第66話 *5* 9月29日日曜日、午後

 九月二十九日日曜日。今日は蒼衣あおいの誕生日パーティーが催される。

 こうは蒼衣に用意してもらったルビー色のドレスを着込んで、星章せいしょう邸にいた。使用人たちが忙しく準備にいそしんでいるのを眺めながら、パーティーが始まるのを待つ。

 ――どうにも居心地が悪いわね……。

 婚約者として紹介されてしまうことは協議したが避けられなかった。今時、親同士の話し合いで決められるなんて――という紅の意見は聞き入れられず、蒼衣の策略にはめられた形だ。どうしても破棄せざるを得ない事態になるまでは、許嫁いいなづけとして振る舞わねばならない。

 ――蒼衣兄様が嫌いというわけじゃないのよ。ただ、あたしの気持ちを考えない強引な方法を使われたのがしゃくなだけで……。

 強欲さなら、遊輝ゆうきよりも蒼衣の方が上だと思う。根回しを得意とする蒼衣は、時間を掛けて取り組めることに関しては凄い力を発揮する。そういう努力を怠らない人間なのだ。

 今日を如何いかに無難に乗り切るか思案していると、スマートフォンが震えた。電話のようだ。待ち受けに表示された相手は白浪しらなみ遊輝。

 紅は電話に出た。

「白浪先輩、どうしたんですか?」

「良かった、紅ちゃん。今、何しているんだい?」

 遊輝の声には焦りの気持ちが滲んでいる。珍しいことだ。

「今日は星章先輩の誕生日パーティーですよ? ドレスを着込んで、待機中ですが」

「あー、じゃあ、これは意図的ってことかな? 抜折羅ばさらくんも人が悪い」

 どうしてここで抜折羅の名前が出てくるのかわからない。紅は首を傾げる。

「抜折羅に何かあったんですか?」

「今夜のフライトで本社があるワシントンに帰るみたいだよ。部屋を覗きに行ったら、彼の私物がごっそりなくなっていて、調べたらこれだよ。ここ数日、連絡しても相手してくれないから妙だと思っていたんだ」

「それって――帰国するってことですか?」

「そうじゃないかな? 始めから、彼はそのつもりでいたわけだし」

 ――ホープの回収が終わればアメリカに帰るって話、本当だったんだ……。

「……あたし、何も聞いてない」

 ぽつりと声になる台詞。学校ではいつもどおりに振る舞っているように見えたのだ。帰国の話題に触れないことが気になってはいたが、すぐに話してくれなかったのは予定がまだまだ先だからだと思い込んでしまった。

「僕もだよ。水臭いよね。見送りくらいするのに」

 紅は今の時刻を確認する。パーティー用バッグに入れていた腕時計は十六時前を指している。夜のフライトとは何時だろうか。

「空港は成田ですか?」

 ――抜折羅は、このままあたしの前からいなくなってしまうの? 何も告げずに、黙ったままに。

「羽田。今から出れば間に合うと思うよ。タクシー捕まえたから、そっちに寄ろうか?」

「お願いします」

 即決だった。紅は通話のままで行動に移る。

「了解。紅ちゃんが閣下じゃなくて抜折羅くんを選んでくれてほっとしたよ。僕が想像した通りだ」

「どのくらいで着きますか?」

「五分と掛からないんじゃないかな」

 その回答を聞いて、紅は遊輝がすでにタクシーをこちらに向かわせていたことに気付く。駅前のエキセシオルビルからこの星章邸までは、道が空いていたとしても五分以上を要する。どこでタクシーを拾ったのかはわからないが、スティールハートで紅の位置を特定し、移動を開始していただろうと想像するのは容易たやすい。

 ――着替える余裕はなさそうね……。

 星章家との付き合いの都合で、ドレスでの身のこなしは心得ている。足下までおおうロングスカートにハイヒールであっても余裕で走れるレベルだ。

「わかりました。屋敷の前に出るので拾って下さい」

「オーケイ。じゃあ、またあとで」

 通話が切れる。バッグにスマートフォンを押し込むと、紅は星章家の玄関をつかつかと進む。

「紅、そんなに急いでどこに行くつもりですか?」

 蒼衣の声が吹き抜けになっている二階の廊下から響く。見つかってしまったようだ。階段を駆け下りる音が聞こえる。

「ごめんなさい、蒼衣兄様。あたし、羽田空港に行かないといけないの。今、抜折羅に会わなかったら後悔すると思うから」

 逃げ切るつもりで駆けたのだが、外に出る前に蒼衣に掴まれた。二の腕まで覆う手袋が引きつる。

「逃げる口実ですか?」

「違うわ」

 立ち止まり、紅は蒼衣と向かい合う。

「蒼衣兄様、あたしを縛るつもりなら、あなたとは一緒にいられない」

「紅……」

「ちゃんとここには戻るわ。抜折羅について行きたいわけじゃないの。あたしは抜折羅を見送りたいだけ。けじめくらいつけたいでしょ?」

「何のけじめですか?」

「野暮なことを訊かないでくれる?」

 問いを問いで返すと、蒼衣は紅の腕を解放した。

「ありがとう、蒼衣兄様」

「今日中に戻って来なかったら、連れ戻しに行きます。〝紺青こんじょうの王〟は〝フレイムブラッド〟を追跡することができるのですから、逃げても無駄ですよ」

「笑顔で脅迫しないでくれるかしら。さすがに兄様でも引くわ」

「そういう台詞を言わせているのは貴女あなたです。自覚して下さい」

 にこやかな表情で怖いことを言ってくる。紅は頭痛を覚えた。

「肝に銘じておくわよ」

 告げると、ドレスの裾をひるがえして玄関を出る。

 通りの様子を確認したところで、クラクションが鳴った。一台のタクシーが紅の前に停車する。

「わお。ドレスのままで良いのかい?」

 後部座席のドアが開くなり乗り込む紅に、先に乗っていた遊輝が声を掛けた。

「問題ないわ。慣れたものよ」

「今度一曲踊ってもらおうかな」

 紅の準備が整ったのを見計らったように、遊輝は運転手に指示を出す。向かう先は羽田空港だ。

 ――お願い、間に合って。

 祈る紅を乗せて、タクシーは進路を東に動き出す。

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