鬼積魍(ぐいずも)〜灰色遊戯〜

猛士

第1話 獣の貌

 緊急出撃エマージェンシーコール

 反射的に飛び起きた。

 咄嗟に周囲をまさぐる。

 最早、本能とも言うべき動作だった。

 だが指先に触れたのは、金属質の冷たさでは無い。

 それはプラスティクの塊――AVのリモコンだった。


「あっ……」


 男は失笑した。

 テレビを点けたまま、いつの間にか転寝をしていた。

 電気も消してない。

 薄呆けたデジタル時計は、夜中の三時前を示している。

 三二インチの液晶画面では、名前も知らない芸人がクリスマスをネタに、面白くも無い喋りを繰り広げている。

 アシスタント役の女子アナが可愛いから許せるが、そうでなければ画面に蹴りをいれたい気分だった。

 事務所のソファーに寝ころんで時代小説を読んだまま、いつのまにか眠ってしまったらしい。

 毛布も掛けずに寝こけても、鼻水も垂れないのはエアコンの御蔭だが、その代わりに咽喉と口の中がカラカラに乾いていた。

 ひりつく咽喉に、無理やり唾を飲み込み潤す。


 何か飲むもの――と、周囲を見回す。


 そこで漸く男は、耳障りに鳴り響く安っぽい電子音の存在を思い出した。

 そもそも最悪の目覚めの原因はこいつなのだ。


 ちっ――と、舌を打ち、太い指を短い髪に突っ込み、掻きむしる。


 飾り気も無く殺風景な事務所。

 染みついた汗の匂いが、鼻腔に燻る。

 ブラインドも閉じていない窓の外には、未だ眠らない街の灯りが揺れている。

 男は溜息を吐くと、のっそりと立ち上がった。

 エアコンの効いた室内とはいえ、世間はクリスマスムード漂う十二月。

 だが、黒い半袖のTシャツに色あせたデニムの姿は、季節を微塵も感じさせない。

 袖から覗く腕は太く、Tシャツの下の肉体は充分に鍛えこまれているのが良く分かる。

 無精ひげでざらつく顎を撫でながら、男は小首を傾げる。


「はて……」


 何処にしまいこんだのやら。

 眉間に皺をよせ、音の鳴る場所を探す。


 ――と、思い出したように、窓の前に有る事務机に向かった。


 電子音は一番下の引き出しの中で鳴っていた。

 年に一度も鳴らない携帯電話――スマホでは無く、折りたたむことも出来ない時代遅れのガラケー・・・・

 別にスマホを持っていないわけではない。

 仕事用――それも少々ワケありな仕事専用。

 年に数回しか鳴らないこの電話。 

 だが、この携帯が鳴るとき、ほんの少しだけ、男は過去を思い出す。


「やれやれ――」


 眉をひそめながらも、口の端が持ち上がっていることに、男は気が付いていない。

 困ったものだと一人呟き、男は携帯のディスプレイを確認する。


 ――非通知。


 いつもの事だ。

 男は通話ボタンを押すと、黙って耳に当てた。


 ――沈黙。


 これもいつもの事だ。

 いきなり捲し立てるような奴は、この携帯に掛けてくることはまず無い。

 沈黙の向こうに、戸惑いと焦燥の気配を感じる。

 だからと言って、こちらから口を開かない。

 沈黙に付き合う忍耐も、この携帯には必要な機能だ。


 ――と、沈黙の向こうに、何かを噛みしめるような息遣いが聞こえる。


 それは次第に、激しい息遣いに変わり、どこか苦しそうな呻きのように変わった。


「もしもし」


 仕方なく、男の方から会話の口火を切った。

 間違い電話なら何かのリアクションが有るだろうし、そうでなければ、相手が多少の落ち着きを取り戻すだろう。

 だが、電話の向こうからは荒い息遣いが続くだけで、返答は無い。


「ちっ――」


 男が露骨に舌打ちをする。

 そうでなくても、転寝を叩き起こされ、機嫌は最悪だった。

 もし電話の主がこの場に居れば、その顔を見ただけで、裸足で逃げ出すだろう。

 いや――電話越しでも、この殺気は伝わりかねない。

 タチの悪い間違い電話と断定し、怒りを押し殺し、電話を切ろうと携帯から耳を離したその時――。


 俺を殺してくれ――。


 苛立つ耳に飛び込んだのは、陳腐で使い古された、ざらついた台詞だった。

 

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