画の完成にとりつかれていた私は、それに目をつけた―――

「機械は脳を超えられない。それこそはつまり、脳こそが機械を超える究極的な情報処理機器になり得る可能性を示唆している――――私はそう考えたのです」

 黒瀬はその言葉の意味に気づくと、唖然として麻戸に視線を注いだ。隣に座る男が恐ろしい悪魔である事に驚愕し、喘ぎのような、うわずった声を上げる。

「まさか……アウターワールドのサーバーって……」

 麻戸はゆっくりと目をつむり、胸の内に巣くう何かを反芻するように、頷いた。

「脳です――私の、娘の」

 黒瀬は胸の内からせり上がる、根源的な怒りに駆られてつぶやいた。

「狂ってる……! 人間の、それも自分の娘の命を弄ぶなんて――人間のやる事じゃない!」

「あなたの言う通りです――私はあの時、人ではなかった。妻を失った復讐心を地獄の祭壇に捧げた、悪魔そのものだった」

 信号に捕まった車が停止する。信号から注がれる紅い光が、麻戸の顔に深い陰影を刻んだ。

「発狂したあなたのお爺さんを見た時、私は初めて自分が犯した恐ろしい所行と、その罰の可能性に気づいた。ですが、全ては手遅れだった。国によって徹底的に計画から追われた私は、サーバーと化した娘の体と、命をも奪われた。全てを失って、私はようやく妻を失ったあの時、自分がすべきだった事を知った。私は外側戦争に荷担などせず、たった一人残された家族を……娘を、精一杯愛し、守るべきだった。なのに、私は――――」

 麻戸の硬く凍り付いた表情が、小刻みに震えていた。かすれた声が、微かに湿っている。

「そして戦後――空っぽになっていた私の前に、彼が現れた」

「彼?」

「――――あなたのお爺さんです」

 黒瀬がはっと目を見開く。信号は変わる。車は走り出し、黄昏の暗がりが、黒瀬にかかる。


 奪い返そう。彼は私にそう言いました。

 私は彼と共に、ある計画を立てました。当時、フォース22のシステムは、国によってあろう事がアウターワールドという名のゲームとして世界に蔓延させられようとしていました。運営していたのはミコト・セキュリティサービスが名を変えただけの、V-tecLife社。戦争が終わり、もはやお払い箱となったシステムを民間の市場にながしてリサイクルしようとしていたのです。私たちはシステムを彼らから奪おうと考えた。あなたのお爺さんにとって、これは復讐でした。私にとって、これは娘を救う最後のチャンスでした。そして実行に移された計画は全て順調にいった。

「ただ一つ――娘が現実に帰るのを拒んだのを除いて」

「拒んだ……? なんで、現実に戻れるチャンスだったんだろ」

 麻戸は力なく首を振った。深く、暗い感情がにじみ出た所作だった。

「遅すぎたんです――――あの子に目を向けるのが。あの子は現実を拒否していた。突然母親を失ったショックが、10年経ったその時まで、彼女を苦しめ続けていた。もし、もし私が、復讐心を耐え、本当に大切だったはずの、あの子の心に目を向けていたら、そうなる事は防げたかも知れない。ですが、全ては手遅れだった。あの子は現実を見ない。あの子にとって、アウターワールドは直視したくない現実への唯一の逃げ場。本当は母を失った苦しみと向き合わなきゃいけない事は知っている。だが……誰も自分を救ってくれないと彼女は思っている。あの時、私が彼女を見捨てたように、誰も、自分を救ってはくれないと――――」

「……サーバー自身がアウターホリックになったって事かよ」

 麻戸は静かに、頷いた。黒瀬は言葉を失って、シートに背を落とした。かける言葉など無い。自分の短い人生の、わずかな経験で、この悲劇に差し出せる答えなど持ち合わせていなかった。

「彼女は脳内の成長ホルモンの分泌も止まり、寿命を決定するテロメアも、凍結していた……つまり、彼女は生命維持装置が動く限り、死ぬ事も、成長する事もなくなったのです」

 それはつまり、永遠に機械のままだという事を意味する。

「私はあなたのお爺さんに言いました。システムを破壊するしかないと。彼女を永遠に機械につなげるくらいなら、いっそ――――彼はそうする事を予想していたようでした。システム全体に、あらかじめ用意していた自壊プログラムを仕組んだのです。彼女の命が、ゆっくりと終るように……。プログラムによって機能不全に陥ったシステムは、アクセスしているプレイヤーを巻き込んで、崩壊していく。これが、アウターホリックの正体です」

 「これを」と、麻戸は黒瀬の前に薄いプレートを差しだした。ホログラムプレートだ。手にすると、一人の男の姿が、立体写真で浮かび上がった。途端、声もなく、黒瀬は息をのんだ。

「あなたのお爺さんが、部隊と共に行方不明になってから、発見された当時の写真です」

 美しい砂浜に、墨汁を垂らしたように一人の男が立っている。真っ黒なその立ち姿は、イジェクターの姿そのもの。だがその顔にかぶっているのはガスマスクではない。死体からはぎ取った本物の頭蓋骨で、頭から顔面をすっぽりと覆っていた。記憶が引きずり出される。嘲笑を上げるあの口角の持ち上がった髑髏。自分を撃ち、あざ笑い、そして、彼女を連れ去った男。

World・makerワールドメイカー……!?」

 麻戸は、静かに頷いた。

「彼は、あなたのお爺さんなんです」

 そんなはずがあるわけない。写真を持つ手が震える。祖父はもう、死んでいるのに。

「あなたのお爺さんがもっとも恐れていたものが二つあります――死と、心変わりです」

 麻戸は低い声で、懺悔するように言葉を紡ぐ。

 おそらく、お爺さんは初めからサーバーを……私の娘を殺す気でいた。自分から現実を奪った者に、自分の苦しみを知らしめようとした彼は、世界中を巻き込んだテロを企てていたのです。サーバーを破壊する事で、アウターワールドに接続している全てのプレイヤーを同時多発的にアウターホリック化させようと考えた。それは彼にとって、まさに現実への復讐だった。

 そしてその彼が最も恐れたのは、その復讐心が時間と共に色あせてしまう事。プログラムは遅効性で、接続するプレイヤーが飽和状態になってから崩壊するように設定されていたため、崩壊には長い年月がかかる。その長い年月の間に、現実感を喪失した自分の苦しみ、そしてそれを与えた現実への憎しみ。それを失ってしまう事を恐れた。事実、私はこの長い年月の間に復讐心が折れてしまった。システムは問題なく運用されていたし、きっとあなたのお爺さんも復讐心をすり減らして、自壊プログラムの進行を停止したのだと思っていました。

 ですが、かつてのあなたのお爺さんの怒りは、そんな時の流れの微かな優しさすら、拒絶した。将来の自分が、今の自分を裏切って復讐を思いとどまったりしたら、代わりにその志を継ぐ存在として、自分に代わって自壊を促進する「もう一人の自分」を作り出したのです。アウターワールド内のどこかに、当時の自分の脳そのものを転写コピーし、それを計画遂行の保険とした――――

 黒瀬は眉根を寄せた、息をのみ、かすれた声でまさかとつぶやく。

 麻戸は、そう、と頷いた。

「おそらく、それがあなたの遭遇したWorld makerワールドメイカーの正体です」

 全身から力が抜けた。嘘だろ、力なくつぶやく。じゃああれは、あの邪悪さがにじみ出る男は、かつての祖父だったというのか――――ふと、思い出す。自分と全くうり二つの、あの顔。祖父と自分は、どこか似ている所があると思っていた。だがまさか、若かりし頃の祖父の姿が、自分とまったく同じだったとは思いもしなかった。あんな、悪魔のような表情の男と――――

「おい、待てよ……まさか、じゃあ爺ちゃんが死んだのって……」

 麻戸はやはり、浅く何度か頷いて返した。 

「彼は結局、自分が恐れいていた通り、心変わりをしてしまった。プログラムの崩壊を止めようとし、かつての自分自身ワールドメイカーに殺されたのでしょう」

 麻戸はふっと息を吐き、

「おそらく、彼も自分がくみ上げたプログラムですし、あの性格ですから、完璧な対策を講じていたはずです。ですが、なんらかのイレギュラーな事態が起きた……創造者(プログラマー)の想像を超える、予想外な何かがワールドメイカーに生じていたのだと思います。ですがそれは、もはやあの保険ワールドメイカーを止められる有効な手段が誰にもわからなくなったのを意味します」

 黒瀬は話半分にしか天田の言葉を聞いていなかった。訳もなく体が震え、涙がにじんだ。優しく、厳しかった祖父の面影が何度も脳裏を過ぎる。両親が見捨てた自分を、祖父は見捨てなかった。過保護にもしなかった。ただ、見守っていてくれた。間違った時は厳しくしかってくれた。人生で唯一、自分の事を思いやってくれた人だった。それなのに、それなのに―――

「おそらく、あなたなんでしょう」

 麻戸が唐突にそういって、黒瀬は「え?」と顔を上げた。

「彼が心変わりをした理由です。あなたは幼い内にPlay fun!12が脳に導入され、それが原因で左手と左足の自由を失った。苦しむあなたの姿は、お爺さんの目には自分の姿として重なったのだと思います。システムによって人生を歪められた者の声なき慟哭。それで、自分の醜い姿に気づいた――――かつて私が、発狂するあなたのお爺さんを見た時、そうだったように」

 祖父の優しい手と、柔和な微かな笑みを思い出す。どこか戸惑いがちにさしのべられた手、陰が落ちた悲しげな笑み。その答えが今、全てわかった。あの優しさは、懺悔だったのだ。償いだったのだ。Play fun!12を導入した自分がいずれ死ぬのを悟った祖父は、プログラムを止めようと決意し、そして、ワールドメイカーに殺された。

 ――――殺されたのだ。

 自分の腹の底で、何かがうなり声と共に頭をもたげたのを感じた。熱い。腹の底が、熱い。沸騰した力が全身にあふれかえり、ぎちぎちと音を立てる程拳を握りしめた。何をするべきが、何をしなくてはいけないのか、それが自分の進む先にようやく姿を現した。駆け出す準備はいつでも出来ていたのだ。ただ、進む先が見えなかっただけで。今、まばゆい程のどす黒い光を発して、自分の進む先に奴が現れた。そいつは笑っている。嘲笑だ。不気味な髑髏の下で、ニヤついた笑みを浮かべている。

「あいつを止めるにはどうすればいい」

 噛みしめた奥歯の隙間から吐き出した言葉に、麻戸は一瞬視線を向けた。

「方法は一つ。サーバーにアクセスし、私の娘を現実世界へ排出(イジェクト)する事。そうすれば、アウターワールドそのものが崩壊し、アウターホリックを人為的に発生させる事も出来なくなる」

 サーバーそのものをイジェクトする、という事か。しかし、それには大きな問題がある。

「アクセスする方法が無い。俺はネットワークに接続する事も出来ないんだ」

 それです、と麻戸は言った。

「あなたが現実世界にロックされたのは、あなたの脳に導入されたPlay fun!12に、全てのサーバーに対する優先アクセス権があるからです。本来娘の脳(サーバー)にはプロテクトがかかっていますが、あなたのPlay fun!12ならそれを越えてアクセスする事が可能です。ワールドメイカーがあなたからコーディを引き離し、Play fun!12を破壊しようとしたのは、あなたが奴の計画を妨害する唯一の可能性だったからです」

 ふと、体にゆっくりと慣性の力が働き、シートに脊を押しつけられた。交差点の信号は青だったが、サイレンが聞こえたのだ。けたたましい音が近づくと、停止した車の前を、赤色灯を回転させた濃緑のトラックが、列を成して横切っていった。見上げる程背の高いトラックは、荷台のホロをばたばたと鳴らしながら、次々と交叉点を駆け抜けていく。ホロの影から、完全武装した兵士達の姿が、漏れ見えていた。

「あぁ……日防軍の離反部隊。V-tecLife社の制圧に動き出したようだ」

 非日常的な光景を呆然と見送っていた黒瀬は、麻戸の言葉に目を細める。

「日防軍? V-tecLife社って……ワールドメイカーに関係あるのか?」

私の娘サーバーを有しているのはV-tecLife社です。ワールドメイカーによるテロを阻止するため、日防軍にいる私の仲間が、サーバー確保にうごいているのです。V-tecLife社は水面下で今も軍事組織SADを有しています。確保を強行した場合、向こうがどういう対応するのか、予想がつきません。"最悪の場合"を想定しなければ」

 非日常的な光景。非日常的な話。現実の世界が、白昼夢のように輪郭を失っていく。最後の一両を見送った麻戸は、アクセルを踏み込みながら、言った。

「あなたのPlay fun!12を、私の脳に移植してください」

 自分の反応は酷く緩慢だったと思う。なんだって? そう聞き返した声は、かすれて、棘を帯びていた。

「あなたはネットワークに接続できない。外部からサーバーにアクセスする事が出来ない状況です。こういった状況に備え、システムの中枢にアクセスする方法として、直接サーバーに赴いてアクセスする方法が残されてはいますが、これには危険が伴う。敵もこの方法を見越して、まちがいなく強固な防衛線と罠を仕掛けているはずだからです。飛び込むのは自殺行為だ」

 黒瀬は勢い込んで身を乗り出し、 

「それがどうして移植って話になる」

「あなたの優先アクセス権を、ネットワークに接続できる人間に移さなくてはいけない。そうすれネットワークから敵の懐に飛び込める。そして、彼女サーバー排出イジェクトは、システムを知り尽くしている私が、実行する。軍のバックアップもある。ワールドメイカーがどの程度の力を有しているにせよ、これなら十分に対抗できるはずです」

 黒瀬の瞳が揺らぎ、視線が微かに落ちる。その目は現実をとらえていなかった。ここではない、どこかを見ていた。自分がこんな事態に巻き込まれるなんて、一ヶ月前には思いもしなかった。これは本当に現実なのか? 自分の脳から機械デバイスを引きずり出さなければ、世界中の人が死ぬ? 世界が崩壊するっていうのか? 今日まで、代わり映えしない"日常"をつむいでいた、この世界が? そんな物を背負い込んでいるなんて、とても信じられない。

「――――」

 だが、唯一信じられる現実。

 創造主ワールドメイカー

 奴の凶悪さは、身をもって知っている。奴を世界に解き放ってはいけない。生かしておいては、奴はその歪んだ目的のために全てを破壊する。奴は祖父を奪い、アウターホリッカーを殺し、自分を殺そうとして、そして、

 ――――……そして、コーディを奪った。

「教えて欲しい事がある」

 それは、体のずっと深い所から吹き出しているような、何の装飾もない、純粋な想いだけがこし出されたような声音をおびていた。

「これでコーディを救えるか」

 麻戸は一瞬だけ、視線を黒瀬に向けた。ただ、目の前だけをじっと見つめ続ける黒瀬の目は、陰鬱な鋭さが失せ、ただ自分を飲み込まんとする現実の圧倒的な姿に、たった一筋の活路を見いだそうとする力だけに鋭く、鋭く、尖りを帯びていた。

「――――できます」

 麻戸の言葉も、何の装飾も帯びていなかった。混沌を切り開こうとする確信だけに支えられた力強さが、その言葉を形作っていた。黒瀬は「なら、やろう」とつぶやいた。麻戸はそれを横目で流し見て、何かを確信するように、浅く、何度かうなずいた。

「驚きました。危険リスクを確認しないなんて」

 黒瀬は表情を変えず、ただじっと、眼前の世界を、見つめ続けている。

「一応、危険リスクを説明しますか」

「どんな危険リスクがあろうが、関係ない。死のうが生きようがしったことかよ。俺の脳ならくれてやる。奴を殺して、コーディを救うためなら」

 ただ何もせず、世界が崩壊していく様を怯えて見ているくらいなら、何もかも犠牲にしてでも、コーディを救う為の何かをしたかった。そう思える自分に少し驚き、そして、彼女と出会う前の自分から、たくさんの事が変わったのだなと、思った。

「それでは……まず、これから日防軍が用意した緊急医療病院に向かいます。そこで開頭手術を受け、Play fun!12をあなたの脳から剥離し――――」

 麻戸の説明が、まどろむように耳に漂ってくる。黒瀬はじっと外を見つめ、物思いにふけっていた。もうすぐ、終ろうとしているのだ。祖父の死からはじまった、この奇妙で、不可思議で、自分を奮い立たせてくれた、濁流のようだった日々が。その日々を反芻し、時折フラッシュバックする、彼女の笑顔を想った。

 窓の外には黄昏時の街並みが流れている。白々しい植林の緑と、無機質な灰色の高層ビル、街灯の光に照らされて、帰途につく人群れが、ざわめきながら行き過ぎる。つまらない平穏。代わり映えのしない日常。それがいつ崩壊するかわからない、薄皮一枚の上に出来た砂の城だったなんて。道行く人々の笑顔、街頭の沸き立つようなイルミネーション、ディスプレイで派手に宣伝される商品達、それを眺める人々の、無機質な好奇心の目。だがこうしてみると、確かに、springの言う通りだった。そう、この世界はまさに、作り物だった。

『夕方のニュースです』

 ディスプレイに、アナウンサーの姿が映った。

『人気ゲーム"THE LAST WAR MISSION"に接続したプレイヤーが、一時意識不明になるなどの重篤な中毒症状に陥った事故を受けて、厚生省は今日、アウターワールドの利用に制限を設ける案があることを、AFPの取材で明らかにしました』

 途端、街行く人々の視線が、ディスプレイに集まった。彼らは皆一様に不満げな顔をして、口々に不満を口にしあう。拡張現実ARが、彼らの傍らのウィンドウに文字を描いた。『なんでアウターワールドが?』『規制反対!』『イジェクターがいるから大丈夫だろ?』『俺たちのアウターワールドを守れ!』『イジェクターが政府を倒すはず』『私はアウターワールドが好きです、どうして好きな気持ちを認めてくれないの?』

「…………」

 誰もが仮想ヴァーチャルな世界に目を向けている。

 きらびやかなイルミネーション、夕刻に花開くディスプレイの光。拡張現実と外側世界アウターワールドで、人々の目はいっぱいだった。ニュースは『反対の声が、現在も多く上がっています』とお茶を濁すと、雰囲気をさっさと変えて、動物園でペンギンの赤ちゃんが生まれた話をする。人々はすぐに、前のニュースを忘れた。また、笑顔を浮かべて、跳ねるような雑踏の音を、楽しげに奏で始める。

 その時――――何か、違和感を感じた。

 滑らかな群衆の流れの中に、瘤のような人群れがぽつぽつとできている。

 そして流れゆく街並みは、唐突に一時停止した。

 眉をひそめた。思わず腰を浮かす。黒瀬と麻戸の眼前で、今の今まで歩いていた群衆が、ぴたりと停止する。次の瞬間、突如次々に人々は崩れ落ちた。かろうじて数名、倒れなかった人々が、何が起こったのかわからないといった様子で、おろおろと周りを見渡している。倒れた者の名を呼ぶ声、悲鳴。それが無声映画のように、窓の外で再生される。

「なっ……なんだよこれ! なぁ、何かが起きてる!」

 ようやく声に出した黒瀬の隣で、麻戸が人々が折り重なっているその惨状に食い入るように身を乗り出して、窓の外に目をこらした。

「これは……まさか、」

 黒瀬は天田に車を止めろと言おうとして顔を向け、だがその瞬間、さっと冷水を浴びせかけらたように表情を歪めた。

 よそ見をしている麻戸の傍らの窓に、突如進路をむちゃくちゃに歪めたタンク車が、対向車線からこちらへ突っ込んできているのが写りこんでいる。運転席でハンドルに顔を埋めた男の姿が、一瞬だけ視界を横切った。

「な――――前ッ!!」

 天田がはっと目を向けるが、既にタンク車は横転しながらこちらに突っ込んで来る所だった。ハンドルを切った途端、すさまじい遠心力が黒瀬に襲いかかり、シートベルトが助骨の隙間に食い込む。窓の外の景色があっという間に流れ、スピンして車が横から突っ込んだ瞬間、車体がへしゃげる金切り音と、耳をつんざくガラスの破砕音が黒瀬をもみくちゃにした。吹きかかるガラスの破片の中で、天田の叫びと、必死に自分を守ろうと伸ばされた手の感触を感じた。その手の感触は、祖父の温かい手とよく似ていた。


  

 

 気がつくと、すぐそこに火が迫っていた。

 半覚醒のぼんやりする頭を、悲鳴を上げた本能がぶるぶると振った。意識がクリアになると、視界を覆う真っ黒な煙と、濃密なガソリンの焼ける臭いに息が詰まった。むせながら、シートベルトを外そうとした。ジョイント部に何か噛んでいるのか、全く外れる気配がない。フロントで吹き上がる炎で、頭がいっぱいになる。その時、握りしめていたシートベルトの間に、ナイフが差し込まれて切れられた。天田だった。彼は額から血を流し、割れたグラスウェアの破片が目に突き刺さっていた。

「行きなさい」

 彼は弱々しい声を絞り出す。

「行くんです、早く」

「何言ってんだよ――――これ、脚が」

 天田の脚は、つぶれたダッシュボードの間に挟まっていた。何とか引き抜こうとするが、片腕の力だけでは抜けそうもない。フロントで上がる炎のオレンジに顔の半分を染め、麻戸は手を伸ばす黒瀬の腕を押しやった。

「私はいい。ここから出るんです」

 無理矢理に、手をこじ開けられて、何かを押しつけられた。見ると、黒金の回転式拳銃リボルバーが手の中で静かに眠っている。麻戸は本気だった。本気で、黒瀬を一人で逃がすつもりだった。それがわかった。愕然とする。目を剥き、叫んだ。

「何言ってんだよ――あんたがいなきゃ、ワールドメイカーは止められないんだろ!?」

「こっちの目論見なんて、最初(はな)からわかってたんだ、奴は」

 シートに背を預け、うつろな目で天を仰いだ麻戸は、舐めるように迫る炎に照らされながら、あえぐようにつぶやく。

「二人揃った所を、まとめて、殺すつもりで、あなたを逃がした――あぁ……事故に見せかけた暗殺か……我々SADの、得意なやり方だったな」

 自嘲を浮かべ、うわごとのようにそう吐き出す。瞳に宿っていたはずの意識の光が、かすれがかっている。彼の足下を見ると、どこかからの失血が、倒れたグラスからこぼれる水のように滴っている。焦りに背を押された。黒瀬は必死に麻戸の傷口を探し、動く左手で噴き出す血を押さえようと力をこめた。

「おいしっかりしろよ! 眠るな、目を開けろ!!」

「……このままでは、あなたも殺される」

 霞がかった意識と、現実の狭間に揺れる、剣呑な瞳が、黒瀬に向けられる。麻戸は胸元に手を差し入れ、そこから、金色のロケット・ペンダントを取り出した。

「――――逃げてください、あなたは、この事態を止める最後の鍵なんです」

 こちらをじっと見据える目には、揺らぎようもなく固く踏み固められたかたくなな意志があった。その目が物語っているものに気づいた時、叫んだ。なに、言ってんだよ。もう何度も繰り返した言葉を、叫ぶ。

「あんたがいないとサーバーにもたどり着けないんだろ!? コーディを助けられないんだろ!! なんとかしてくれよ!!」

「……あなたは知ってるんでしょう、"彼女"を」

 黒瀬の怒声を押しのけて、麻戸は静かに言った。

「彼女って――――」

「システムの中枢たる"彼女"にアクセスできるのは、全てのアクセス権を有している者だけ。それはあなたのお爺さんを除けば、一人しかいない」

 あなたです。困惑する黒瀬に、麻戸の喉が、空気を震わせる。

「アウターワールドという巨大で空虚な世界で、かつて"彼女"が触れ合えたはあなただけだったんです。"彼女"はたった一筋差し込む光に導かれるように、あなたの元にたどり着いたはず。あなたはそれを、知っている。記憶の底にしまい込んだ"彼女"の温もりを、あなたは覚えているんじゃないですか――――」

 炎がすぐ側に迫っている。こんな話をしている場合じゃなかった。なのに、体は逃げ出す事を拒否していた。

 動かないはずの左腕に、ずく、ずく、ずく、と、静かな熱が、こもり始めていた。

「よく思い出すんです。幼いあなたの脳はPlay fun!12を拒んだかも知れない。拒絶反応はあなたの記憶を奥底へとしまい込んでしまった。でもあなたは忘れてはいない。知っているはずです。かつて彼女は、あなたと共にあった」

 理性は何も知らないと嘯く。だが、体が叫んでいる。左腕が、熱でうずく。覚えているぞと。

 脈打つ記憶が、黒瀬の左腕を熱く熱する。眠っていたかつての大切な思い出の表面が、さざ波立つ。

 ぶるぶる震える手の表面に、誰かの手の、微かな温もりが蘇る。

 はっとした。幼い頃の記憶と共に――――手足をバカにされていじめっ子達と喧嘩をした時、健常者に負けたくなくて溺れそうになりながらプールで泳いだ時、母親が夜泣き崩れるのを壁越しに聞いていた時、その手はいつも動かない手を握ってくれていた。そうだ。俺は、彼女を知っている。ほんの小さな頃から一緒だった、他の誰にも見えない友達――――空想上の産物だと思っていた。

 いつも傍らには彼女の存在を感じていた。目に見えたわけじゃない。語りかけられるわけじゃない。ただ、麻痺した左腕と左足に感じる微かな彼女の手の感覚。それだけが彼女が存在する証明で、それだけが彼女の優しさだった。そうだ、彼女はいつも見守ってくれていた。自分を惨めに感じる時、自分の無力さに打ち震える時、彼女はいつも手を握ってくれた。そして、あの夜。動かない腕と脚、絶望に浸っていく家族の姿にもう耐えられなくなった最悪の夜――――あの夜、手を引いてくれていたのも。

手のひらに包まれた、柔らかな感触と、ほのかな温もり。地下街で感じたあの感触は、そう、ほんの小さな頃から知っていたあの感覚――――屋敷の地下で記憶が蘇ったあの時と同じように、奥底で眠っていた思い出が、深い沼のそこから頭をもたげるように蘇る。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 いつもそばにいたのに。


「あなたは彼女にとって最後の希望なんです。あなたを失えば、彼女は」 

 フロントが爆発した。小さな爆発だったが、爆風は黒瀬の上体をシートに叩きつけるには十分な威力だった。

「――――あの子もあなたも、知っているはずなんだ! ――――完爾君!!」

 フロントシートは一面真っ黒な煙に覆われ、すぐ脇にいるはずの天田の顔もまるで見えなかった。肺が真っ黒な煙で覆われ、息が出来なくなって激しくむせる。蠢く暗闇の中から、麻戸の悲痛な叫びが這い出てくる。

「――――苦痛にもだえながら――それでも前に進むのが、現実なんだ―――全てを失っても、苦痛にまみれていても、全てが満たされないからこそ―――」

 麻戸の悲愴な声に、どす黒い煙が覆い被さる。麻戸の手がかろうじて煙の中から押し出され、黒瀬の懐にその節くれ立って、焼けただれた手を突っ込んだ。

「行って! 行くんです!! V-tecLife社に向かって、『111トリプルワン』と伝えて!」

 声を出そうと口を開けば、狡猾な煙が新鮮な空気を喰い尽くそうと肺に潜りこんで来る。麻戸がどうして叫んでいるのか、想像もつかない。

「彼女を、彼女の脳から、排出イジェクトするんです! 彼女を解放して、彼女を救い出してくれ! あの、夢のような、牢獄から……」

 突然黒煙の中から腕が飛び出してきて、黒瀬を押しやった。

 ほとんど熱風に追いやられたようなものだった。行けと叫ぶ声に押されて、黒瀬の体は車の外に飛び出していた。振り返ると、赤く燃え上がる車体は、タンク車が巻き上げる旋風のような炎に飲み込まれ、崩れた破片に押しつぶされる所だった。愕然としながら、麻戸がポケットに押し込んだ重みに、手を伸ばした。

 震える拳を押し開くと、そこには小さな金色のロケットが静かに横たわっている。口を開けると、そこには可愛らしい笑顔が咲いていた。ずっと幼い、無邪気な笑顔を見せる少女の姿。

 それは、あの仏頂面とはかけ離れていたが、

 紛れもない、彼女の姿だった。

 拳を握りしめる。知らず、渾身の力がぎゅっと、拳にこもった。手中の温もりと、その重みを感じながら、黒瀬は炎に背を向ける。炎にくるまれた人影への想いを振り切るように、駆けだした。

 逃げ出したわけではなかった。

 それは、立ち向かうための疾走だった。明け方の街を、横目で羨望を抱きながら走るランニングではない。一人で生きるためのトレーニングのためでもなく、現実逃避のためでもない。

 見開かれた目は、過ぎゆく街の惨状の中で、たった一人、明確な敵の姿を探していた。 




 街は、まるでゴミのように動かなくなった人々の体が、通りにあふれかえっていた。車はそこらかしこで事故を起こし、時折オレンジの爆炎が上がる。

 意識のある人々は阿鼻叫喚の様相で、倒れた家族や友人、恋人の体を手に泣きわめいたり、呆然としたりしている。まるで毒ガスでも巻いたような惨状だ。黒瀬は倒れて意識のない人々の合間を、駆ける。向かう先はV-tecLife社だ。天田の言葉を信じて、駆ける。そこで全てが待っているはずなのだ。自分の人生を覆い尽くしている敵と、救わなくてはいけない人が、待っているはずなのだ――――

 どこへ行っても、折り重なった人で出来た絨毯は途切れなかった。各地で一斉に意識を失ったらしい。しばらくすると、ビルの壁面のディスプレイに初老のアナウンサーの姿が映し出された。勤めて平坦な声で、国家緊急事態警報フェイズ・1が発令されたと告げる。

『現在、社会に重大な混乱を及ぼす、緊急性を伴う事態が、発生しております。全国において、同時多発的に発生した、この意識混濁の症状により、国家緊急事態警報が発令されました。視聴者、及び国民の皆様におきましては、身の安全を図りつつ、付近の発症者を危険な地域から避難させるなど、安全確保にご協力いただきますようお願いいたします。政府は現在、事態の把握に努めております。慌てず、落ち着いて行動してください。繰り返します――――』

 日本全国でこの事態は起きているようだった。いや、おそらくこの国だけじゃない。世界二十六億人、アウターワールドのプレイヤーは例外なく倒れているだろう。天田が言っていたテロだ。彼の説明ではその目的も意味も全くわからなかったし、理解できなかったが――――彼の言説そのままに言えば、現実と仮想空間が逆転するのだ。背中を冷たい感覚が走った。こういう事か。いざ目の前にするとわかる。浜辺に打ち上げられた鰯の大群みたいに、人間があちこちに転がっている。街は静寂に包まれ、時折聞こえる鳴き声や叫び声が反響するばかり。街は死んでいた。もはやこれはつい五分前に存在していた現実ではない。代わりに仮想空間は大繁盛しているだろう。きっと、まるで現実世界のように人があふれかえっているはずだ。


 巨人のうなり声が迫ってくる。


 恐ろしい程ゆっくりと、巨大な音が追いかけてくる。駆けている内はまだ激しい呼吸の音にかき消されてわからなかったが、すぐ後頭部まで音が迫ると、耳元で空気が悲痛な叫びを上げはじめ、思わず振り返った。空へと視線をもたげる。

 それは巨大な影だった。滑るように、翼竜のような影がビル群を舐めていく。日を遮ったそれが、黒瀬の体をすっぽりと影で覆った。唖然とした。旅客機だった。だがこんなすぐ近くで見上げたのは初めてだった。飲み込まれそうな程巨大な機体とその影が、すぐ頭上を通り過ぎていき、そして黒瀬が呆然と見守る内に、高層ビルにのっそりと突っ込んでいった。無音で、機体の姿が消えて、雲が沸き立つように煙がふくらんだ。

 時間差をおいてから、凄まじい爆発音と炎の閃光が黒瀬の所まで襲いかかってきた。ただ、見上げるしかない。ビルから上がる炎と煙、破片、きらきらと炎に煌めくガラス片が、地上に降り注ぐのが見える。燃えさかる炎の中から、ぱらぱらと小さな火の種がこぼれ落ちていって、それに目をこらした時、黒瀬は胸の内からせり上がってきた吐き気を押さえる事が出来なかった。人だ。人の形をした、炎。

『よぉ――黒瀬完爾』

 いやみったらしい、含み笑いを帯びた声。

『生き残ったのか……。まぁ、おもしろいよなぁ、現実って奴は――――こうしてまたお前と会えるなんて、思いもしなかった。認めるよ。お前はまったく、予想外な奴イレギュラーだ』

 見上げる壁面のディスプレイに、髑髏をかぶった男の姿があった。枯れきった顎の骨はまるで笑っているように持ち上がっていて、落ちくぼんだ眼窩の中には、小さな瞳がおかしそうに歪んでいる。ミリタリージャケットのポケットに手を突っ込んだ、悠然とした立ち姿。

 体の奥底から、その名があふれ出した。

 W.makerワールドメイカー!! 

 これまでに一度も出した事がないような声が出た。頭の芯から手足の先まで染まった怒りの熱が、口から飛び出す。引き抜いた拳銃を、ディスプレイでニヤつくその骸に差し向ける。

『無駄だ。わかるだろ? 現実のお前は哀れなもんだ。そんなものを振り回した所で、人一人だって殺せない。なぁ、わかってるだろ? その手、その足、まともに動かない欠陥品をぶら下げて、一体何をするつもりだ? 思い出せよ、黒瀬完爾。現実のお前は、無力で、無知で、何も出来ないただのガキだ。言っただろう、現実の世界で、自分の無力さに打ち震えながら、俺の名を噛みしめて死ねってな』

 撃った。

 許せなかった。侮辱された事がではない。こんな存在が、今ここに存在している事が、どうしようもなく憎かった。消し去ってしまいたい。押しつぶしてしまいたい。此の世から、跡形もなく――――

 高らかな哄笑が天へ駆け上がっていった。

 螺旋階段を駆け昇るように、声は辺りのビルとビルを転々と黒瀬を取り囲んで、暗雲にかき消える。

『これが現実だイジェクター。お前が生きる世界はここ、生きていた世界はここ。思わないか兄弟? こんなのは現実じゃないって、こんなのはまるで嘘の世界だって――――あぁその通り、この世界はまるっきり嘘っぱちさ、本当の現実はここにある。これが現実、これがリアルなんだ』

「失せろッ!!」

 天に向かって吠えた。

「俺が、お前を排出イジェクトする――――お前を見つけて、コーディを救い出してやる!!」

 姿は見えなかった。それでも、奴の動くはずのない口角の骨が、ぎっと持ち上がったのを感じた。

『やってみろ、排出者イジェクター。俺はいつでも、お前を見ている――――』

 街の華やかさに一役買っていたきらびやかなディスプレイが、一斉に暗転した。うねるような暗闇の中に、一筋の文面が浮かび上がる。慟哭する人々を睥睨するように、ディスプレイからディスプレイへ、その文字列は旋回する。




 Big偉大な


 brother兄弟が


 watchingお前を


 you見ている.........

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