遥けき大地のストロンボス
fasazzz
Op,A.D.2037
『彼女』の歩みは端的に言って、只々
自分が学ぶ量子の分野は煌びやかな驚きに満ちていて、生涯をかけて探っても足りない。それ以外の社会生活は、全てわずらわしい。
知り合いや親類は、彼女を不可解に思った。だが彼女にとって、人や社会の興味は、どこまでも薄いままだった。時折り不合理に揺れる心の動きがおもしろかったりする事はあったが、それだけだ。
ヒトの肉体は不気味だが、世界は美しい。数値で象られた現象も、量子が
その筈だった。
◇◆
ごうごうと、水の流れる音がする。ひっきりなしに流れる非常ベル。まだほんの数ミリ程度であるが、海水が張り始めている
これは案外と、浸水箇所が近いのかもしれない。
「待って、て。大人の人、呼んでくる……」
傍らに立った
「……いいよ、気にしなくて。君は早く避難しなさい」
やっと絞り出した声は、きっと届かなかっただろう。男子はもう角を曲がって、姿を消していた。
ここは乗り込んだフェリーの
何のことはない。船の散策をしていた所、偶々立ち寄ったカーゴに、同じく物好きな男子が紛れ込んでいた。
そこで不意に、強烈な衝撃を船が襲った。
車両への積載が甘く、落下した資材から、とっさに男子を突き飛ばした。
結果、彼女は負傷した。それだけであった。
「まったく、本当に、参ったねこれは……」
自分でも驚いている。まさか庇うなんて。
丸々と太って、垢抜けない男子であった。口調も表情も、覇気がなかった。しかし目の光は死んでいなかった。あの様子なら、おそらく心配はない。
――あの子も、少しはあんな風になってくれれば良いのだけど。
ふとそう思って、彼女はわずかに口角を上げた。もしかしたら、今の心境の変化も、あの子との付き合いが多少は影響したのかも。何だか笑ってしまう。
――……いや、でも。さてこれは、どうにも手詰まりかもしれない。
彼女の左脚は倒れた資材の下敷きになり、動くことが出来なかった。庇った際に資材が激突した左腕はピクリとも動かず、肋骨部分は猛烈な痛みを発し、上手く呼吸もできない。フェリーの破損も合わせ、非常に危険な状況だ。
彼女は右手から、小型の携帯端末を通じて、ディスプレイ代わりのホロスクリーンを呼び出した。片隅に、ウェブに接続中を示すアイコンが浮かぶ。
こんな状況でも、まだ接続が生きていた。震える手で、スクリーン上から一つのファイルを選び取る。あとはこれをウェブに――。
そこまで進めて、手が止まる。
「ふふ。そうだな、やっぱり止められない、か」
このデータは、レポートの類ではない。研究の途上で組み上げた、一つのプログラムだ。
このプログラムが世界に出て、何がどう変わるか。
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。まだ研究中、つまりデータ的に未完成であることも確かだ。だが何らかの混乱が起こる可能性も、なくはない。
彼女は常に考えていた。もし自分が、事故や急病で世を去ってしまったら。
この研究は、半ば趣味に近いもの。自分が消えたら、引き継ぐ者もいないだろう。
だからいよいよとなったら、法や良識、学者の矜持を超えて、これを世に放つのも悪くないかもしれない。……ひょっとしたら、気が変わって墓まで持っていくかもしれなかったが。
そして実際、そうした事態になった。
やはり自分の
アップロード。一つの
水音が大きくなった気がする。水位も多少上がったかもしれない。
あれを受け取る人間、そこから起動に至る人間、そして更に、如何なるプログラムが理解が出来る人間。それらは、きっとそう多くはないだろう。
それは構わない。期待はない。だが願わくば、誰がどんな形でもいい。私が見たかったものの一端、その先、少しでも――。
そこで彼女の腕は、力なく床へと落ちた。全身から力が抜けている。その意識は、既に完全に失われていた。
海水の流入音が、一段と激しくなった。
◇◆
2037年5月、フェリー『ヘリオドール』がスペイン、ヴィーゴ沖にて沈没。乗員、乗客合わせて多数の死者、行方不明者を出した。
この一件は本年初の大規模海難事故として、各方面へ多大な衝撃と共に伝わることとなる。
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