第32話「たったひとつの美味しいカフェオレ」
純粋なものは美しい。混じり気がなく、ただひとつのもので構成されていて、迷いがない色をしている。つまりブラックコーヒーのことだ。
コーヒーの楽しみ方というのは、もちろん人それぞれである。誰にでも自分だけの好みがあり、それに合わせて味を変えることは自由である。コーヒーにミルクを入れようと、砂糖を入れようと、お酒を入れようと、ホイップクリームを入れようと、それを否定する理由はない。
それでも僕の個人的な好みを言うなら、コーヒーはブラックが好きだ。
純粋で、混じり気がなく、迷いがない色をしている。豆の種類、焙煎度、粉の荒さ、抽出……自分の淹れ方による味わいの変化が、真っ直ぐにでる。
コーヒーは美しい。
その色味は黒曜石を砕いたようであり、夜空を溶かしたようである。そこにミルクを混ぜると、やはりそれは美しい純粋さを損なうように思えてしまうのだ。
そんなことをノルトリに話すと、小さなあくびを返された。今日も今日とて昼も過ぎた頃にやってきたノルトリである。もちろん学校はサボっている。
窓からは、昼下がりの暖かい陽気がもったりと降り注いでいる。それはノルトリの肩に羽毛布団のようにのっている。ノルトリは瞼が落ちるのを懸命に堪えている。それは起きるために必死に抵抗しているのではない。眠りに落ちる一瞬の手前、そのいちばん心地が良いところにできるだけ長く居座ろうとする、彼女なりの戦いなのだ。
こういうときのノルトリには、何を言っても通じない。どんな話も右から左へ受け流す。
だから僕もまた、日ごろは誰かに話しもしない日々のちょっとした考えなんかを、こうして打ち明けることができるのだった。ノルトリができるだけ長く意識を保っていられるように協力しているつもりでもある。
しかし今日は珍しく、ノルトリは話を理解していたらしい。腕枕にくてっと柔らかい頬をのせたまま、いつもよりもかなり細くなった瞳で僕を見た。
「……ユウは、カフェオレが嫌い……?」
「嫌いってことは、もちろんないよ。ただ好んで飲むってことがないくらいで」
「どうして……?」
「やっぱりブラックのコーヒーが好きだからかなあ」
「カフェオレのことは好き、じゃない……? ユウの作るカフェオレは……おいしいのに……わたしは……すき……」
声はだんだんと尻すぼみになって、ついに聞き取れなくなってしまった。ノルトリは夢の草原に落ちていった。
僕は手にグラスを持ったまま、衝撃に襲われていた。どうして今、この瞬間に、その衝撃があったのかはわからない。けれど昨日まではまったく思いもしなかったことに思い至る瞬間というのがある。それがいまであり、ノルトリの言葉によって引き起こされたのだ。
「僕は、カフェオレのことを好きじゃないのか」
この世界では、コーヒーの人気がない。親しみもなく、苦い液体を飲んで楽しむ習慣がない。最近はようやく、コーヒーを楽しんでくれるお客さんも増えたが、カフェオレの方が人気があるのは間違いなかった。甘く、まろやかで、飲みやすいからだ。
そのことにどこかで不満を感じていた自分に、気づいた。
そうだ、僕はコーヒーが好きだ。けれどその魅力は伝わらず、カフェオレの方が美味しいと言われることが多い。
好きじゃないものを作り、それが美味しいと言われることに、どこかで卑屈さを感じていなかっただろうか。なんだ、本当の魅力もわからない人たちだな、と壁を作ってはいなかっただろうか。
お客さんは美味しいカフェオレを求めているというのに、僕はそれを提供することに手を抜いていなかったか?
僕は喫茶店のマスターである。たしかにコーヒーが自慢だ。けれど、喫茶店の役目とは、ほっと息をつける時間と場所を提供すること……僕の自慢のコーヒーを押し付けて美味しいと言ってもらうことではないのだ。
「ああ、くそ、なんてことだ……!」
僕はあまりの重大さに布巾を放り出して、グラスをそっと置いて、頭を抱えてしまう。
「僕はなんて未熟な存在だったんだ!」
「……マスター、急にどうしたのよ?」
カウンター席に座っていた男性が、目を丸くしていた。
「すみません、つい取り乱してしまって……ガイックさん、そのカフェオレ、美味しいですか?」
奇遇にも、ガイックさんに提供したのもカフェオレである。ノルトリとは配分や甘さが違うけれど。
「え、そりゃ美味いよ。真っ黒なコーヒーはちょっと飲みづらいけどさ、こうしてミルクと混ざるとさ、いいよな。柔らかくなる」
「柔らかい」
繰り返した言葉の響きすら、新鮮なものに思える。
僕はカフェオレのことを見ていなかった。作り方や配分、ミルクの選び方、鮮度……それらにちゃんと気を配っていただろうか?
美味しいものを作ろうと、そういう意識でコーヒーとミルクを混ぜていただろうか?
毎回の温度がブレていないか注意しただろうか?
コーヒーに何かを混ぜることを、僕は良いものとは考えていなかった。
コーヒーは純粋だからこそ美しい。ミルクを混ぜれば濁ってしまう。
そう考えていた。そうこだわっていた。けれどそれは、独善ではなかっただろうか。こだわり、といえば聞こえはいいが、新しい可能性を切り捨てるだけの盲目ではなかっただろうか?
僕は急いでコーヒーの準備をした。いつも作っているカフェオレを、改めて作った。ミルクを温め、コーヒーは濃い目に抽出し、混ぜ合わせる。そして飲む。
「……僕は愚かだった」
優しさが溶けたような乳褐色の水面を見つめ、呟き、カップを置いた。
ああ、カフェオレだ、と。それだけの感想でしかない。たしかに、美味しい。飲みやすい。柔らかである。けれどこれは、コーヒーにミルクを混ぜただけの飲み物だ。
しかしそれはカフェオレの存在を否定するではない。僕がそう作ってしまっただけなのだ。
そのままのコーヒーでは受け入れられないから、仕方なくミルクを混ぜて、誤魔化している……そんな意識だから、僕は自分で作っておきながら、自分のカフェオレを好きと言えない。すべての責任は僕の心にあったのだ。
「ガイックさん」
「お、おう?」
「失礼しました。また明日、来てください。本物のカフェオレをお出しします」
「いや、これでいいと思うんだけど……美味しいし」
「いえ」と僕は断言する。「これはカフェオレじゃないんです。コーヒーとミルクを混ぜたものなんです」
「……どう違うんだ?」
「混ぜただけのものは美しくありません。本当の意味でカフェオレになったとき、それはひとつの存在として純粋で、だから美しいはずなんです」
「……マスターはあれだね、哲学者みたいなことを言うんだね。よくわからないけど、楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます。本日のお代はけっこうですので」
「……哲学者じゃなくて、職人のほうだったね」
と、ガイックさんは苦笑した。
φ
翌日の昼である。ノルトリは今日もまた、暖かな陽光のなかでうとうとと目を細めている。
「ガイックさん、お待たせしました」
「マスター、目の下のクマがすごいけど……」
「大丈夫です、ちょっと一睡もしなかっただけなので」
「徹夜でなにをしてたんだ?」
「もちろん、カフェオレの探求です」
コーヒー豆の選定と、焙煎の度合い。深煎りと浅煎りによって、ミルクとの味わいがどう変わるか。そして抽出時間や、お湯の温度。ミルクとの配分……知るべきことは山のようにあり、寝ている時間がもったいなかった。
まだまだ、深めるべき味がある。できるなら市場を回って最高のミルクも探したい。
けれど、今日明日、慌てたところで、急に正解が見つかるものでもないことは分かっている。コーヒーとはそんなに浅い世界ではないのだ。
徹夜で向き合ったのは、僕自身の意識の改革のためという点が大きい。
本気でカフェオレと向き合い、その調和を求めるという意識。熱い鉄を叩けば形が変わるように、僕の中の意識が熱を持っている間に、認識を叩いて変える必要があったのだ。
そうして淹れられたカフェオレは、昨日と同じであって、同じではない。名前は変わっていなくても、中身はすっかり変わっている。
カップの中にあるのは、コーヒーとミルクが混ぜ合わされたものではない。ふたつの素材を溶かしこみ、新しいひとつの形へと昇華した、言わば僕の手による調合。人工の宝石。カフェオレという新たな純粋な頂の一つ……。
黒でもなく、白でもない。柔らかな色味を、今の僕は美しいと断言できる。
「どうぞ、飲んでください。これが本物のカフェオレです」
「……そ、そうか」
ガイックさんはどこか緊張した面持ちでカップを取り、口をつけた。
そして「むっ」と声を漏らすと、厳かに頷いた。
「これは、確かに、昨日とは違うね」
「ええ、そうでしょう」
「まるで別物の味がする」
「ええ、そうでしょう」
「柔らかくて、濃くて、本物の味だ」
「ええ、そうでしょう」
「美味しいよ」
僕は我が意を得たりとうなずいた。昨夜の探究は素晴らしい経験だった。真剣にコーヒーとミルクと向き合い、自分の心を叩き、新たな美しさを求めることは、僕自身を大きく成長させてくれたように思う。
カフェオレ。実に悪くない飲み物だ。それは決してコーヒーの派生ではなく、カフェオレというひとつの奥深い世界なのだ。今後もたゆまず研鑽する必要があるだろう。
「ねえ、ノルトリ、今日のカフェオレはどう? 昨日と淹れ方を変えてみたんだ。美味しくなってないかな?」
昨夜の努力の手応えと、徹夜による寝不足のテンションで、日ごろなら訊かないようなこともつい口走ってしまう。
ノルトリは眠たげに細めた目を片方だけ開いて、僕に言う。
「…………わからない……」
「え」
僕は愕然とした。あんなに全てを変えたのに……? 焙煎時間を5分も伸ばし、抽出するときのお湯の温度も6度も下げ、時間は15秒も伸ばしたのに……!?
味に違いが出ていないはずがないのに!
目を丸くする僕。しかしノルトリはいつもと変わらない眠たげな顔のまま、むにゃむにゃと言う。
「ユウのカフェオレは、いつも美味しい」
僕は目を丸くしたまま、何も言えなかった。
ガイックさんが「くっ」と、堪えたかと思うと、そのまま肩を震わせて笑いだした。
「そうだな、そこのお嬢ちゃんの言う通りだよ、マスター。このカフェオレはたしかに美味い。でも、昨日のカフェオレだって美味かった。それでいいじゃないか」
「……けっこう、がんばってみたんですけど」
ガイックさんは笑いの余韻を残しながら、カフェオレを啜った。
「なに、このカフェオレの中に、マスターの頑張りも溶けてひとつになってるさ」
了
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