第4場:山本氏はSACDに思う
屹立する二本のスピーカーを満足気に眺めやった氏は、続いてその真ん中に置かれたオーディオラックに目を移した。短い脚が付いた、黒塗りの木のオーディオラックの内の二段のスペースには、上にSACDプレーヤー、下にそれと接続されたプリメインアンプが載っており、プリメインアンプの後ろからは、板が差し渡されただけで吹き抜けになったラックの裏を通してにょろにょろと太い接続コードが這い出て、先ほど氏が自慢気に眺めていた二つのスピーカーにそれぞれつながっている。いずれもアメリカの名門メーカーM社の製品で、退院後に先のB社のスピーカーとともに、その当時新たに買い直し、それまでのオーディオシステムは一新されたわけだ。
SACDプレーヤーは40万ほどの製品で、氏はこれがいたく気に入っていた。全体に満遍なくいい音を出すのだが、特に中域から高域にかけての抜けと透明感が素晴らしい。元々バランスよく、癖の無い、見通しのいい音作りをするメーカーだったが、SACD機の開発でその特長が一層際立って発揮されるようになったようだった。
SA≪スーパーオーディオ≫CD自体は15年以上も前、CD《コンパクトディスク》を開発したのと同じS社と、別P社によって共同開発、規格化から製品化されて売り出されたが、当初は山本氏は乗り気ではなかった。初期のSACDは専用機でしか再生できないものが多く、今まで多くのオーディオ規格が鳴り物入りで現れながらも、滅んでいった事を知る身として、雑誌などで音質の良さが紹介されるのを見ても、すぐに高価な専用機を購入する気が起こらなかったのだ。山本氏以外にもそう思うユーザーが多かったようで、結局SACDは初期のうち廃れたのだが、本場欧米の中小のクラシックCDレーベルがあちらの耳の肥えたオーディオマニアを満足させ、自社の独自性を出すため、通常のCDプレーヤーでも再生可能なHYBRID《ハイブリッド盤》を積極的に出していき、同時に採用されていた、CDプレーヤーでも反映されるDSD《ダイレクトストリームデジタル》の再生方式の音質の良さから、徐々にSACD本来にも注目が集まっていき、復権しているのだった。元々のそれぞれの楽曲の多様性の他、一つの曲の中でも聞えるか聞えないかの弱音から、騒然とした響きまで、あまりに広い音量の幅と音色の種類を持つクラシックのジャンルでは、SACDの対応するダイナミックレンジと音域の幅、解像度の高さは最適で、必須ともいえるものだった。
氏は最初、たまたま興味を持って買った新譜CDがHYBRID盤のため、偶然DSD方式に触れることになったのだが、その部屋全体を包み込むような鳴り響きの音場感に仰天したものだった。それからしばらくしてSACD専用機を買い、きちんとSACD対応で鳴らしてまた驚かされた。氏はそこまで過去に固執するタイプではなかったが、それでも氏の中学生時代からのレコードの音楽体験に比べて、CDの音質、音色には納得しきっていない面もあり、すでに大半を処分した後とはいえ、かつてのレコードの音色に対して多少の追懐の想いもあったのだが、SACDに触れた途端それも大半が吹き飛んだ。実際、氏の長年のオーディオ体験で、頭の中全てが透き通って鳴り響く音色に洗われ、一新されたその経験は最もショッキングなものの一つだったのだ。もっとも、レコードはレコードでアナログの独特の音色の実在感があり、その価値があるものだったが、それにしてもSACDの透明な音色に触れてからは今まで以上にその新譜の発売が楽しみになった。
本当はSACDのマルチチャンネルに対応した5.1chのスピーカーシステムを構築したかったのだが、部屋の広さと間取りの関係でそれは難しかった。周囲のスピーカーから囲まれて鳴り響く音響に身を浸したいという思いはあったが、別に全くCDを聴かなくなったわけでもなしで(むしろまだまだ通常CDの新譜が出る割合の方が多かった)、二つのスピーカーの2ch方式で済ませていた。これでも立派な響きを得られるのだしいいではないか? 無理にこの部屋の物を他に移し、模様替えをすればここでスピーカーを5つ以上並べることも可能だったが、現役時代からもう30年以上、この部屋で音楽を聴きながら、時に家に持ち帰った仕事の作業をし、時に酒を傾けて夜長を過ごしてきた氏には、でんと構える二つの棚と書斎机(オーディオ機器は何度か替えたことがあるが、これらばかりはこの家に移り住んだ当時購入して、この部屋に備え付けた時のままだ)が部屋にシックに調和して、完全に一体化したものとして考えられ、この間取りに大層愛着があった。結局、音楽を聴いて喜びを得ることによりくつろぐことを考えれば、今のままで氏には十分満足なのだった。
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