第108話 *4* 9月13日金曜日

 こうは絹ヶ丘にある自宅に帰ってきた。制服から着替える前に、まっすぐ祖父母の居室に向かう。千晶ちあきに絵画コンクールの結果を報告するためだ。いつだって紅を励まし応援してくれる優しい祖母に、学校で起きたことは何でも話していた。

「ただいまっ!」

 ふすまを軽く叩いてから、紅は開ける。

「お帰りなさい、紅ちゃん」

 温かな声で迎えてくれたのは千晶だった。占い師としての仕事から帰ってきたばかりらしく、まだ外出用のお洒落なスーツに身を包んだままだ。和室には千晶だけで祖父の姿はなく、この時間ならおそらくリビングの方にいるのだろうと想像する。

「今日は良いことでもあったのかい?」

 着替えるのを中断して、千晶は紅に向き合った。穏やかな笑顔が向けられる。

「うん、あのね。美術部の活動で出した水彩画が一番下の賞を取ったのっ! 参加賞じゃなくて、その上なんだよっ!」

 美術の成績はお世辞にも良いとはいえない。普通科では中の上くらい、美術科が存在する宝杖ほうじょう学院全体のくくりなら真ん中あたりのはずである。美術部に入ったのが高等部に進級してからなので、絵やデザインの勉強を始めたのは遅い方だ。父のジュエリーデザイナーとしての仕事振りを紅は間近で見てはきたのだが、見ているのと自分でやってみるのとではかなり勝手が違う。デッサンが未だに苦手で、思うようにデザイン画を仕上げることができない。自分には才能がない――そう感じていただけに、今回の話はより嬉しい。

 千晶のそばに立って興奮気味に伝えると、彼女の手が頭を撫でた。紅はくすぐったくて目を細める。

「がんばったわね、紅ちゃん。おめでとう」

「ありがとう、お祖母ちゃん。もっともっと上手に描けるように努力して、ジュエリーデザイナーになるからね!」

 小柄な千晶をぎゅっと抱き締めると同時に玄関で物音がした。直後に声が響く。

「ただいまーっ! 誰かタオルと雑巾持ってきてっ!」

 弟のれんの声だ。部活か生徒会の仕事をしていてこの時間なのだろう。

 ――ってか、タオル?

 紅は疑問に感じながら、祖父母の居室を出て玄関まで見通せる廊下に出る。

「あ、姉ちゃん。また制服のままで祖母ちゃんに報告かよ。ってか、雨に降られてなくてずりぃな」

 頭から運動靴の先までずぶ濡れになった蓮が恨めしそうな目で紅を見ている。直後、稲光が玄関のガラス戸越しに見え、雷の音がとどろいた。夕立に遭ったようだ。

「ふっふー、日頃の行いの良さってヤツ? ――ちょっと待ってなさい、取ってきてあげるから」

 リビングに向かう途中の風呂場に寄って、紅は乾いたタオルと雑巾を出す。すぐに玄関に戻って蓮にタオルを投げてやった。

「サンキュー、姉ちゃん」

 受け取ったタオルで蓮は髪につく雫を拭っている。シャツも完全に水を吸っているらしい。肌にぴったりとまとわりついていて、動きにくそうだ。

「この天気じゃ、兄貴も降られてんだろうな」

 そんなことを蓮が呟くと、リビングの電話が鳴った。誰かが取ったらしく、すぐに音が止む。

「――紅、おつかいを頼まれてくれない?」

 電話の音から少し経ってリビングから出てきたのは母親だった。夕食の準備をしていたらしく、エプロン姿だ。

「ん? 兄さんから?」

「北野駅に着いた途端に雨に降られたんだって。傘持ってないから、迎えに来てって」

「えー、傘ぐらい買えばいいのに」

 さすがに財布くらいは持ち歩いているだろう。不満げに紅は返す。

「これ以上増やすなって言われたばかりだから、とも言ってたわ」

 ――あぁ、確かに……。

 紅の兄、じょうは出掛ける際に荷物を極力減らす癖がある。その上雨男で、出掛けては雨傘が増えるため、祖父から注意を受けていたはずだ。

「しょうがないなぁ。着替えたらすぐに行くから」

 玄関には蓮の姿がなかった。おつかいを頼まれたくなくて、さっさと風呂場にでも逃げ込んだのだろう。

 階段をすたすたと上がり、自分の部屋に入る。掃き出し窓の外は集中豪雨といった様子で、ベランダに打ち付ける雨が滝のようだ。

 ティーシャツにキュロットを合わせた格好になると、紅は再び階段に向かう。一階の廊下に出たところで、千晶と鉢合わせした。彼女も着替え終わったところらしい。

「おや、お出掛けかい?」

「条兄さんを迎えに北野駅までね」

 さっさとおつかいを済ませたくて、紅は真っ直ぐに玄関に進む。傘立てには家族の人数よりも明らかに多い数の傘が並んでいる。そこに入りきらずに靴箱に掛かっているものさえあるのだから、条を叱った祖父の気持ちを察するのは容易たやすい。

 ――あたしの傘は……あれ?

 すぐに見つかった赤いギンガムチェックの傘は紅のものであるが、もう一本あったはずだ。きらめくようなルビー色の大きな傘が。記憶に鮮明に残っているその雨傘が、傘立てに見当たらない。

「どうかしたの?」

 手を止めていたのを不審に感じたのだろう。千晶が紅を見て首を傾げていた。

「あたしのルビー色の傘、知らない? お気に入りのやつなんだけど」

 何度も見直すが、思っている傘はない。置き傘にした記憶もないのだから、ここになくてはならないはずだ。

 紅の問いに、千晶は不思議そうな顔をした。

「紅ちゃんはそこにあるチェックの傘しか持っていないんじゃなかったかしら? 折り畳みのも、似たようなチェックだったじゃない。新しいのを買ったの?」

「ううん、買ってない。だってその傘は――」

 視界がぐわんと歪んだ気がして、紅は靴箱に手を掛ける。立っていられず、その場にしゃがみこんだ。

 ――その傘はもらった物よ。彼から初めてもらったプレゼント……。

 記憶の底から蘇るシルエット。癖っ毛で跳ねている黒くて硬そうな髪。同い年にしては子どもっぽさが抜けない顔立ち。身長はそれなりにあって、がっちりとした筋肉質な体格。基本的には仕事バカの朴念仁ぼくねんじんだけど、紅の身に危機が迫ればすぐに駆けつけて助けてくれた。そんな彼の名前は――。

「紅ちゃん、大丈夫? 貧血かい?」

「違う……」

 駆け寄ってくれた千晶に、紅は首を小さく横に振って応じる。だが、違和感がはっきりとしてきた。ゆっくりと顔を千晶に向ける。

 ――そうだ、もう、お祖母ちゃんは……。

 視界が滲む。

「どうしたの? 急に泣き出して」

 紅は千晶に抱き付いた。そこにいるということを確かめたくて。もう二度とその温もりを感じることなどできないことを思い出したら、衝動を抑えきれなかった。

「紅ちゃん……?」

 優しくなだめてくれる温かい手のひら。懐かしい感触。

 でも、いつまでも浸ってはいられない。

「千晶お祖母ちゃん、あたし、気付いちゃったよ」

「気付いたって?」

「ここは、あたしのいる世界じゃないわ」

 ――いい加減に目を覚まさないと。

「どうしてそう思うの?」

 千晶お祖母ちゃんの声を、この話し方を聞いてしまうと心が揺れる。できるならお別れなんてしたくはない。

「この世界はあたしに優しすぎる。大好きな千晶お祖母ちゃんがいて、ちゃんと夢に向かって進んでいて、あたしはあたしの道を歩いているけど――あたしが知っている場所じゃない」

「紅ちゃんの夢はジュエリーデザイナーになることでしょう? このまま続けていけば、あなたはちゃんと夢を叶えられるわ。何か不安なことでも出てきたの?」

「ジュエリーデザイナーになりたいのは本当のことだよ。小さな頃から父さんに憧れてきたから。同じ夢を見ている兄さんが苦戦しているのを知って、簡単にはなれないんだってわかってからは一生懸命に調べて勉強も始めた。本気で頑張って叶えようって思った」

「だったら――」

「同じくらい、ううん、それ以上に大切なものができたの」

 はっきりと告げて、紅は千晶から離れた。涙を拭って精一杯微笑む。

「千晶お祖母ちゃんなら、あたしの背中を押してくれるでしょ? あたしは彼の力になりたいの。自分の夢よりも、彼を取りたいって思えたの。好きになっちゃったんだ。忘れられないよ。忘れたくないよ」

 この想いは捨てられない。それに、自分の夢を忘れたわけじゃない。優先してやり遂げたいことができただけ。

「本当にそれで良いのかい? 後悔しているんじゃないのかい?」

 そう言われると、否定できない。紅は苦笑してしまう。

「後悔してないとはちょっと言えないけど、あたしがずっと望んできたことだし、少しでも楽しめるように努力するわ」

「……ずっと望んできたこと?」

 紅の答えに、千晶は意外そうな顔をした。

 頷いて、紅は続ける。

「そうだよ。あたし、誰かの手助けをずっとしたいって思っていたの。だけど、あたしの周りの人たちって優秀な人ばかりじゃん。だから何の力にもなれないし、やれることはせいぜい邪魔にならないように良い子でいるだけ。あたしは役立たずなんだなぁって、小さな頃から思ってた」

「そんなことないでしょう? 役立たずだなんて、誰も思っていないわ。あなたはとっても良い子よ。そばに居るだけで充分。あなたに何かをして欲しいとは――」

「だから、それじゃ満足できないのっ!!」

 突き放すように叫ぶと、千晶は怯んだ。

「紅ちゃん……」

「あたしは人形じゃないわ。護られて生きるのは退屈なの。大好きな人と一緒に困難を乗り越えていきたいし、その人のために何かしたいの! 力に魅せられて惑わされているのだとしても、あたしが本当に望んでいるのはそういう道よ! だから、あたしはここを出るわ」

 しっかりと見据えて告げると、千晶は諦めたように笑った。

「――この姿で語り掛けても迷わないのね」

 景色が淡い光に包まれてかすんでゆく。

「相手が千晶お祖母ちゃんだったから、迷うわけにはいかないのよ」

「え……?」

 暗闇に粉雪が舞う世界。それは意識が途切れる前に視界に入ったもの。

 真っ白な雪が積もってゆく空間に、紅は千晶と対峙していた。

「だって、そうでしょ? フレイムブラッドを託してくれたのは千晶お祖母ちゃんだもの。あたしを信じて譲ってくれたんだから、あたしは自信を持って応じなきゃいけないわ。お祖母ちゃんを不安がらせたくないし、応援して欲しいって思うから」

「……そう。なるほどね」

 千晶はにっこりと微笑んだ。ほっとしたような表情を浮かべて、台詞を続ける。

おおむ及第点きゅうだいてんってところかね。なし崩し的に契約をさせられたわけじゃないようで安心したわ。その意志があれば、フレイムブラッドとも折り合いをつけてやっていけるでしょう」

 千晶の姿が背景に溶けてゆく。それを見て呼び起こされる引き留めたくなる衝動を、紅はぐっと我慢した。決別を選んだのは自分なのだからと言い聞かせて。

「あなたが過去を生きる選択をしなくて本当に良かった。ここから先、あなたはより困難な出来事に遭遇することでしょう。特に出水いずみ家の動きには注意するようにとの〝クリスタルマスター〟からの伝言です」

 ――あぁ、目の前にいる彼女は本人じゃなかったんだ……。

 偽物だとしても千晶お祖母ちゃんに再び会えた喜びが半分、彼女の幻影げんえいが消えてしまう寂しさがもう半分。

「――あと、私、〝スノーホワイト〟から一言」

 しんみりとしていたところで、申し訳なさそうな声が割り込む。

「……何かしら?」

「あの……少しは私のマスターのことも気に掛けてやってくださいませ。行動が乱暴なのは難点ではありますが、あなたを想う気持ちに偽りなどないのです。ですから――」

「わかっているわよ、そんなこと。将人まさとが不器用な人間だってことは、物心がついたときから知ってる。だから安心して」

 ――主人に対してお節介をやきたがるのは、魔性石の仕様なのかしら?

 紅が答えると、千晶の影は頷いた。

「承知しました。――では、プログラムを終了いたします」

 千晶の姿が消え、やがて景色が晴れていく。

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