第118話 ★3★ 10月18日金曜日、午後

 たかが風邪で休むことになろうとは思わなかった。抜折羅ばさらはアラートが鳴る体温計を見て、小さく唸る。

 ――38℃を越えたままか……。

 枕元の邪魔にならないスペースに体温計を置くと、寝返りをうつ。繁華街の中にある家は、防音がしっかりしているのか案外と静かだ。

 抜折羅の生活拠点は、JR八王子駅近くにあるエキセシオルビルの七階――タリスマンオーダー社が借りている一フロアだ。パーティションで部屋を二つに分割し、一方を事務所として、もう一方を私室として利用している。タリスマンオーダー社からのスタッフはいないため、抜折羅はここで独り暮らし中なのだ。

「――く……まさか俺を殺しにかかったんじゃないだろうな」

 熱が高いせいか、よくないことばかり浮かぶ。

 ――最近はそれらしい反応もなけりゃ、活動もろくにできていなかったからな……。

 左肩に埋まる青いダイヤモンドをそっと撫でる。しこりのような感触はいつもどおりだ。

 抜折羅は青いダイヤモンドの魔性石〝ホープ〟と契約をしている〝石憑き〟のタリスマントーカーだ。〝ホープ〟の持ち主を不幸にするという呪いを解くため、タリスマンオーダー社という組織に属しながら世界中に散らばった〝ホープ〟の欠片を回収する使命を担っている。もし使命を放棄したとして〝ホープ〟に見限られるようなことになれば、契約者の死亡もあり得る。それは歴史から〝ホープ〟を手にした人間の末路を振り返ってもわかることだ。

 だから、〝ホープ〟に指摘されたら反論できないだろうと諦めていた。火群ほむらこうに構ってばかりで、自分の使命をないがしろにしていたと言われたら、まったくのそのとおりなのだから文句は言えない。

『なに、案ずるな』

 ふと湧き上がった妄想からの独り言に反応があった。だが、部屋には相変わらず誰もいない。インテリアなどを飾るということを知らない住人によって隅から隅まで整理整頓された殺風景な部屋があるだけだ。

 様子を窺うような間があって、声が再び聞こえる。

『貴様にはまだまだやってもらいたいことがある。今は余計なことを考えず、身体を休めるがいい』

 頭に直接響いてきたのは、か細く高い音声による流暢なフランス語だった。抜折羅が契約をしている青いダイヤモンドの魔性石〝ホープ〟の声だ。

「――だと良いけど。お前、紅を気に入っているみたいだから、俺を始末して乗り換えるつもりなんじゃないかと思った」

 言いたいことをフランス語に翻訳する気力がなく、日本語の次に使い慣れた英語で応答する。嫌みをフランス語で言えるようになるには、この体調の悪さを差し引いても、勉強自体が不足していた。

『随分なことを言うな。その程度の熱では人間は死なぬぞ?』

「39℃を超える熱を出したことがなかったんだ。お前だって知っているだろ?」

 英語でゆっくりと告げると咳き込む。生まれたときから左肩に〝ホープ〟が埋まった状態なのだから、彼は抜折羅の人生をずっと見てきたはずだ。知らないわけではあるまい。

『その程度で弱気なことを』

 鼻で笑うかのような台詞。

 ホープの言っていることはもっともだ。医者の診断では過労による風邪。安静にしていればじきによくなる。たいしたことではないことくらい、抜折羅だって頭ではわかっているつもりなのだ。だが、精神的なものなのかどうにも落ち着かない。

「……悪かったな」

『心細いなら、あのトパーズという青年に面倒を頼めば良かったであろうに』

「業務外のことは頼めない」

『業務外とも思えないが。彼はウィストン家が雇っている執事であろう? 主人の面倒をみるのは当然のことではないか?』

 ホープの言っていることは概ね正しい。単独で日本での任務に着くにあたり、養母でタリスマンオーダー社の社長でもあるマリー=ウィストンから身の回りの世話をさせるためにつけられたのがトパーズだ。財務処理などの仕事の他は、移動を求めるときに車を出してくれる。抜折羅の公私のサポートを担っているのは事実だ。

「む……」

 抜折羅は小さく唸って黙る。

 欠席届けを遊輝に託したあと、トパーズを呼んで病院に行ってきた。診察後、冷却ジェルシートなどを買って帰宅したのは昼をずいぶんと過ぎた頃だ。薬を飲んでベッドに潜ったところで、トパーズには雑務を申し付けて出て行ってもらっている。いつもの業務があるだけに、自分の不注意で招いたこの事態に長々と付き合わせたくはなかった。

『あの娘とデートに行くためにも、看病を頼んだ方が回復も早いだろうに。つまらん意地などはりおって』

 意地を張っているつもりはない。ただ、人を頼るということを思いつきにくいだけ。

 それは親戚をたらい回しにされた幼児期や、預けられた施設で距離をおいていた時期があったことで、自然と身についてしまったこと。養母に引き取られたときに「遠慮せず、甘えてくれていいのよ」と言われたが、そもそも甘え方がわからない抜折羅にはどう接したらよいのか、どんな態度を求められているのかわからないままだった。

 ――あぁ、うるさい。

 気持ちが逆立ったのは、紅のことを話題に出されたからだろうか。小さく息を吸って、口を開く。

「お前、ちょっと黙ってろ」

 あえてフランス語できつく告げると、ホープは何か言いたげな気配だけを残して静かになった。

 ――やれやれ……。

 紅とデートの約束をしていた。昨日終わった中間テストで赤点がなかったら――という条件であったが、彼女の様子をみる限りでは心配なさそうだった。さぞかし楽しみにしていたであろうと思うと心苦しい。

 ――これは何か埋め合わせをした方が良いんだろうな……。

 額に手を当てると、貼り付けていたはずの冷却ジェルシートが剥がれていた。首を回し、枕のそばに丸まって落ちた冷却ジェルシートを確認する。

 ――冷やしているとラクだし、面倒だが貼り替えるか。

 ゆっくりと上体を起こし、使用済みの冷却ジェルシートを掴む。身体を動かすだけで頭痛がした。

 ――だるい……。自分の身体じゃないみたいだな。

 ソファーベッドをそろりと抜け出て、壁伝いに移動する。途中にあったゴミ箱に冷却ジェルシートを捨てると、共有廊下に出る扉に着いた。そっと開けて部屋の外に出る。扉が閉まる音が無機質な廊下に響き、直後にカチャリとオートロックが掛かる音が聞こえた。

 ふだん何とはなしに使ってきたはずの給湯室がやたらと遠い。壁に身体を預けながら、充分な時間をかけて到着。冷蔵庫の中から目的の冷却ジェルシートを取り出す。目に掛かるほどに伸びた長い前髪を持ち上げて額に貼り付けるとほっとした。

 再び冷蔵庫を開け、五〇〇ミリペットボトルを引き抜く。キャップを開けるだけの力が出せなくて驚いたが、根性で開けてスポーツ飲料を飲み込んだ。

 ――さて、部屋に戻るか。

 立ち上がって、抜折羅はある事実に気が付いた。パジャマのズボンの尻の部分に手を当てる。冷や汗が流れた。

 ――まさか。

 普段ならズボンのポケットに社員証とカードキーを一緒にして入れている。だが、パジャマにはポケットがなく、カードキーを持たずに部屋を出てしまったのだ。

 ――締め出されたっ!?

 壁に背を当てたまま、ずるずるとしゃがみ込む。

 とんだ失敗だ。連絡手段であるスマートフォンは部屋の中だ。今日は来客の予定はない。明日にはトパーズが様子を窺いに来るはずだが、それまで給湯室にいないといけないということだろうか。

 ――何やってんだよ、俺……。

 嘆いていても仕方がない。抜折羅は給湯室の隅に寄り、身体を預けておとなしくしていることにしたのだった。


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