第101話 ★3★ 10月11日金曜日、20時過ぎ
給湯室に駆け込み、冷たい水を出す。顔を洗うと、ようやく頭が冷えてきた。
――危なかった……。
彼女は自身の危険性を理解していないのだろうか。今まで幾度となく危険な目に遭っているくせに、危機感がなさすぎる。
――俺も
冷蔵庫に突っ込んでいたミネラルウォーターを喉に流し込むと、抜折羅は事務所側の部屋に入った。
部屋には指示した通りに
「少しは落ち着いた?」
「意味深な問いだな」
「頭を冷やせたのかなーって思っただけで、深い意味はないけど」
「平常心は取り戻したつもりだ」
「そうみたいね」
話しながら、紅の正面にあたる三人掛けのソファーに腰を下ろす。
「勉強を再開する前に、フレイムブラッドに訊いて欲しいことがあるんだが、頼めるか?」
傷痕の確認をしたのだから、忘れないうちに聞き出しておきたかった。
抜折羅が問うと、紅が首を傾げる。
「ん? 何を訊いたらいいの?」
「フレイムブラッドがいつから
「構わないけど、どうして今さらそんなことを?」
話題が唐突すぎたのだろう。紅が
抜折羅は補足をする。
「痕が残ると言われていた傷が完全に消えているってことは、ひょっとしたらフレイムブラッドが――正確には、
「千晶お祖母ちゃんが?」
そう繰り返した彼女は、初めはきょとんとしていたが、すぐにあることに気付いたらしく表情を引き締めた。
「……ちょっと待って。それって、抜折羅は、千晶お祖母ちゃんがあたしにフレイムブラッドを託す前から、因果があったんじゃないかと考えているってこと?」
「そうなる。お前の身体に傷痕が残らないように、ルビーが持つ〝治癒〟の力を使わせたんじゃないか、とな」
説明していると、紅の瞳に燃えるように輝くルビー色の光が宿った。
『――なるほど。ワタシの
不意に聞こえてきたのは、歳を感じさせる女性の穏やかな声。主と告げたことから瞬時に導き出される答えは一つ。
「フレイムブラッド!?」
『いかにも。こうして直接話し掛けるのは初めてですね。青いダイヤモンド使いの少年よ』
「ど、どうも初めまして」
どこからともなく響く声に、顔を向ける場所がわからない。抜折羅は色々考えてみた結果、紅の右肩を見ることにした。フレイムブラッドは現在、彼女の右肩に埋まっているからだ。
『あなたの推理、興味深く聴かせてもらいました。おおよそ、当たっていますよ』
「おおよそ?」
愉快そうに聞こえるのは、勝手にそう解釈してしまっているからだろうか。抜折羅が繰り返して促すと、フレイムブラッドは続ける。
『ワタシは紅が望むなら、その持てる力の全てを貸し与えるつもりでおりました。紅が生まれるずっと昔から、主として迎える用意はできていたのです』
「初めてきいたわよ、そんな話」
紅が戸惑いの声を上げると、フレイムブラッドはふっと小さく笑う。
『訊かれぬことをベラベラと喋る趣味はありませんので』
「それは素敵な趣味だことね」
『いえ、それほどでも』
笑顔をひきつらせて紅が皮肉ると、穏やかにフレイムブラッドが返してくる。
ホープとのコミュニケーションに長らく
『――しかし〝クリスタルマスター〟は、紅にワタシを託すのを渋っておりました。〝
「ってことは、あたしが望んだから、フレイムブラッドが傷痕を消してくれたってこと?」
『はい、
「そういうことだったとは……」
おおよそ、とフレイムブラッドが言った理由に納得できた。もっと積極的に石の力を使わせたのかと考えていたが、それが誤りだったわけだ。傷痕を消せる可能性があり、それを本人が望むなら叶えようとした――紅の意志に任せたことになる。
「えっと……だけど、あたし、フレイムブラッドにそういうお願いをした記憶がないんだけど」
『夢だと思っていたのだと思いますよ。まだ魔性石やタリスマントーカーという存在を知る前でしたし』
「うーん、そうなのかなぁ?」
紅は腑に落ちないらしく首を傾げていたが、やがて頷いた。
「思い出せないものは仕方がないし、そういうことにしておくわ」
『青いダイヤモンド使いの少年――抜折羅という名前でしたか、あなたの疑問に答えたつもりですが、よろしかったでしょうか?』
「あ、あぁ。ありがとうございました」
話し掛けられて、抜折羅は礼を告げた。フレイムブラッドが火群の家にどんな影響を与えてきたのかについても興味が湧いたのだが、今は保留にしておこうと思う。
『どう致しまして。――抜折羅、出来る限り紅を手助けしてあげて下さいね。ワタシはあなたがそばにいてくれることを望みます。ワタシの望みを叶えてくれるのなら、ワタシもあなたに力を貸し与えましょう。では、これで』
紅の瞳に宿っていた赤い色が消えて
「どっかに帰ったみたいね」
彼女も感じ取ったらしい。やれやれといった様子で肩を
「そのようだな。――ってか、俺が紅の背中を見たこと、しっかり知っていやがった」
不満な気持ちが言葉を乱す。抜折羅はソファーの背もたれに寄りかかる。
「見張っているみたいね。でも、それでいて〝浄化の炎〟で追い払われなかったんだから、気に入られているんじゃない?」
言われて、抜折羅は背中に力を入れて上体を起こし、紅を見た。
「それはお前が――」
それはお前が好いてくれているからだろう――そう指摘してやりたかったが、野暮な気がして抜折羅は口ごもる。こういうことは、他人が告げるようなものでもあるまい。
「……いや、なんでもない。試験勉強を再開しようか。古典の範囲のおさらいが済んだら、お前に予想問題を渡してやる。宝石学の基礎的な問題だ。雰囲気だけは掴んでもらいたいからな。その間に俺は中間テストの勉強をする」
「予想問題って……ずいぶんと手際がよいのね。はじめっからあたしを試験対決に巻き込むことを予期していたみたいな」
紅がつまらなそうな顔をしている。
「行きと帰りの飛行機が暇だったから、試しに作っただけだ。巻き込むことを前提にしたわけじゃないが、紅の勉強のためにとは思っていた」
「む……結局、あたしはそれをやらされるわけね……」
往復の飛行機で作成したもの――それはただの宝石学についての問題ではなかった。その実態は抜折羅がタリスマンオーダー社に入社する際に受けた試験問題の日本語版だ。紅が魔性石絡みの事件に巻き込まれた際に行動しやすいよう、彼女を日本支部のアルバイトとして雇うつもりでいたため、専用に用意したのである。
「健闘を祈るよ」
うなだれている紅の頭を撫でてやる。彼女はくすぐったそうにしながら、頬を朱に染めた。
時刻は二十一時を過ぎようとしている。抜折羅はどこまで詰め込めるか不安に感じながら、やれる限りのことはしようと思った。
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