第154話 *9* 2月14日金曜日、17時過ぎ
陽が陰ってきている。夕暮れの時間も過ぎようとしていた。
――
担任教師に腹を立てながら、
――二人から催促の連絡がないのは、良いことなのか悪いことなのか……。
心配してくれているだろうとは思う。信頼されているからこそ、電話もメールもないのだろう。
――
自転車に跨がり、
――どうか怒っていませんように。
彼から誕生日プレゼントとして貰ったスターサファイアの魔性石〝アイススフィア〟が埋まる髪飾りに祈りを捧げながら、紅は通い慣れた道を進む。
屋敷の門の前にようやくたどり着くと、一人の少女が出てくるのに気付いた。ソバージュをかけた髪、真っ白なリボンの彼女は見覚えがある。星章蒼衣のファンクラブ代表、
「ごきげんよう、火群さん。蒼衣様は待ちくたびれているようでしたわよ」
自転車から降りた紅に気付いたらしく、ほのかは優しく微笑んで声を掛けてきた。
「お久し振りです、白金先輩。今年のバレンタインを届けに来たんですか?」
「えぇ。こちらの用事は済みましたから、ごゆっくりどうぞ。――失礼致しますわ」
上品そうに頭を下げると、ほのかはその場を立ち去った。
――ゆっくりしている余裕が果たしてあるかしら……。
星章邸の敷地内。玄関の前に自転車を停めると、紅は残りのクッキーから一袋を前籠に残してチャイムを鳴らした。
間もなくしてドアが開く。
「ようこそ、紅。お待ちしておりました」
ドアを開けたのは、サファイアブルーの眼鏡を掛けた背の高い少年、星章蒼衣だった。優しげな笑顔を浮かべ、中に入るように促す。紅はそれに従った。
「すっかり陽が暮れちゃったわね。お待たせしてごめんなさい、蒼衣兄様」
指定校推薦であっさりと大学進学を決めた蒼衣であったが、大学からレポートを求められているとのことで、決して暇ではないはずだ。彼の時間を意図せず奪ってしまったことを紅は申し訳なく思う。
「貴女の顔を見られて嬉しく思いますよ。なかなかこちらにいらっしゃらないので、誰に捕まっているのかと心中穏やかではありませんでしたよ」
優しげな笑顔の下に嫉妬の炎がちらちらと見える。〝誰に〟と告げながらも具体的な顔を浮かべているのがすぐにわかった。
「遅くなったのは、あたしのクラス担任の所為よ。ちょっとしたお使いを頼まれて、時間を取られてしまったわ」
無実なのに恨まれては、
「――で、これが今年のバレンタインクッキーね。これが蒼衣兄様の分、こっちが
青地に細い白のストライプの紙袋にはルビー色のリボンが掛けられている。それが蒼衣用のラッピングだ。蒼次用のは青地に白のアスタリスクがドット柄で並ぶ紙袋にルビー色のリボンを掛けた。家族用は袋が二人のものより大きく、青一色の紙袋にルビー色のリボンを巻いた。ここに運ぶバレンタイン用クッキーのラッピングには細心の注意を払ったが、その甲斐もあって見た目は綺麗だと紅は思う。
「おや、今年はずいぶんと頑張ったのですね。ラッピングはサファイアとルビーのイメージでしょうか?」
「えぇ。みんなに合わせて探すの、大変だったのよ」
紅は蒼衣が気付いてくれたのが嬉しくて、満足げに笑む。それぞれの誕生石に合わせたラッピングをしようと考えついたところまでは良かったが、包装紙を手配するのはだいぶ苦戦を強いられた。誰からも感想を貰わなかったが、気付いていた人もいるだろう。
「ラッピングに気合いが入っているのを見ると、中身も楽しみになりますね」
「期待して良いわよ。今年は甘いのが苦手な人が増えたから、チョコクッキーはビター仕上げにしたの。蒼衣兄様はバタークッキーを多めにしてる。――それぞれの好みを把握してるのは良いけど、合わせるのは大変ね。でも、どれも美味しく仕上がってほっとしてるわ。あとは、口に合うかどうかが気掛かりね」
「気持ちは伝わっていると思いますよ」
「そうだと良いけど」
言って、紅は肩を竦める。
「あっ! 紅姉ちゃんっ!」
吹き抜けで見通せる二階の廊下を見上げると、私服姿の蒼次がいた。右側の階段を飛ぶように下りてくると、勢いを殺さずに飛び付いてくる。
「のわっ、蒼次くん!?」
クッキーの袋は蒼衣に預けていたので無事だ。紅は蒼次を受け止めきれずにたたらを踏んだ。
「奇襲成功♪」
蒼次は紅をぎゅっと抱き締めてきた。いつまでも小さいと思っていたが、少し会わない間に随分と背が伸びたようだ。目の高さが紅より僅かに高い。
「紅姉ちゃんってふかふかしてる。良い匂い」
「えっと……蒼次くん。あたしより背丈も伸びたんだし、流石にこういう挨拶はどうかと思うのよ」
不意打ちで避けることさえできなかった。抱き締められた身体は完全に動きを封じられている。
「じゃあ、次に会うときにはキスにする。すぐにキスがしやすい高さになると思うよ? 僕、成長期なんだ」
「あたしをからかうなら、もうちょっと気の利いた台詞を勉強することね」
「その辺で離れていただけませんか、蒼次」
地の底を這っているかのような低い声は蒼衣のものだ。
「弟でも、今の行為は看過できません。いや、弟だからこそ、容赦できません」
「このちょっとした悪戯を寛容に受け止める心を持つことも、星章家を継ぐものに必要な資質じゃないのかな? ねえ」
蒼衣に首根っこを掴まれて、蒼次が引き剥がされる。さながら、ペットが客人に粗相をしたときの対応だ。
「蒼次の言い分はもっともだと思いますが、なにぶん星章家は気の短い家系ですからね。その血を濃く引いているのは確かみたいですよ」
「あおにいのケチ」
むすっとして蒼衣を睨み付けると、紅が用意したクッキーの袋を取る。
「紅姉ちゃん、クッキーありがとうね。ホワイトデーの三倍返し、期待してて」
まだあどけなさが残る顔を綻ばせると、蒼次は階段を勢い良く上っていった。
「蒼次の奴……」
蒼衣が憂鬱そうな顔をして自身の額を抑えている。
「何やら良からぬことを覚えたみたいね。あれはあたし、警戒した方が良いのかしら?」
微笑ましくは思えなかった。怖いとも思わなかったが、見過ごせる言動ではないだろう。
「あとで私から説教しておきますよ。しばらくは貴女に近付けさせません。――全く……。私だって貴女に触れたいと思うのに、あんな……」
前に交わした約束を蒼衣は忠実に守っている。それ故に、蒼衣は気安く紅に触れることができない。
――蒼衣兄様の前では絶対に異性と触れ合わないようにしないと。リミットが外れてしまいかねないわね……。
「以降は気を付けるわ、蒼衣兄様。できるだけ油断しないようにするから」
「是非そうして下さい。でないと、貴女を籠の鳥にしたくなる。貴女の煌めく翼を折り、美しい声を奪い、すべてを永遠にしてしまいたい」
「お兄様、それは犯罪ですからどうか留まって下さい」
――それは籠の鳥ではなく、剥製ではなかろうか……。
宥める気持ちよりも身の危険を感じる気持ちが強く、出てきた台詞は棒読みだった。
「そういう気持ちにさせるのは貴女なのですよ。自覚が足りていないのではありませんか?」
蒼衣の浮かべる笑顔が怖い。
「……しっかりと胸に刻んでおくわ」
引きつった笑顔しか返せない。いつから彼はこれほど嫉妬深くなったのだろう。
――やっぱり、あたしの所為?
「――紅、このあとの予定は?」
少しだけ蒼衣も落ち着きを取り戻したようだ。穏やかな口調で問うてくる。
「タリスマンオーダー社に寄るわ」
あえて抜折羅のところだとは言わなかった。これ以上、蒼衣を刺激したくない。
「夕食を一緒にと思ったのですが……。
「帰り道の都合よ」
「金剛は貴女と同じクラスではありませんか。欠席していたわけではないのでしょう?」
遊輝にも言われたが、あの現場を見ていない人間の発想だと紅は思う。
「休んでいたほうが、きっと彼にはメリットがあったんじゃないかしら。本人は厄日だと嘆いていたわよ」
「金剛は目立ちますからね……。お節介でお人好しであることを自覚すべきだと思うのですが」
「同感よ。彼の魅力ではあるけど、欠点でもあるわね」
言って、笑い合う。
そのあとで、蒼衣は寂しげな顔をした。
「――紅はまだ私を選んでくださらないようですね」
「居心地が良いのが抜折羅のところってだけのつもりなんだけど」
「誰よりも長く貴女を愛しているのに、どうして振り向かせることができないのでしょう?」
「あたしにもよくわからないわ。ただ、恋人になるには近すぎたんじゃない?」
紅にとって蒼衣は、兄と同等にしか見えない。幼い頃からそうしてきたからか、告白をされても気持ちは変わらなかった。
「残酷なことを言うのですね」
「あたしに枷を付けたのはあなたよ。もうしばらくはそれで満足していただけないかしら」
親同士の取り決めを覆すことは未だにできていない。高校卒業まで猶予を貰ったはずだが、それまでに方策が思い付くだろうか。
「言葉だけでなく行動でも示して欲しいと思ってしまうのは私の我が儘でしょうか」
蒼衣はそっと紅の右手を取り、片膝をつく。
「蒼衣兄様……?」
見上げてくる蒼衣と目が合う。彼が何を企んでいるのかわからない。ただ、必死なのは感じ取れる。
「指先への口付けを許していただけますか?」
蒼衣の行為にどきどきしてしまっている。軽く触れているだけの指先が熱い。
「拒否しても、あなたはすると思うわ」
紅の返答に、蒼衣は満足げに微笑んだ。
「貴女は私のよき理解者ですよ」
告げると、そっと持ち上げた指先に口付けを落とす。ほんの少ししか触れていなかったはずなのに、たっぷりと熱が伝わってきた。くらくらしそうだ。
「――普段よりも異性として認識してくださったようですね」
クスッと小さく笑って蒼衣は立ち上がると、紅の手を放した。機嫌が直ったように見える。
「貴女はこういう方が好みなんですか? 真っ赤ですよ」
「う、うるさいわね。びっくりしただけよ」
感触がまだ残っている。紅は右手の指先を左手で包み込んだ。熱が宿ったままだ。
「いい勉強になりました。参考にさせてもらいます」
「――もう帰るっ。長居をするべきではなかったわ」
「またいつでも遊びにいらして下さい。私は歓迎しますよ」
「気が向いたらお邪魔するわ」
蒼衣がドアを開けてくれる。機嫌が良い証拠だ。
――あたしの趣味がバレたとなると、厄介さが増すわね……。
自分でも知らなかったことである。完全に不意打ちだった。
「駅前まで送らなくても大丈夫ですか?」
「ええ。自転車があるし。抜折羅のところに寄ったらすぐに帰るわ」
外に出ると息が白く濁った。寒さが増している。
「そうですか。すぐに帰れることを私は祈っていますよ」
似たような台詞を聞いたなと思い返すと、一時間ほど前に遊輝から聞いた台詞であることに気付く。
「何か彼に入れ知恵でもしたの?」
自転車に鍵を差し込みながら蒼衣に問う。
「私には覚えがありませんよ。それに、自身が不利になるようなことを私がすると思うのですか?」
「やりそうなのは、
紅は肩を竦めたあとで、自転車に跨がった。
「夜道には気を付けて」
「そっちは風邪をひかないように気を付けてね」
自転車は走り出す。目指すはタリスマンオーダー社日本支部――抜折羅のところだ。
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