自己否定系女子と孫子の兵法

@kuroe113

第1話


 今か今かと私は待ちわびていた。

 外での僅かな物音ですら一喜一憂しながら。

 もう、何度立ち上がったか分からない。

 ―――来た!


 終に待ち望んだ瞬間が訪れた。

 郵便桶から、何かがこすれる音が響く。

 それが待ちに待った知らせであることはもう、分かっている。

 投函されると同時に拾い上げる。

 さぁ、結果はどうだと、勢い勇んで手紙を広げた。



 自分を変えたい、そんなことを考えたことはないだろうか。

 人間力の向上。できる幅が広がるのだから、きっと誰もが待ち望んでいる事だろう。

 誰もが、一度くらい挑戦したのではないだろうか。


 そして挫折したというのも珍しい話ではないだろう。


 理由なんてものは無数に存在する。

 変わったという自覚が持てなかったり、変わろうとすることに疲れてしまったり。

 諦めた人はどこかで行き詰ってしまったのだ。


 万人が認める人生のコツというものが存在する。


 楽観性、別の言い方をするならば、ポジティブさというもの。

 俗な言い方をすればリア充と呼ばれる人種が、これに該当するのだろう。


 だが、私はネガティブな人間だ。

 変わろうとしたのに、変わることができなかった事実である。


 暇つぶしでやった心理テストの結果がそうだったし、自分自身でも自覚している。

 それこそ小学生のころまでだったら、活発な立ち回りもできていたというのに、中学に上がった途端引っ込み思案になってしまった。



 それでも、私は変わらなければならない。

 なんとなく、手放すことができなくて持ってきてしまった、手紙をフリフリしながらそう思う。


 そこにあるのは残念ながらで始まる、お詫びの文。


 ―――そう、私は大学院の入試に落ちてしまったのだ。


 大学四年生の秋学期。

 もう後はない。


 この事実は、冷水を浴びせかける様に、私から余裕というものを奪い去っていく。


 これまで毎日を計画性もなく漠然と生きてきた。

 中学高校とそれは変わらない。変えようともしなかった。

 それが今になって、私を苦しめる。


 あの試験から、しばらくたったというのに、私は未だに落ち込んでいた。


 ―――私は変わった人間だ。


 客観的な、それこそ第三者的な視点から推測したのだ。信頼性も高い。

 そして、こんな自分は社会で通用しないということもわかっている。


 だから、変わらなくてはならない。


 それでも、性格なんて早々に変わるわけもない。

 ヒントを得ようと自己啓発に関する本を読んでいた。卒業するまでに、自分を社会に合うようにチューニングするために。


 内容には共感を覚える。

 なら、実行できるのかと聞かれれば否だ。


 そこまで考えると、憂鬱な気分になってしまう。

 ポジティブさをうたう本を読んでネガティブになるのだから、業が深い。

                                       パタン


 悪循環を断ち切るために本を閉じた。

 まだ人がまばらな図書館だったから、やけに音が響いたのが印象的だった。


 英語の勉強でもしよう。そう思いカバンをあさる。


 隣の椅子においている物だから、のぞき込むような体制になってしまう。

 だからこそ、近づいてくる人影を見逃してしまった。



「おお、葉月やないか。でさ、試験どうやった」


 葉月八代井。

 それが私の本名である。だが、友好関係が狭い私の名前を気安く呼ぶ人物には、あまり心当たりがない。


 誰だろうか?


 声にはどこか聞き覚えがある。

 当ててやろうと、頭の中で検索をかけたが、すぐにエラーをたたき出した。

 元々人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。

 

 あきらめて、声がした方に視線を向けると、禿げた頭とメガネ。


「久しぶりですね。先生」


 ここまでくれば流石に、誰か分かる。

 ゼミの先生だ。

 日常会話をする程の中でもないので、ただの先生としてしか記憶していない。

 

 それでも最も身近な先生であることに違いはなく、進学の事については不安から相談していた。


 最も、今一番話したくない事柄だったのだが。


 自分のことについて、他人に話すのが大嫌いな私である。だが、どうせ遅かれ早かれ話すことになるのは確定だ。


 ―――そうでなければ、絶対に話さない。


「試験の結果ですが、まぁ、残念な結果でした」


 ここで落ちたと言わないあたり、自分がまだ感情の整理が出来ていないのだろう。


「そうか、なら次頑張りいや」

「たぶん、面接は大丈夫だったんですよね。向こうにも好評化でしたし、でも、多分ですが英語の点数が悪かったんだと思います。予定としては今回で受かるはずだったので、これから先どうしていいかさっぱりです」

「そうか、勉強頑張っとると思っとたんやがな。ならこの本やろう。計画たてんのに役に立つで。古本屋で買った安物の本屋から代金のほうは気にせんでもええし」


 そういって、渡されたのは、孫子の兵法について書かれた本だった。


「特に、このページ、多分今の君に助けになると思うから、良く読んどきや」


 先生は、この本を受け取るべきかどうかを迷っている私を置いて、さっさと去っていた。

 まだ学校が始まってもいないのに、ここにきているのだ、仕事が立て込んでいるのかもしれない。

 だったら、呼び止めるのも失礼か。

 気に入らなかったら、次のゼミで返せばいい。そんな軽い気持ちで、先生が指定したページを開いた。




【兵法、一曰度、二曰量、三曰數、四曰稱、五曰勝、地生度、度生量、量生數、数生稱、稱生勝、故勝兵若以鎰稱銖、敗兵若以銖稱鎰】       

                             孫子の兵法より抜粋




 これが注釈書でなければ、理解できなかっただろう。

 漢文はあまり得意ではないのだから。


 何々、兵法は一に度、二に量、三に数、四に称、五に勝ね。


 まず度というのは、距離。

 敵は試験。ならば、距離というのは試験日までの日数と考えるのが自然かな。


 次に書かれている量は物量ね。

 物量、物量? 何に当てはめればいいのだろう。

 人の考えを手助けする戦略本に悩まされるとはひどく滑稽な物だ。

 正直これで投げ捨ててもいいが、一ページ目から投げ捨てる事もない。

 物量とはすなわち物資の量。

 つまりは兵糧だよなぁ~、なら普通に考えてお金かな。

 お金を使えば、教師に見てもらえるし、参考書だって好きなだけ買える……し?

 その時、私の頭に電流が走った!


 ―――つまりどれだけ学べるかってことか!


 これなら、当てがある。

 私は階段を上り、お目当ての場所へと足を進めた。

 大学の図書館ということもあって、資格や就職に関する本が充実している。今、目指しているのはそうした本、特に英語に関する資格について書かれた本が収められている場所だ。

 どんな本がいいだろうかと考え、自分が苦手としている分野、即ち文法に関して書かれた本に手を取った。


 後は私のやる気しだいかな。


 次の問題点は、兵士の数。

 すなわち―――

 

 ―――今の学力だ!


 測る対象があいまいね。一体どうやって測ろうか?

 量と関連付ければ行けるかな。

 先程利用したエリアで今度は、英語の資格、その模擬テストを手に取った。

 これを使用し、今の力を測ろう。

 その決意を胸にせっせと、書き進める。


 そして私が兵を知るのは翌日。


 一日でできると思ったけど無理でした。

 テストに出ないだろうから、リスニング問題を飛ばしたというのに、このざま、途中で精根尽き果て、二日という長期に渡って私を苦しめやがった。


 で、結果はどうかというと―――


 文法は40問中20問正解

 長文は50問中28問正解となった。


 TOEICにおいて700点以上の成績をたたき出したのならば、試験が免除。

 つまり、合格圏内は7割以上の正解。


 ―――今5割!

 後たったの二割、やったね!


 そう考えると、意外に悪くないのかもしれない、私の英語力は。

 とはいっても、試験形式は論述。まぁ、目安にはなるだろう。

 実際に資格を目指してもいいし。


 この二割をどう埋めるかに専念していけば、英語の弱点をカバーできるだろう。


 そして、四つ目が称、これが自軍と他の軍隊を比較すること。


 私の学力で合格できる大学院を探せということだ。

 そして最後の勝が勝算について考えろってこと。


 幸いなことに、家には、私が目指している大学院の資料が存在する。

 それで調べても問題ないのだろうが、ネット全盛のこの時代、わざわざ家に帰って、資料を見る必要もない。

 ネットで十分だ。

 ついでに後回しにしていた、度、すなわち、試験日についても調べてみよう。


 まず一校目のページを開いたのだが、称の特性上複数の大学を同時に検討した方がいいだろうと思って、次々とページを開いていく。


 まずは試験日っと。

 なるほどなるほど二月の終わりごろか~。

 もう一校は、あっれ? でも何とかなるし~。

 三校目は―――


 ―――まずい、三校すべて試験日がダブっていやがる!


 この事実を確認すると、私は席を立った。思わず、叫びだしそうになってしまった。


 落ち着け。

 ここは図書館。ここは図書館。ここは図書館なのだ。


 念仏のように、魔法の呪文を唱え続けたが、それでも平静を取り戻すまでにはもう少し時間が必要だ。


 どうして、こんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。

 一回目の試験の時に、日数を見ていたはずなのに。

 今回の試験は半分は様子見だった。

 まだ次はあるさと、楽観的に受け止めることができたというのに、その楽観が一気に吹き飛んだ。


 ―――しばらく、外をうろうろする。


 少しでも試験に有利になるようにと、参考書を進めようとしたのだが、無理だった。

 こんな不安定な状態では身に入らない。それでも時間の経過とともに落ち着いてきた。


 図書館のすぐわきにある、自販機で割安感がある大型のジュースをがぶがぶ飲み、外を走り回ったりと、変な行動を数分間続けたのだが、パソコンを起動しっぱなしで外に出てきたことに気が付いて、急いで図書館の中に引き返す。


 今ならまだ、修正が効くはずだ。

 不思議なもので、あれほどくよくよ悩んでいたというのに、自分は前に進んでいるという自覚があるせいか、何とか迷いを無視することができた。


 称。どれが、私に最適かしっかりと見定めなければ。


 ―――その比較検討の結果、一校が候補から消えた。


 私が受験した所と同程度の入学難易度を持つ、ならば事情を知っている方を選択するのは必然。

 まだ選択にはもう一校存在するが、こちらは入学難易度が最も低い。

だから、切り捨てるのがまだ早いだろう。

 幸いなことに、両校とも途中に進学説明会がある。

 これに出席してどちらを選択しても遅くないはずだ。


 もう、後も予備もないのだ。

 しっかりとした計画を立てなければ。


 そんな時だった、家族以外は数人しか登録していない私の携帯電話が鳴ったのは。


 携帯を開くと、その内容は、進路に関する確認だった。


 就職先に関する確認。

 グラグラと、自分の中の何かが揺らぐのが分かる。


 もちろん、私は進学の件を引き合いに出して断った。


 ―――果たして、これでよかったのだろうか。


 この申し出はなんと都合がいい、タイミングでなされたのだろうか。

 どこかで神様がいて、きっちりと時間を測ったようではないか。

 こんなタイミングで言われたら、もう一度、電話をかけなおしたくなってしまう。


 でも、それではダメだ。


 進学と就職を同時に進めるなんて事は出来るはずもない。

 時間は有限だ。

 自らの無能によって限られた時間すらっ潰してしまった。


 ―――これからは、先を見据えて行動しなければならない。


 まずは決められた時間、それを自分から縮めて一体どうするというのだ。

 それに、どれだけ自分の学力を伸ばせるのかにも関わってくる。

 選択肢が多いというのは迷いう生むことがある。


 今、実際に私が迷っているように。


 企業のことは調べてすらいないので、自力は不足しているのだ。

入れても、意にそぐわない物と成るだろう。



 だからこそ、私は誘惑を断ち切ることに成功した。


 冷静な視点で物を見れ、就職は絶望的という結論を下せたのだから。

 じっと眺めていた携帯電話を懐の中にしまい込む。

 流されるように生きてきた私だけど、それでも、これだけは私自身で選んだ未来なのかもしれない。

 こんなあやふやでいい加減な物だけど、他人に強制されることなく、何かに流されることもなく、自分自身で選んだのだから。


 さぁ、図書館で試験勉強でもしよう。


 就職を切り捨てればまだまだ時間はあるはずだ。

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