第100話 *2* 10月11日金曜日、20時過ぎ

 抜折羅ばさらの私室はアメリカから戻ってきたばかりだからか、前に見たときに水晶のクラスターが並んでいた棚は空で、いくつかの大きなダンボールが床に置かれている。そのいずれもが規則正しく、それこそ結晶構造のように並んでいて、彼の几帳面な性格が透けて見えるようだった。

 ――抜折羅のことだから、あたしが嫌がるようなことはしないと信じているけど……今の抜折羅はちょっと変だからなぁ……。

 背中の傷を確認するのを了承したのは、現在の状態を知りたいのはもちろんだったが、他にも理由がある。将人まさとに触れられたときのことがトラウマになっていないかの確認がしたかったのだ。抜折羅が肌に触れてくることはほとんどないので、遊輝ゆうきと比べられば警戒は緩めていいはずだが、念のために知っておきたかった。抜折羅が見たいと言っているのだから、そういう機会を逃すのも勿体無いように思える。

 ――とにかく、抜折羅をうっかり攻撃しませんように。

「で、どうするのがいい? 上だけ脱げば良いのかしら?」

 持ってきていたシュシュで髪をまとめてアップにしながらこうは問う。

「……お前は俺に襲われることは想定しないのか?」

 あきれ口調で抜折羅が問い掛けてきた。

 確か、以前護衛のために宿泊を提案されたときには信用ならないと断ったはずだ。だが現在は抜折羅との関係も変化が生じている。紅は抜折羅と向き合って、問いに答えた。

「と、泊まるつもりで来ているんだから、ちょっとくらいは考えてみたわよ。でも、そういうシチュエーションにはなりそうにないな、って思えたからここにいるの」

 抜折羅は信用できると紅には思えた。約束や信頼などをきちんと守れる人間だと。

 ――それに、この場合はあたしに非があることになるでしょうし。覚悟の上だわ。

「しかし、この状況は想定していなかっただろう?」

 確かに、抜折羅から「背中を見たい」などと言われるとは想像していなかった。

「……まぁね。でも、あたしは抜折羅を信じているもの」

「嫌だと思ったら全力で拒否しろよ?」

「もちろんそうするわよ」

 引かないところをみると、何か意図があるような気がした。性的な意味合いを彼の言動から感じないのだ。

 ふと、いつだったか遊輝ゆうきが「抜折羅くんだって男の子なんだよ?」と言っていたのが脳裏を過ぎる。

 ――なんでそんなことをこのタイミングで思い出すかな……。

「じゃあ、背を向けてくれないか?」

 指示をされて、紅は共有廊下に繋がっているドアの方を向く。これで事務所側に繋がるドアの近くに立つ抜折羅に背中を向けた形だ。

「……俺がブラウスをめくるのと、自分でさらすのとどっちが良い?」

 問われて鼓動が跳ねた。

「へ、変なこと訊かないで」

「いや、今、俺、かなりいやらしいことをしようとしているんじゃないかと思ってだな……紅の意見を参考にしようと――」

 一応、彼は平常心を保っているらしかった。妙なところに意識が向くものだ。

「じゃ、じゃあ自分で捲るから、見えにくかったら言って」

「了解」

 抜折羅が近付いてくる。蛍光灯の設置場所から考えると、この位置なら見えやすいはずである。紅はドキドキしながら、自分でブラウスとキャミソールを一緒に捲り上げた。

「見える? 右の肩甲骨から左脇の方に向かって結構な傷があるはずなんだけど……ってか、その話って抜折羅にしていたっけ?」

「昼に星章せいしょう先輩から聞いた。小学生の頃の話だろ? 大怪我だったって」

 彼の視線を感じると、肌に熱が宿った。恥ずかしいからだろうか。

「そう。さすがは星章先輩、仕事が早いわね」

白浪しらなみ先輩とも情報は共有しているよ」

 抜折羅の手が背中に触れた。指先が、ほんの少しだけ。思わずビクッと身体が反応して、彼の手がすぐに離れた。

「あ、すまない。あまりにも綺麗だったから、つい」

 どんどん鼓動が早くなる。気付かれてしまわぬように、紅は会話を続けることにした。

「抜折羅って、本当は頭で考えるよりも身体の方が先に動くタイプなんでしょ? あなたと最初に出逢ったときも、説明よりも先にフレイムブラッドに手を伸ばしていたし」

 そして、フレイムブラッドを掴み損ねた彼に胸を触られてしまったのだ。今でもはっきりと覚えている。

「それは認めるし、あれは悪かったと反省している」

「反省がかされていないようだけど?」

「……紅は案外と意地悪だな」

 告げると、抜折羅は背後から抱きしめてきた。

「抜折羅……!?」

 服を捲り上げている状態のまま彼の両腕に包まれてしまったので身動きが取れない。

 抜折羅の唇が耳元に寄るのが、温かな吐息からわかる。

「――背中に傷は残っていない。大怪我をしたとは思えないくらい、きめ細やかで綺麗だ。ホープの力を借りてもそう見えるんだから、心配することはない」

「……そう」

 いつになったら解放してくれるのだろう。背中の傷についての心配はなくなったし、抜折羅を攻撃するようなこともないとわかって安心できたが、この状況は想定外だ。

「あ、あの……」

「……紅を見ていたら、もっと色々なところを見たり触れたりしたくなって……悪い、気持ちが落ち着くまでこうしていたいんだ。許してくれないか?」

 申し訳なさが語気から伝わってくる。慣れない気持ちへの戸惑いや対処に困っている様子が理解できる。

 ――しょうがないなぁ、もう。

「う、うん……でも、この状態で落ち着けるの?」

「欲求が充たされるだろうから、たぶん」

「欲求?」

 抜折羅に似合わない単語だ。真面目で仕事優先で、自分のことなど構わないような彼の欲求とは何なのだろう。

 彼は自身の頬を紅の頭にくっつけた。温かい。

「お前に触れたいと強く願っているってことだ。離れていた間、気付けば紅のことを考えていた。それが変なところに作用しているんだろう。これは一瞬の気の迷いだ。もうしばらく経てば制御できる」

 そうやって冷静に分析できてしまう抜折羅という人間は、紅にはとても不可思議で興味が湧く一方、何かの拍子で壊れてしまわないか心配になる。

 ――あたしが無理をさせているのかな……。

「うーん……そうやって抑え込む癖、よくないと思うけどなぁ」

 ぽろっとこぼれた独り言。

 この至近距離では彼に筒抜けだったようで、抜折羅の腕に力がこもる。

「その台詞、俺を誘っているものだと判断するぞ」

「さ、誘ってなんかないわよっ!! ――あたしはただ、そうやって本当の気持ちを抑えるのは健全じゃないって言ってるの。隠すことなく何でも素直に気持ちを言葉にできるんだから、言いたいことやしたいことがあるなら何でも教えてよ。できる限りの協力は惜しまないから……あ、でも、身体を求められても応じられないからねっ!?」

 狼狽うろたえすぎて、妙なことまで口走ってしまった。ドキドキしているのも、熱くなってしまっているのも、この分だと隠せていないのだろう。

「お前が言っているのを鵜呑うのみにするなら、お前に触れたいというこの衝動は解消されないんだが」

 落ち着いた声で返される指摘に、紅は思わず納得してしまう。だが、それはそれ、これはこれなのだ。

「こ、心の準備くらい、あたしにさせてくれても良いんじゃない?」

「それは同意だ。だから、代替行為でどうにかしようとしている」

 はぁ、と小さなため息が耳元でする。葛藤かっとうがわかる。

「……抜折羅は偉いね。よく、この状況で耐えられるもんだと思うわ」

 襲われたいわけではないが、これまでの経験から考えるとあり得ない状況に思える。

「――強いられることと耐えることには慣れている。だが、今はどうしても抑えきれなかった。紅に負担を掛けていると自覚している。悪い」

 責めたつもりもなく、謝って欲しかったわけでもない。抜折羅の台詞に紅は小さく首を横に振る。

「抜折羅、誤解してる。あたしは負担だなんて思ってないよ? それに、あたしも謝らなくちゃ」

「何をだ?」

「あたしは試したの。将人に襲われた恐怖で、あなたを攻撃してしまわないか――それを確認するためにあなたの要求に応じたのよ。だから、気にすることないわ」

「だけど」

「抜折羅にぎゅっとしてもらえて嬉しいよ。いきなりでびっくりしたけど、それだけだから。あと、できればもうちょっと普通に抱き締めて欲しかったな」

 これで良いのだ。彼は自分を責めることにも慣れすぎている。ちゃんと自分を肯定できるように、嬉しいという気持ちや嫌だと感じたことはしっかり伝えよう、と紅は思う。

「……阿呆者が」

 後ろから回された腕に強く力が込められたかと思うと、ようやく解放された。紅は衣服をすぐに整えて抜折羅に向き直る。彼は困ったような表情を浮かべて、横を向いて立っていた。

「紅、正直に言うと俺はお前とどう付き合っていくべきなのかわからない。そばにいたい、護ってやりたい、助けてやりたい――そう思うんだが、ホープの呪いのこともあるし、お前のフレイムブラッドの使命の都合を考えると迷ってしまう。俺のいる世界に巻き込んでしまった責任はちゃんと取りたい。でも、何が最善なのかわからないんだ。今はただ、タリスマンオーダー社の目をあざむくために、日本支部の設立を目標に動いている。支部があれば紅を本社に取られる可能性が下がるだろうから。俺は紅を失いたくない」

 アメリカに戻っている間、本当に紅のことを想って悩んでいたのが伝わってくる。それに、抜折羅はホープの全てを回収するという使命を果たしていないにもかかわらず、こうしてすぐに戻ってきてくれたのだ。そのことに気付いてしまうと、紅の心に喜ぶ気持ちと申し訳ない気持ちが同時に広がっていく。

「それで言いたいことは全部かしら?」

「あぁ」

「気持ちはすっごく嬉しい。でも、考え過ぎだよ」

 紅は抜折羅の前に回ると、彼の背中に手を回して抱き締めた。

「悩ませちゃったみたいだね。あたしのことよりも考えなきゃいけないこと、いっぱいあるだろうに、わずらわせちゃってゴメンね。あたしは抜折羅から離れたりしないから。消えていなくなったりしないから。安心していいよ」

「紅……」

「あたしたちは今までのように、互いを利用して頼っていけばいいの。たくさんのことは望まないから」

「――お前の気持ちはよくわかった。だから、その、離れてくれないか? 好きな相手に抱き締められることが、こんなに危険をともなうことだとは、その、正直、考えていなくて、だな。少しはそういうことを考えて振る舞ってほしいんだが……」

「う……うん……わかった」

 名残惜しいのだが、これほどまで困惑している抜折羅をいじめたいわけではない。紅はゆっくりと離れる。

「すまないな、紅。意識してしまったら、気持ちが暴走しがちで……。触れられるのが嫌ってわけじゃないんだ。紅を大事にしたいから、そうした方が良いって思っただけなんだからな――って、俺、ちょっと頭冷やしてくる。お前は事務所に戻ってろ」

 そう告げて部屋を出て行く抜折羅の顔は真っ赤で、紅は小さく心の中で笑ってしまったのだった。

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