第165話 *5* 3月14日金曜日、早朝


 タリスマンオーダー社が管理しているステーションワゴンに乗り込む。助手席に遊輝ゆうき、運転席の後ろにこう、その隣に抜折羅ばさらが座る。シートベルトを各自がしたところで目的地に向けて発進した。

「ところで、白浪しらなみ先輩はホワイトデー恒例のお返し祭、今年はどうしたんですか?」

 紅は遊輝がバレンタインのお返しに絵を描いているのを知っている。彼が絵をプロとして描くようになってから、とりわけその話は有名になった。今年も受け取った分は配ると思うのだが、今ここにいて大丈夫なのだろうか。

「ん? もう配り終えたよ。サンタクロースもびっくりな勢いでね」

 問うと、紅を見ながら遊輝が答える。台詞から想像するに、描いた絵をそれぞれの家に配達してきたのだろう。ご苦労なことである。

「紅ちゃんのは君の部屋に置いておいたから、あとで見てよ。数年後にはきっと価値が上がるから、ちゃんと保管しておいて」

 言ってウインク。

 紅は遊輝の台詞にはっとする。

「――って、あたしの部屋に勝手に入ったんですかっ!?」

「一〇号サイズのキャンバスだと送るより簡単だったんだもん。部屋の物は触ってないから安心して」

「当然ですっ!!」

 突っ込みを入れると、遊輝は楽しげに笑う。全く反省の色は見えない。

 ――この男は……っ!!

 小さな拳を震わせながら紅が苛立ちを抑えつけていると、抜折羅が口を開いた。

「一〇号って、なかなか立派なキャンバスを使ったんだな。ポストカードくらいを想像した」

 すぐにサイズがわかる程度には覚えたらしい。抜折羅がサイズを把握しているのは意外だ。

 紅は美術部で絵を描くため、聞いてすぐにそれが長辺五三〇ミリ短辺四五五ミリであることを想像できる。学校で描くのはだいたい一〇号サイズであるのだが、彼が使うキャンバスにしては小さい方だ。

「他の女の子にはポストカードサイズの色鉛筆画だよ。紅ちゃんには油絵。でもね、一〇号なんて小さいくらいさ。紅ちゃんの魅力を存分に引き出すには全く足りないよ。一〇〇号以上の作品も発表していきたいんだけど、そのためにはアトリエを借りないと。バイト代もそこに補填するつもり。紅ちゃんがモデルに通ってくれるなら、すぐにでも始めるんだけどな」

 遊輝の真っ赤な瞳が紅を捉える。

 モデルにしたい――それは別のニュアンスも含んでいる。残念ながら、紅は了承できない。

「お誘いは嬉しいんですけど、あたしはお断りいたします」

「できるなら、紅ちゃんが乙女であるうちに描き留めたいんだけど――まだ乙女だよね?」

 しれっと問われた内容に、紅は熱を上らせる。何事かを言い返そうと口を開くが言葉にならない。

 その間に抜折羅が動いた。

 助手席の背中が蹴られ、遊輝が呻く。抜折羅が前の座席を蹴飛ばしたのだ。無言の攻撃。

「非道いよ、抜折羅くんっ! でも、ふふっ。君たちがどの程度まで進んでいるのかわかっちゃった」

 抜折羅の素早い反応に、遊輝が満足げに笑む。楽しげなのが腹立たしいが、ここで何か告げたところで墓穴を掘るだけだ。紅は口を閉じる。

「あんたは黙ってろ」

「んじゃ、詳しい話はあとで聞くことにするよ」

「もう話題にするなっ!」

 もう一度、抜折羅の蹴りが助手席に入る。すごすごと遊輝は引っ込んだ。

「ったく、どいつもこいつも俺の周りの連中は……!!」

「いちいち取り合っていたらキリがないわよ」

 紅は小さく笑って、抜折羅の左手に右手を重ねる。

 彼が間に入ってくれたのが嬉しかった。今までとは少し違う反応のように思える。抜折羅がこんなふうな意思表示をするのは珍しいのではなかろうか。

「紅?」

「そういうのも悪くないもんね」

「ん?」

 通じていないらしく、抜折羅はきょとんとしている。

「ま、あたしたちはあたしたちのペースでいきましょ。邪魔や横槍、ちょっかいなんて毎度のことなんだから」

 説明するのは野暮だ。ここは宥めておけばそれでいい。

「あぁ、うん」

 ちらちらと様子を窺う遊輝の視線の意味が気になったが、紅は全力で無視したのだった。


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