第70話 *3* 9月13日金曜日、放課後
放課後。
紅が新しいクロッキー帳を取り出したところで、静かだった教室がざわめいた。
――あー、やっぱり来たか……。
メールを返しそびれていたことを思い出す。顔を上げるのが
机を挟んで紅の前に立つと、やってきた人物――
「紅ちゃん、お久しぶり。メールくらい返してくれても良いんじゃないかな?」
珍しく虫の居所が悪いようだ。先週の校内暴力事件についてお
紅が俯いたまま無視していると、遊輝はそっと耳元に顔を寄せて囁く。
「それとも、僕に
「あたしの邪魔をしないでいただけませんか?」
三ヶ月前なら彼の整った顔が近付いてきただけで照れて戸惑ったものだが、ようやく耐性がついたらしい。
溜め息を堪えて冷静に小声で返す。顔を上げた紅に、遊輝は少し離れて寂しげに微笑んだ。
「君に会えるのを楽しみにしながら学校に来ているのにつれないね」
「先日の件は感謝しています。でも、あたしのささやかな
「君さえ良ければ、僕が指導しても構わないんだよ、二人っきりで。どうかな?」
「白浪先輩の才能は素晴らしいとは思います。ですが、それとこれとは別じゃないですか?」
きっぱりと紅が告げると、遊輝は困ったような顔をして腕を組んだ。
「――しばらく顔を合わせないうちに随分と難易度が上がったものだね。紅ちゃんに耐性がついてくれれば、余計な虫が寄らないで済むって考えていたけど、ここまで成長されるとちょっとした誤算だよ」
しばらくなどという表現を遊輝は使ったが、実際のところは一週間も経っていない。謹慎処分を受けていたという周りへのパフォーマンスも含んでいるのだろう。
「それはどうも」
余計な茶々は入れず、あくまでもにこやかに紅は返す。
遊輝は大袈裟な溜め息をついた。
「あぁ、もうっ。お小言のせいで選択をミスっちゃったよ。ここは紅ちゃんに甘える方向で攻めておけば良かった。紅ちゃんは優しいから、慰めてくれたでしょ?」
「やっぱりお咎めがあったんですか?」
不機嫌な理由はそこにありそうだ。
「うん。校長室に呼ばれちゃった。閣下が弁護してくれたけど、あれはもう勘弁だよ。副会長であることも、特待生であることも辞めちゃいたい。僕には肩書きなんて似合わないよ」
だいぶ懲りているらしい。思い出したのか、しゅんとした様子で壁に背を預けた。
「校長先生に怒られたわけですね」
「敵に回しちゃいけなかったと思うよ。僕の都合も知らない訳じゃないから余計にね」
遊輝の都合――それはおそらく、タリスマントーカーとしての力のことだろう。蒼衣の父親も紅の祖母、千晶と関わりがあった。魔性石にまつわる事情を知らないはずがない。
「ねぇ、紅ちゃん、お茶しない? 学食で三十分くらいで良いからさ。お願い」
口説くのが目的ではなさそうだ。遊輝が手を合わせるのを見て、紅は渋々立ち上がる。このまま美術室に居座ると周りに迷惑がかかる。遊輝の気が済むなら、付き合ってやるのも致し方のないことだ。
「わかりましたよ、先輩。あたしも話したいことがありますから、食堂に行きましょうか」
面倒な気持ちが前面に押し出された喋り方になったが、遊輝は気にとめなかったようだ。嬉しそうに笑顔を作った。
「ふふ。やっぱり紅ちゃんは優しいね。甘えさせてくれる人って大好きだよ」
すっかり懐かれてしまっているが、紅はあまり嬉しくない。入学したての頃であればこの状況に舞い上がっていたかも知れない。だが、今となってはそう淡白に感じるだけだ。
「あたしは誰に対しても同じように振る舞っているつもりですが、先輩を甘やかさないように注意した方が良さそうですね」
紅がやれやれと思っていると、美術室の扉が小さな音を立てた。
「白浪、ここにいたのですか。捜しましたよ」
静かな美術室に珍しい客の声が響いた。背の高い眼鏡の少年――星章蒼衣が紅たちのいる席に向かって真っ直ぐ歩いてくる。
「閣下は何の用事ですか? 話ならさっきので終わったって思っていたんだけど」
あからさまに不機嫌な様子で遊輝が問う。
「ここでは話しにくい話題ですよ」
答えて、蒼衣は紅を見た。
「
「え? あたしも?」
まさか自分も呼ばれるとは思いもしなかったので、紅はきょとんとした顔で蒼衣を見つめてしまう。遊輝を蒼衣が連れて行ってくれれば静かになると考えていたのだが、どうやらあてが外れてしまったようだ。
「
「えぇ。片付けなきゃいけない仕事が残っているからって言って、先に帰ったわよ」
「そうですか。――彼にはあとで連絡しましょう。白浪と火群さんは屋敷にどうぞ」
「う……あたしの貴重な部活動の時間が……」
しょんぼりとしながら、紅は蒼衣に促されて後に続いたのだった。
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