第7話ズレている二人
私立明楼鏡高等学校には学食がある。比較的広く、学食を利用する生徒がほぼ利用できるくらいにはスペースがある。
秤は毎日、学食を利用している。理由は安いし、毎朝弁当の用意をするのが手間だからだ。味も中々だ。それに昼食に購買部で売っているようなパンでは味気ない。食事は一日の活力で、きちんと摂取することが肝要だ、と考えている。生きるためにはどうせ食べなければならないのだ。ならば楽しめる方がいいし、満足感を得られる内容にした方がいい。そういう理由から学食を普段利用している。
秤には親しい友人はいるが、共に行動する特定の友人はいない。当たり障りない関係を築いているため、必然、彼等は別のグループに属しているのだ。
それは秤が仲間外れにされているということではない。雑談する相手はいるし、グループを作る際には、むしろ幾人から誘いを受けている。分け隔てなく接しながらも、同じ人間と仲良くし続けることはない。絶妙な距離感のため、秤は快適な学校生活を営めている。
食事はゆっくりしたいし、大体は一人だ。ただそれは一人でいることを良しとしているわけではない。単純に、一緒にゆっくりできるような相手が知り合いにはいないだけだ。それに秤は人間嫌いではない。むしろ好きな方だ。価値観は一般的ではない自覚はあるが、表面上には出さないため人好きする性格だと周囲の人間には思われている。
堅苦しいとは思わないし面倒でもない。人間関係とはそういうものだと達観しているのだ。ただ、やはり息抜きは必要なのだ。
ということで、秤は食券売場の前に立っていた。ここのメニューは定番ばかりだが水準は高い。ほとんど、どれを選んでも美味いのだ。ただ一つだけ一線を画する料理がある。
『カレー』である。
カレーはよほど下手に作らなければ不味くならないという固定観念が秤にはあった。だが、学食のカレーを食べてその考えを変えざるを得なかった。徹底的に不味いのだ。風味、触感、味そのもの、味の深み、味の余韻、食を彩るすべての要素が微妙にズレている。吐き気を覚える程の不味さではない。精々が顔を顰めて「まっず」と思わず口にしてしまう程度の不味さだ。食べられないほど酷くはないのだが、不味い。徹底的に、という枕詞が入ってしまうのは、それ以外の感想を持たないからだ。不味いのに、どこがと言われると困ってしまう。本来、臭いが、触感が、味がなど、直感的に浮かぶ答えが、このカレーにはないのだ。だが、独特の味わいがなぜか癖になる、と秤は思い込んでいる。
秤は食券販売機にお金を入れてカレーの食券を購入した。
「あの人、マズカレー買ってる」
「ああ、時任君ね……いつも食べてるよね」
後ろで女生徒達がどよめくが慣れたものだ。秤は玲李ほどではないが、学内でそれなりに有名だ。本人は自覚しているが、周囲に気づいている素振りを見せることはない。
秤は涼しい顔のまま受付のおばちゃんに券を渡した。
「あんたも好きねぇ」
「凡人にはわからないんですよ、このカレーの美味さが」
「天才にもわかんないと思うけどねぇ」
人のよさそうなおばちゃんが苦笑しながら厨房の奥に入って行くと、手にカレーを持って戻ってきた。見た目は普通のカレーだ。むしろ美味そうに見えるが、香りは微妙である。
「ありがとうございます」
礼を言い、トレーを持って席を探す。目的の人物がいたので、近くに移動すると声をかけた。
「前、いいかな?」
緩慢に顔を上げたのは桜ヶ丘玲李だった。周囲がざわつくが無視する。
彼女の行動は調査済みだし、何を好み、どんな場所に行き、どんな趣味があるのか、といったような情報は取得している。すでに『一応の知り合い』となった秤は、ここぞとばかりに接点を増やそうと考えたのだ。
元々、そのために学食に通い、こんなカレーを食べるようになったのは単純な嗜好ではない。むしろまだこのカレーの良さがわからないくらいだ。
ならばなぜ不味いと言われているカレーを敢えて食べるのか。理由は目の前にある。そこには秤の手元にあるものと同じものが存在している。つまり、玲李もカレーを食べているのだ。
「………………どうぞ」
「そこまで考えなくても」
十秒近くの間隔があり、秤は苦笑しながら玲李の正面に座る。
無言でもぐもぐとカレーを食べ続ける玲李。普段と変わりなく、動揺は見られない。秤が声をかけてきても、大して気にしていないようだった。
秤は小さく嘆息すると手を合わせいただきますと言い、スプーンを手にとった。マズカレーを食べるにはコツがいる。普通に食べればまず最初の一口で後悔し、二口目で水を欲し、三口目で「これ、不味くね?」と友人に話したくなり、四口目で食欲が失せる。普通に挑んでは食事自体が嫌いになりそうになってしまうパンチ力があるのだ。なので、大事なのは味を自ら変えることである。
秤はラッキョを軽く潰しながらルーに混ぜ、しょうゆを軽く垂らして混ぜる。これだけでかなり味がマシになる。幾度も食した経験があるため慣れたものだ。咀嚼し、五度目に噛んだ時に飲み込み、間髪入れずに次のカレーを口に放り込むのだ。休んではいけない。間を空けると途端に、自分は何をしているのかという虚脱感に襲われてしまうのだ。
不味い。不味いがどうも癖になる。そんなカレーなのだ。最初は何の苦行だと思ったが、今では、なるほど、これはこれで悪くはないのかもしれないという楽しみを持っていたりする。秤も玲李に負けず劣らず、ちょっと普遍的な精神構造ではないらしい。ただそれは一種の自己催眠である気もする。むしろそんな気しかしないが、敢えて気づかないようにしていた。
玲李はカレーという庶民の料理にも関わらず――あくまで一般に広まっているという意味だ――綺麗に食べている。白米とルーとの割合も適度で食べ進め方は完璧。カレーはルーという液状の食べ物だからか少しばかり皿の表面を汚してしまい、見目が悪い。だが、玲李はルーを多めに掬っているためか綺麗に拭き取られている。こんな食べ方があるのか、と秤は感心したものだ。
二人とも食事を終え、水を飲み干すと、玲李がやや不機嫌に口を開いた。
「……何か?」
「いや、綺麗に食べるなと思って」
「人の食事を見つめるのはどうかと思いますが」
「反論の余地もないな。君の言う通りだ。悪かった。ただ人は好奇心が強く、差異性の強いものには目を奪われるものだよ。そこはわかって欲しいね」
「回りくどいですね。言い回しを拘れば聡明に見えると思ってらっしゃるのですか?」
「言葉遊びくらいさせて欲しいってだけさ。言葉を否定するより、肯定して自分の考えを話す方が会話は円滑になると思うけれど」
例えばリア充の「ウェーイ!」「マジヤバくね?」「ヤバいっしょ!」「ウケる、超ウケるわー!」などの端的且つ効果的な現代語だ。一見、馬鹿らしく思えるが、それぞれ非常に有用性があり、汎用性が高い。ヤバいだけにも色々なヤバいがあり、ウケると言えば、それだけで相手と強く共感できるのだ。衒学的な人間よりはよほど人間関係の構築が巧みで周囲を和ませる能力があると言える。
堅苦しいのはよそう。つまりぶっちゃけ、体裁なんてどうでもいいから、どうせなら話すことを楽しんじゃえよ、ということだ。他愛無い会話なんてその程度のものなのだから。
「……その必要性を感じません」
確かに、他人と話したいと思えないならする必要はない。ただ、会話に対して深く考え過ぎな気もする。ただ何となく話しかけたたけなのに勘違いする女子みたいな。別に好きでもないのに、好きなんだと勘違いされた男の虚しさと呆れは体験しなければわからないだろう。ちなみに、これは秤の経験談である。そういう人間も確かにいるのだ。
玲李は違う意味で重く考えているように見えた。接することを恐れているような。
秤は彼女を長く観察していたし、彼女が人を寄せ付けないようにしていることも知っている。ただ、人間が嫌いというよりは、見下しているというか、そうせざるを得なかったような印象を持っていた。玲李は一人でいたいという願望を持っているのではなく、自然とそうなってしまったのではないだろうか。そう秤は考えていた。
「会話は別に必要だからするわけじゃないさ。ただ、なんとなくでするものだよ。親しくなりたくなくても、嫌いでも話すことはある。たまたま居合わせたまったく知らない人と話すこともあるだろう。深く考えず、話すのも悪くないと思うけれど?」
「なんとなくしたくない、と答えたらどうするんです?」
「それは僕のことが気に入らないから、という理由から?」
「……いいえ。別にそういうわけではありません。むしろどうでもいいです」
「けれど君は僕に貸しがある」
「それは会話をすることで返せということですか? それとも、貸しがあるから言うことを聞けと?」
「どっちも違う。君のことを知りたいんだ。君がどういう人間なのかわからないと、貸しを返して貰えないだろ? 君が何をできるのか、何を持っているのかわからないんだから」
玲李は微かに顔を顰め、思案をしている。真面目な彼女だ。純粋に、秤の言葉を受け止めているに違いない。やがて玲李は華奢な首を縦に揺らした。
「それは一理ありますね」
「わかって貰ってよかった。ということで、会話をしよう」
秤は完全な笑みを浮かべた。それは演技ではなく、純粋に会話を楽しもうという思いから滲み出たものだ。演技は必ず演技だと伝わる。完全でも模倣は模倣。自然に出る表情には決して勝てない。だから秤は誇張はするが完全な演技はしない。笑う時は多少なりとも嬉しいし楽しい。逆も同様だ。
玲李は澄んだ瞳を秤に向けていたが、ほんの少しだけ双眸が揺れていた。
「ですが、私はあまり得意ではありません」
「会話が?」
「はい。事務的なことでよければ話せますが、あなたのいう会話とはそういうものではないでしょう?」
「そうだね。僕が言っているのは、周りでされているような会話のことだね」
秤達の周囲は空席が目立つ。玲李は学内で有名で、彼女に近づく人間はほとんどいない。精々が教師か、彼女に一方的な好意を持っている人間だけだ。後者はなぜか、秤のように話しかけたり、接することなくいきなり告白する。彼女の人となりを知ろうとする前に、容姿に魅入られ、思いを告げるのだ。
少し離れた場所には生徒達が談笑している姿が散見する。日常的な風景で、特段目立つようなものではない。だが、玲李にとってそれは日常的な行動ではないようだ。
「別に肩肘張らなくても、思ったことを言えばいい」
「と、いうと?」
「例えば、このカレー。一緒の物を食べているんだから話しやすいだろ? 共通点を話題にすると盛り上がりやすいからね。会話の基本だよ」
「なるほど、そういうものですか」
真面目な娘だ。最初は警戒していたのに、一度納得してしまうと素直に相手の言葉を飲み込む。たった数分しか話していないが、玲李の剣呑とした雰囲気は薄れている。ただそれは秤に心を許したというわけではないだろう。単純に『貸しを返すために会話をすること』を許したに過ぎない。それは秤も理解していた。
だが、それでいいのだ。人間関係の構築なんて即座にできるものではないのだから。
「じゃあ、実践してみよう」
秤は続きを促すように、手の平を見せる。すると玲李は小首を傾げたが、数秒後に気づいたらしく、再び考え込んでしまう。きっと、どんな言葉が適切なのかと考えているのだろう。そう思った秤は黙して彼女の言葉を待った。
一分が経過した。
しかし秤は焦れるでも苛々するでもなく、じっと彼女を見ていた。急かすような視線ではなく、玲李が会話をしやすいように柔和な表情を浮かべている。
「ねぇ、あの二人ってどういう関係?」
秤の耳がピクリと動く。秤は視力は悪いが聴力はいいのだ。見るともなく見て、視界の端に声の主を入れると、どうやら女生徒達がひそひそと話しているようだった。
知っている。同じクラスの女生徒だ。片方は、秤に好意を持っているという噂がある、八重樫さんである。ショートカットで垢抜け切れていない感じが一部で人気らしい。ちょっと童顔だがバストは豊満である。
「さあ、話してるところ見たの初めてだし」
「なんか二人ともマズカレー食べてるじゃん。ありえなくない?」
「あれ食べてる人いたんだ……ってか桜ヶ丘さんと話してる人自体、ほとんどいなくない?」
「だよねぇ。でも見た感じ、あんまり楽しそうじゃないね。ってか、無言?」
「ってことは、時任が一方的に話してるとか? 確か桜ヶ丘さんって告白されまくってるって噂あったよね? ってことは、それ?」
「で、でも、時任君って仲人で有名じゃん? 性格良いし、顔も悪くない。それに成績もいいじゃん。なのに、桜ヶ丘さんとなんて、ちょっとねぇ。もっと別の人選べばいいのにさ」
「なに、狙ってんの?」
「は、はぁ!? ち、違うし」
なんて話をしているが、秤は表情を変えない。内心では内緒話ならもっと声を抑えろと思っているがおくびにも出さない。
しかしやはり目立つようだ。別に、今更隠す必要はないが、あまり茶化されると面倒ではある。学校で「おまえ桜ヶ丘さんと付き合ってるのかよ!」みたいな風に言われても構わないがちょっとウザい。だが、一度顔見知りになったのだから、ひた隠しにする必要もないと秤は考えていた。それにこそこそ隠れて行動してもいずれバレるものだ。だったら堂々としていた方が動きやすい。
二分が経過した。
まだ玲李は考えている。会話は一言目が難しい。だが、それは考え過ぎるからだ。思い付きで話す方が円滑に会話ができるものだ。しかしだからこそ相手を不快にさせたり、傷つけるような言葉を吐くこともある。
ただ、真面目だったり、会話が苦手という人間は大体が考え過ぎているのだ。的確な言葉を返さなければならない、相手に興味を持たせる内容でなければならない。そんな強迫観念から言葉にできない。言うなれば優しかったり、気が弱かったり、あるいは検索能力が人より発達しているから様々な選択肢が浮かびすぎるのだ。記憶容量は多いが、検索機能は普通だったり、やや劣っている場合も同じだ。
知識が豊富で会話も上手く、的確な言葉を返せるような人間、例えばお笑い芸人のような人達はこの検索機能が著しく発達しているということ。記憶力は普通でも、言葉のやり取りが絶妙なのはそれが理由だ。何を持って頭が良いというかは曖昧なものなのだ。
もちろんこれらは訓練で培うことができる技術の一つでもあるだろう。日常生活に必須ではないが、その能力があった方がプラスにはなる。
秤は玲李という人間に接する中で最低限の会話ができるようになって欲しいと考えていた。でなければ、秤自身も玲李と意思の疎通ができない。言葉がなくとも汲み取るにも限界があるのだから。ただ、その域に達するには多少の訓練と信頼関係が必要だ。まずはその構築を目指そうとしていた。
三分が経過した。
玲李は無言である。しかし、確実に何か考えている。
秤はずっと玲李の言葉を待った。玲李が会話を苦手としているのは幼稚園の頃から幾度となく見ているので知っている。そしてその内、話さなくなったこともまた知っている。ここまでとは思わなかったが、それでも事前に覚悟していれば問題ない。
ふと、周囲の空席がなくなっていることに気づいた。どうやら八重樫とその友人達がそれとなく近くに座ったらしい。会話を盗み聞こうとしているのだろう。あまり快い行動ではないが、秤は無視を決め込んだ。
それに秤のクラスメイト達も座っていた。その中には、この間、仲人をした金田君もいた。下手な口笛を吹き、椅子をゆっくりと引いて、隣に座った。横目で見られたがこちらも無視した。正面には告白した彼女が座っている。彼女は小林さんという名前だ。こちらを一瞥して来たが、またしても無視を決め込んだ。そしてその隣にイケメンの金田君も座り、秤を睨んでいた。いや、泣いている。咽び泣く寸前といった表情だった。しかし秤は真っ直ぐ玲李を見つめていた。
傍から見れば柔らかな、それこそ父性愛の塊、幼稚園の園長、孤児院の経営者さながらの慈愛に満ちた、仏のような姿だった。表面上は後光が射すレベルの神々しさだったが内心は違った。
――帰りたい。何なのこの状況。なんで周りに知り合いや野次馬ばかりが固まって、むしろ顔を近づけて、見守ってるの? バレないと思ってるの? むしろバレてしまえと思っているの?
最初は慎ましさがあったが、近づくにつれてどうでもよくなったのか、今では完全に秤達を見ていた。むしろ視界に入っている。なのに秤は気づく素振りを見せられない。
それでも周囲の人間は、微妙な茶番的な雰囲気のまま、秤達を見守っていた。
八重樫達はちらちらと秤を見ている。なに、この空気。みたいな顔をしているが、おまえ達のせいでもあるだろ、と内心で憤る秤。
金田君たちは「おいしいね」とか笑いあいながらイチャイチャしながら、時折秤を見ていた。そんなそれとなく見てますよ感を出すならもっと席を離して欲しい。
玲李に告白して見事にフラれたイケメンの金田君、通称イケダ君は、成功者の金田君を挟んで座っている。その瞳には強い嫉妬の炎が滾っている。だが秤は彼だけには絶対に気づかない振りを続けようと心に決めた。最早、号泣しているからだ。関わってはいけない。
五分が経過した。
そして、待ちに待った瞬間が訪れる。玲李がゆっくりと顔を上げたのだ。表情はいつも通りの鉄面皮だったがどこか晴れ晴れとしている。
ようやく会話が始まるのだ。そう確信した秤は思わず、相好を崩した。
彼にしては珍しく、前傾姿勢になり、言葉を聞き取ろうとしてしまった。それほどに、玲李の言葉を期待していたのだ。むしろこの状況から早く脱したかった。早く喋って!
そして玲李はゆっくりと整った唇を開いた。
「ここのカレー不味いですよね」
時が止まった。
学食の喧噪さえ一切合財が消失した。
五分である。
三百秒である。
その時間を有して出た言葉が、カレー不味いですよねだったのである。秤は色々と考えていた。彼は会話をする際、的確な言葉を的確なタイミングで話すことができる。それは日頃の努力、勤勉さ、従来の記憶力と弁舌の素質。それらの要素が絡み合い、織りなした結果の能力だった。必然、彼は玲李が何を言うかシミレーションをしていたのだ。だが、まさかここに来てカレーが不味いと言われるとは思わなかった。だって、不味いのに食べ続けるような人間は自分しかいないと思い込んでいたのだ。それにあれだけ美味しそうに食べていたのに、まさかこんなことを言うとは考えもしなかった。
そして秤はいつも通り、脊髄反射的に返答した。
「あ、うん。不味いね」
時が動き出した。
それは会話が終了したという証だった。玲李はどこか満足気な顔をしていたが、秤は何度も瞬きをするだけだった。
「それでは、そろそろ時間ですので、私はこれで」
「あ、うん。またね」
「また」
先ほど声をかけた時とは違い、少しだけ空気が柔らかかった。どこかうきうきとしている。いや、ちょっとスキップしている。そう、間違いない。彼女は内心で会話をやり遂げたと思っている。
秤は呆けたまま、去る玲李の背中を見送った。
自然に隣の金田君を見た。なぜか憐れむように笑われた。
今度は正面の彼女を見た。なぜか戸惑いながらサムズアップされた。
今度は内緒話をしていた八重樫と目があった。顔を赤くされてしまった。
ついでにイケメンの金田君とも目があった。なぜかまだ号泣していた。
秤は天井を仰いだ。カレーを食べ続けた二年間。不味いと思いながらも必死で食べ、良い所を見つけようと頑張った。そしてちょっと癖になる不味いカレーに自分の中で昇格させたのだ。味を変えれば何とか食べられると気づいてからは気が軽くなった。それほどの不味さだ。
話す時に、このカレーの良さを語れるようにレポートまで書いた。それもこの日のためだったのだ。それが、実は玲李はこのカレーを不味いと思っていたとは。
なんとなく虚しくなって、嘆息する。しかし救いはあった。玲李は味音痴ではなかったのだ。これは調査記録にやや修正が必要なようだ。
秤にとってはそんなことはどうでもよく、何だか自暴自棄になる寸前の心境だった。そして胸中で呟く。二年間、不味いと思いながら必死でカレーと向き合ってきた時間はなんだったのだろうか。しかし秤は学んだ。世の中、無駄に終わる努力など幾らでもあるのだと。えてして、人生とはそういうものなのだ。
秤は悟りの境地に達し、そして薄く笑った。
もう、ここのカレーは食べない、と心に誓って。
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