第153話 ◎8◎ 2月14日金曜日、17時過ぎ

 二月十四日はお休みだ。三年生になれば登校の義務がなくなる。

 星章せいしょう蒼衣あおいは自分の部屋から通りを見下ろした。

 ――毎年届けてくれたから、今年も来ると信じていたんですが……遅いですね。

 こうがバレンタインにクッキーを焼くようになった六年前から、彼女は毎年届けにやってくる。年を追う毎に味もよくなり、技巧をこらすようになっていた。そんな彼女の成長振りを感じる機会は貴重で、とても楽しみにしている。

 だが現在、待っていても紅は訪ねてこない。

 ――何かトラブルにでも巻き込まれているのか……黒曜こくようが余計なことをしたとか、白浪しらなみに捕まっているとか……。

 想像はきりがない。去年まではそんな心配などなかったのに、今年はよからぬ輩が多すぎる。

 ――紅のメールでは屋敷にいるように、ということでしたが……迎えに行きますか。

 外は夕暮れ。時計を見れば十七時を僅かに過ぎている。

 授業は十六時前には終わる。宝杖学院に隣接した星章邸までは昇降口から一〇分も掛からない。だが、彼女のことだ、たくさんの知人や友人にクッキーを配って回っていることだろう。時間が掛かるとは想像できるが、蒼衣は焦らされるのが苦手だ。

 部屋を出ると、帰宅したばかりの弟、蒼次そうじと鉢合わせした。宝杖学院中等部の制服に身を包んだままで、片手にはラッピングされた箱が入った紙袋を提げている。

「お帰りなさい、蒼次」

「ただいま、あおにい。紅姉ちゃん、来てないの?」

 いきなりの問いに、蒼衣は微苦笑を浮かべる。

「まだですよ」

「うーん、あおにい、紅姉ちゃんに捨てられてない?」

「実の兄に向かって言う台詞ですか?」

 引きつりそうになる顔を堪えて言う台詞には怒りの気持ちが微かに混じる。

「なんか色々と心配で。紅姉ちゃん、中等部でも人気なんだよ? そこのところ、わかってる?」

「心配されなくても大丈夫です」

 蒼衣は眼鏡に触れた。苛立って落ち着かないときについやってしまう癖だ。

「僕も紅姉ちゃんを狙っている一人だってことも、承知の上なんだよね?」

 蒼次の瞳に冗談を言っているような様子はない。敵意さえ感じる鋭い光が宿っている。

「競えるとは思っていませんが、意識の片隅には入れてありますよ。ご心配なく」

「ならいーけど。れんから、今年のクッキーはすっげー美味いから期待していいって聞いたからさ、かなり楽しみなんだ。これで紅姉ちゃんがくれなかったら、あおにいを呪うから」

 紅の弟、蓮と蒼次は同級生だ。幼なじみである二人はとても仲が良い。どうやら学校で情報を仕入れてきたらしかった。

「蒼次、言葉遣いには注意しなさい。星章家の人間なのですから」

「身内にまで丁寧に喋るあおにいは気にし過ぎだと思うんだけどな」

 つまらなそうに蒼次は告げ、自室に入ってしまう。

 ――やれやれ……。弟からも宣戦布告されるだなんて、去年は思いもしませんでしたよ。

 蒼衣は弟の行く末を案じつつ、階段を下りる。

 蒼次が張り合うようになったのは、星章家の取り決めによるところが多いのだろう。慕っていた人物が自分の元から離れていく寂しさ――そんな彼の気持ちをわからないでもない蒼衣は、複雑な心境だ。

 ――しかし、どうしてこんなことに……。やはりきっかけは金剛こんごうか……。彼さえ現れなければ、紅は――。

 気のたかぶりに、左手薬指の付け根部分が反応する。ロイヤルブルーに輝く指輪の存在を思い出し、深呼吸をした。

 ――あぁ、どうして彼女はそわそわさせるんですか。邪魔者すべてを消し去りたくなる衝動をどう処理すれば良いのでしょう。

 全く落ち着けない。紅にやきもきさせられるのは今に始まったことではないが、全く慣れない。

 階下の広い玄関ホールに出たところで、チャイムが鳴った。使用人がドアを開けて応対している。

 ――おや、彼女は……。

 使用人が対応している少女はクラスメートだ。ソバージュをかけた髪を白い大きなリボンで飾った彼女の名は、白金しろがねほのか。星章蒼衣のファンクラブを仕切っている人物である。

 蒼衣の姿に気付いたらしく、ほのかは目をキラキラさせて、可愛らしく微笑んだ。

「蒼衣様っ!」

「お久し振りですね、白金さん」

 蒼衣が声を掛けると、使用人はすっと離れていく。それを見計らったかのように、ほのかは提げていた有名菓子店の紙袋から綺麗な包装紙に包まれた箱を取り出した。

「今年もお持ち致しましたわ。ファンクラブからの贈り物です。よろしければ皆さんで召し上がって下さいませ」

「取り纏め、毎年ありがとうございます。貴女のお陰でチョコレートに埋もれずに済むというものです。有り難く気持ちごと受け取りますよ」

 ほのかが差し出した箱を蒼衣は受け取る。店は毎年違うのだが、彼女のセレクトには間違いがない。わざわざこのためにリサーチをし、取り寄せてくれるらしかった。

「ファンクラブとしての活動も来月の卒業式までですわ。これが最後のバレンタインだと思うと、淋しいですね」

「六年も続ければ恒例行事みたいなものですからね。私は助かっていましたよ」

「そう言っていただけると光栄ですわ。規律をみなが守ってくれたお陰もあります」

「大きな混乱もなくこうして過ごせるのには感謝しております。皆さんにも伝えていただけますか?」

「承知致しましたわ、蒼衣様」

 応えて、ほのかは嬉しそうに微笑む。

「では私は失礼致しますわ。蒼衣様を煩わせるのは本望ではありませんし。代表者の役得だと、メンバーから恨まれたくもありませんもの」

「大したお構いもできず、すみません」

「直接お渡しできただけでも幸せですわ。――まだまだ寒いですから、お身体には気を付けて。次は学校でお会いしましょう」

「はい、学校で」

 ほのかは良いところのお嬢様らしく優雅に頭を下げると、ドアを開けて潔く帰ってしまった。

 ――白金は本当によくやってくれたと思っているんですがね……。

 彼女たちの気持ちに応えることはできない。婚約者もいる身だ。そんな蒼衣の都合を知りながらも慕ってくれる少女たちに申し訳なく思う。

 ――不自由ですね、この身は。

 物心がついた時から、ずっと努力を続けてきた。この星章家を継ぎ、繁栄を続けていくために。長男として生まれてきた義務だと理解していたつもりだ。だからそれを苦痛だと感じたことはなかったはずなのだが、最近はしこりのようなものを覚えていた。

 ――紅に感化されたのでしょうか。

 こんなことに疑問を感じるようになったのは、自分の宿命を切り開いていこうと足掻く火群ほむら紅の姿を身近で見ている影響だろうか。

 ――しかし、紅は今どこにいるのでしょうか……。

 薬指のリングを撫でながら、蒼衣は紅の到着を待った。


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