第163話 ★3★ 3月14日金曜日、早朝

 好きな女の子が自分のベッドで眠ってしまっているという状況は、果たしておいしいと言えるのだろうか。

 ――どうして彼女はこうなんだ……。

 部屋に戻ってみると、こうはすやすやと眠っていた。ベッドに仰向けで、とても気持ちよさそうに寝息を立てている。

 抜折羅ばさらは頭痛を感じ、額に手を当てて俯く。

 ――少し脅しておくか? 危機感なさすぎだろ。

 白浪しらなみ遊輝ゆうきなら、間違いなくここで彼女に悪戯を仕掛けるだろう。星章せいしょう蒼衣あおいなら、紳士的に優しく起こすのだろう。

 ――出逢ったばかりの頃とは雲泥の差だな。

 迷いながら、抜折羅はそろりと近付く。彼女は眠ったままだ。呼吸からするに、寝ている振りをしているわけでもなさそうだ。

「紅、起きろ。俺のベッドで寝ている意味、詳しく教えてもらおうじゃないか」

 気持ちよく寝ているところを申し訳ないのだが、仕事が控えている。眠るのは車中でもできるのだから、まずは移動を始めたい。

 抜折羅は紅の肩を軽く揺する。応答なし。

「おい」

「…………」

 強めに揺するが、まだ反応がない。

「紅、お前は俺に襲わせる気なのか?」

「…………」

 完全にぐっすり夢の中らしい。

 ――ったく、なんで起きない……。

 本当に襲ってやろうか?

 ふと湧き上がる好奇心。彼女はちゃんと拒否するだろうか、それとも。

 ――待て待て、俺。ポーズだけで充分だろ。

 妙にドキドキする。早く起きてくれないだろうか。

「紅、いい加減に起きてくれ。置いていくぞ?」

 さらに強めに揺すってもやはり反応がないので、抜折羅は右側から彼女に顔を近付けた。耳元に口を寄せて、囁く。

「紅、起きろ。眠り姫にはキスするぞ」

 そして、彼女の頬に口付けをする。眠る彼女にできることは、ここが限界だ。

「んっ……?」

 目をこすり、紅は横を向いた。彼女の焦点の合わない目を見つめ返してやる。琥珀色の瞳はうっすらと濡れて潤んでいた。

「おはよう、紅。俺のベッドはそんなに寝心地が良いのかね?」

 状況をようやく理解したらしい。寝ぼけ眼だったところから瞬時に回復し、紅は逃げるように転がろうとする。

「おっと、逃がさない」

 すぐに彼女の左肩を押さえて、動きを封じる。彼女の上から見下ろしつつ続ける。

「紅、俺はお前のその行為について議論よりも先にしたいことがあるが、構わないだろうか?」

「えっ? あのっ、いつもみたいに議論しないの?」

 寝ぼけているかと思ったが、案外と頭は働いているようだ。困って焦っている彼女はとても愛おしく感じられる。

「俺が恋人で、男だということを実感させてやる」

 自分でも意外な言動だった。抜折羅は紅の台詞を待たずに彼女の唇を唇で塞ぐ。

 たっぷりと長い口付けをしたあとで、抜折羅は紅の上から退いた。

「勝手に俺のベッドで寝るな。寝ちまっても、せめてすぐに起きてくれ。お前は俺を試しているのか?」

「う……今のはあたしが悪かったです。ごめんなさい。油断してました」

 上体を起こした紅はしょんぼりとうなだれている。言い訳もしてこなかった。素直に反省しているようである。

 抜折羅は彼女の頭を優しく撫でた。

「何か不満があるなら言ってくれ。できることは何でもしてやるから」

「不満なんてないです。――抜折羅はないんですか?」

「ひとまず、ですます調で訊かないでくれるか? 俺はもう怒っていない」

「じゃあ、もう一度。――抜折羅はあたしにして欲しいこと、ないの? 抜折羅はあたしにあれはするな、これはするなって言うけど、して欲しいことはないの?」

 ベッドに腰を下ろしている紅が上目遣いに問い掛けてきた。寝起きだからなのか、彼女が私服姿だからか、妙に色っぽく抜折羅の瞳に映る。鼓動が早まった。

「もしその返事が『お前が欲しい』だとしたら、おとなしく抱かれる用意はあるのか?」

 口から漏れ出した台詞は意外だと感じながらも、一方で本心だと認めていた。もっと触れたい、もっと深く繋がりたい――そんな気持ちが存在することは、決して否定できない。

 紅の柔らかい唇が動く。

「そのときは、覚悟を決めて出直すわ」

 思いの外、はっきりと告げられた。抜折羅は思わず目を瞬かせる。

「……出直すのか」

 イエスかノーの二択の質問であったはず。なのに、こんな保留みたいな返事をもらうとは想像していなかった。

 抜折羅の呟きに、紅ははっとした顔をする。

「えっ、あっ? えっ? まさか今の、本気で言ってた?」

「本気だったら、俺は今この場で紅を押し倒しているはずだ。良かったな、冗談で」

 理性が本能を抑えただけである。だが、いつまでも抑えつけておけるものなのだろうか。紅を大切にしたい気持ちと、己の欲が最近は拮抗しているのを抜折羅は感じている。未知への恐怖が好奇心に負ければ、きっと彼女を抱くのだろう。

 ――それは俺の願うところなのだろうか。

 いつものテンションを装って紅に言ってやると、彼女は何かを察したらしく、じっと抜折羅を見つめて苦笑した。

「……な、なんか色々ごめんね。期待させたあたしが全面的に悪かったわよ」

「俺はな、紅。お前にはできるだけ長くそばにいて欲しいと思っているんだ。だから、お前を死なせたくない。そのためにホープを早く回収し終えたいと願い、お前を守りたくてここを拠点にしている。――何度この台詞を言わせる気だ? これ以上、俺の想いが強くなったら、フレイムブラッドの力でもホープの呪いを跳ね除けられなくなるぞ?」

 彼女に言い聞かせるつもりで言ってきたはずの台詞は、今や自身を縛るための鎖でもある。己の使命を忘れるべからず――、彼女の前で告げて再認識させるのだ。

「何度でも聴かせてよ。あたしはあなたから離れたりしないから」

 紅は笑む。抜折羅の想いとは関係なしに。

「紅……」

 もう一度だけ口付けをして、抜折羅は気持ちを切り替えた。

 さすがに車は到着しているだろう。呼びに来ないのはいつものことだ。

「行くぞ。いつまでもこうしているわけにはいかない。今日は仕事なんだからな」

「わ、わかっているわよ。仕事バカ」

 紅が赤くなっている。それなりに機嫌は取れたようだ。

 黒いウィンドブレーカーを羽織ってから手を差し出すと、彼女はいつもしているように手を伸ばした。

 ――今日が平穏無事な一日になりますように。


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