2 ギャルと干物とエゴサーチ

——エゴサーチ。

インターネット上で自分の名前を検索し、話題に上っているかどうかを調べることである。

承認欲求を満たそうとするその罪深き営為は、おそらくは俺のような創作者の業であり、悪魔の誘惑でもあり、最後の最後は諸刃の剣である。

なぜなら。

まず、自分のことが話題になっているとは限らないから。

そして、話題にされているからと言って、褒められているとは限らないから。

仮に褒められていたとしても、自分の望む褒められ方とは限らないから。

……このように、小さな期待を抱くには、傷つくリスクがあまりに大きすぎるのだ。

エゴサーチをするに当たっては、『〜とは限らない』の精神が必須である。相応の覚悟をすべし。

実際に、有名人の中には『絶対にエゴサーチをすべきではない』と主張する人が少なからずいる。エゴサーチでは承認欲求が満たされないと判断したのだろう。非常に重みのある言葉だ。

しかし、だ。

それでも俺たちは甘い蜜を吸いたいと願ってしまう。

褒めてくれている可能性を追い求めてしまう。

まるで砂漠の中に咲く一輪の花を探すかのように……などと詩的に表現したところで、実際のところはドロドロとした自己承認欲求の賜物であるのだけど。

それは自らを『ジャックナイフ』と名付けた俺も例外ではない。

つーか、やっぱ褒めて欲しい。褒めてもらえたら嬉しい。いたって普通の感情だと思う。



「これってアレだよな?」

「まあ……いわゆるアレだな」

「はぁ〜……」

俺は嘆息した。

即売会の翌日の月曜日。事態はまったく予測していなかった方に傾いていた。

「で? どうすんのさ、これ」

ぼたもちはパソコン画面を指差した。その顔には焦燥の色が浮かんでいる。

「どうって言われてもなあ……。もう収拾つかないだろうし」

「あのゴスロリ女、やってくれたぜ」

「まったくだ……」

俺たちは揃って頭を抱えた。


いつもの放課後、いつもの場所——俺の部屋。

いつものように俺とぼたもちは顔を突き合わせていた。

彼はほぼ毎日俺の部屋にやってきて、黙々と同人誌の原稿をしたり、アニメ『女神ラブ!』についてあれこれ話したり(ケンカしたり)、アニメを鑑賞したり、ゲームで対戦をしたり、最終的にはダラダラと暇を持て余したりしていた。

つまり、たまり場だ。

高校二年の秋という青春ド真ん中のこの時期。クラスの奴らは、部活に青春を捧げたり、ゲーセンに遊びに行ったり、女子とカラオケに行ったり、学校のイベントに精を出したりしているというのに——俺は野郎と二人で毎日原稿だ。

我ながら屈折した青春時代を送っている自覚はある。でも、こんな青春も悪くないと思える。

きっといろいろなアニメのおかげだろう。アニメの登場人物たちはしばしば、非常に閉じたサークルの中で青春を送る。そんな風景に憧れていた節はある。

彼ら/彼女らは知っているのだ。広く浅い交友関係よりも、狭くてもどっぷりと深い仲の方が素晴らしいのだと。そういった関係の中で、青春という名の物語は紡がれるものなのだと。

だから彼ら/彼女らは友達が少ないことを(大抵は)気にしていないし、閉じたサークルの中で平穏に、かつ刺激的な時間を過ごしたいと願っているのだ。

それが作品によっては部活動だったり、生徒会だったり、悪友と街に繰り出すことだったり、はたまた異世界だったりするのだろうけど——俺とぼたもちは部活動など校内の団体に所属せず、青春を学校の外——同人活動に捧げることを選んだ。

実を言えば、ぼたもちは入学時にこそ漫画研究部に入っていた。だが、基本的な知識と描き方だけ習得すると半年も経たないうちに退部してしまった。

彼曰く『他の奴と足並みを揃える為に入ったわけじゃない』。

酷い言い種かも知れないが、彼の絵を見ればなんとなく理解できる。彼は他の部員に比べて成長が早かったようだし、同人で好きな作品を発表する方が性に合っている。

一方で、俺は入学時点からずっと帰宅部だった。

特にやりたいことはなかったが、仲の良かったぼたもちに誘われる形で同人を始めた。

元々アニメは好きだったので面白そうだと感じたが、絵心はなかった。

自分がいわゆる『同人絵師』になる未来が想像できなかったため、半ば消去法的に『文字書き』、つまり小説を書くことを選んだ。

動機は不純だったが、その選択は正解だった。俺はすぐに、小説を組み立てることの複雑な魅力に取り憑かれ、小説を書きまくった。

書いてはぼたもちに見せ、褒めてもらえたり、もらえなかったり。また書き直しては激論を交わし、その過程でさらに小説を書く手応えと楽しさを知った。

そして、ぼたもちとジャックナイフの二人サークル『ぼたもちジャック』としての初のイベント参加を果たしたのが、昨日のことだった。

だけど、まさかこんなことになるとは……。

パソコンの画面には、Twitterで『ぼたもちジャック』とエゴサーチした結果が表示されていた。



ブッキー@減量中 16:22

さーて! 仕事も片付いたし、昨日のイベントで購入したぼたもちジャックさんのほなりお本を読みますかね! 感想は後ほど〜


ららら貴方の子 12:51

ぼたもちジャック様の小説。昼休みに読む。楽しみ! 

(添付:本を手に持った画像)


ンジャメナ太郎 12:34 

ぼたもちジャックの本、まあまあだった。小説はうまいと思った


能登 11:11

ふおおおこれはすごい! めっっっっっっっっちゃ面白い! とにかく面白い!(語彙力w) オススメ! ぼたもちジャックのほなりお小説!!

(添付:カフェらしき場所のテーブルに置かれた本の画像。少しブレている)



輪廻 9:56

今日の予定:寝る。買い物。寝る。ぼたもちジャックの本を読む。寝る。

(添付:ベッドの上に本が置かれた画像)



AkAri@寝坊  昨日 20:01

今日のメガラブイベ戦利品! 寝坊しちゃってギリギリになっちゃったけど、小説本衝動買いなり〜。サークルぼたもちジャック様のほなりお本、、、読むの楽しみ!

(添付:本の画像)



幼女@納豆カレー  昨日 19:48

今日はメガラブイベントお疲れさまでした! おかげさまで納豆カレーの新刊完売ぜよ! やっぴー。感想待ってる! 次は冬コミ〜(予定は未定w) あっ、ひとつ心残りが……向かいのサークル、ぼたもちジャックさんの小説本が気になってたのに買えなかった〜(泣 通販やってるかなあ



るびぃ  昨日 19:12

なんとなく買ったほなりお本読了。ぼたもちジャックマジ神



最後の三つは昨日の時点で見ていたものだ。

この検索結果だけを見て、最初に俺とぼたもちは狐につままれたような気分になった。実際に本を買ったのはブラン・ノワールたった一人なのに、感想は様々なものが寄せられているのだから。

「今さらだが、彼女が買った本を知り合いに配って感想を書かせてるっていう線は?」

苦し紛れにぼたもちが言ったが、俺は首を振った。

「ないだろ。友達が多いタイプじゃなさそうだし」

「それはまあ……」

普段の素の彼女がどんな感じなのかは知らないが、ゴスロリ姿で同人即売会に現れ、一人で梅水晶をアテにビールをあおる二十三歳の女性に友達が百人いるとはまったく思えなかった。偏見かも知れないが、確信を持ってそう言えた。

「ってことは、やっぱりアレか」

「そうだ。アレだ」

——すべて、ブラン・ノワールが書いたのだ。様々な人になりすまし、あたかもぼたもちジャックの小説本が世間的に評価されているかのような空気を作り出している。

なんの為に? ……知るか。まったく分からない。

ただひとつ、揺るぎない事実は。

今、俺たちの身に起こっていることを一言で言うなら……

「ステマだな」

「……ああ、ステマだ」

ぼたもちはもう一度頭を抱えて溜め息混じりに言った。

ステマ——ステルス・マーケティング。

定義について語ると長くなりそうだが、簡単に言えば『サクラ』のようなものだ。

たとえば芸能人のような発信力のある人が、ブログで特定の企業の商品を紹介をする見返りとして金品を受け取る行為を指す。

うまくやれば、ブログを見たファンが大挙して紹介された商品を買い求めるそうだ。

結果、企業としては普通に広告を打ち出すよりもずっと安価に、しかも効果的に商品の宣伝ができるというわけだ。

ただし、効率的である反面、それが明るみに出てしまった場合、商品を紹介した芸能人も、紹介を依頼した企業も、どちらのモラルも問われることになる。

場合によっては、業界を追放されるまでバッシングを受けることさえある。

これが明確に法に触れる『犯罪』であるかどうかはさておき、『騙された』と感じれば消費者は怒るだろう。

「でもさ、別に俺たちはアイツに何も報酬を渡してないぞ」

「まあな……」

そう。俺たちはこれを『ステマ』だと感じたが、もしそうであるなら、俺たちからブラン・ノワールに対して報酬が渡っていなければおかしいじゃないか?

俺たちはあのゴスロリ女に何も渡していない。

だから、彼女のモチベーションがよくわからないのだ。何故彼女は俺たちに利になることを文字通り買って出たのか?

それも、十万円という大金で。

なんなら、俺たちが金を渡して『好評な感想を買う』という方が話としてはすっきりする。——もちろんやらないが。

ぼたもちが言う。

「だからさ、厳密に言えばこれはステマじゃないんだよな……」

「まあな」

その通りだ。今回の件はステマの条件を満たしていない。

「でも、そこはかとなくステマっぽいんだよな……」

「…………」

「当事者が言うことじゃないけど、ステマの臭いがプンプンする」

うなだれるぼたもち。

「……そうなんだよ。そこなんだよな」

まったくだ。ありがた迷惑もいいところだ。こんなこと頼んだ覚えはない。

これは勝手にマーケティングだ。ステマならぬ勝手マ。

しかし、ぼたもちは残念そうに首を振った。

「もはや俺たちがブラン・ノワールに金を渡してるかどうかってことは問題じゃない。コトは起きちまったんだからな」

「……どうする?」

「…………」

俺は訊ねたが、ぼたもちは沈黙した。

うん。それはそうだ。今まで生きてきて色々なことをシミュレーションしてきたが、この状況は考えたこともなかった。対処法がまったくわからない。

ブラン・ノワールに会って、工作を止めるように言うか?

——しかし、仮にその申し出が受け入れられたとして、感想ツイートが消去されたことにもし誰かが気がついたら……俺たちの立場が悪くなるのでは。

それか、ふんわりとやりすごすか? 今は熱いかも知れないが喉元を通り過ぎればいいと割り切るか?

——いや、Twitterの書き込みは残り続ける。何らかの手を打たないと日に日に発覚の可能性が上がっていくのでは。

わからない。どうしたらいいんだ。

不幸中の幸いは、ブラン・ノワールの工作活動は驚くほど周到に作り込まれていたってことくらいか。

試しに検索でヒットしたアカウントの詳細を辿ってみると、そのすべてが普通に『生活』を送っているのがすぐに分かった。

作りたてのアカウントで宣伝ツイートだけをしていて工作が見え見え——なんてことはなく、発覚を恐れる心配はなさそうに思える。

……だが安心はできない。どれだけ上手く取り繕ったところで嘘であることに変わりはないのだ。どこに粗があるか分かったもんじゃない。

とにかく、今の俺たちに出来ることは、ブラン・ノワールの謎の行動が疑惑として話題に上らないことを祈るばかりだ。

っていうか、せっかくの自作が話題にならないことを祈るばかりの状態って最悪じゃないか。


——と、ふとパソコンの画面を見ると、俺のTwitterアカウントに向けて通知が一件届いていた。

「ん?」

それは俺宛てのメッセージだった。



幼女@納豆カレー

ジャックナイフさん、はじめまして! 突然失礼します。昨日のイベントにサークル参加していた幼女と申します。実は向かい側の席だったんですけど、小説本が欲しいなと思い……、ただ、それに関してちょっと不思議というか訊ねたいことがあるのでDMしてもいいですか?



「なあ」

「ん?」

俺はぼたもちを呼びかけ、今起こったことをありのまま伝えた。

「……幼女からメッセージが来たんだけど」

「は?」

ぼたもちは明らかに可哀想な奴を見る目で俺を見た。

いや、お前の気持ちは分かる。俺だって自分で言ってることがアホらしいことだって分かってる。でも事実だ。

「いやマジで! 見ろよ」

俺はパソコンを指差した。

ぼたもちはその先をじっと見つめて、真顔で一言。

「なるほど。幼女からメッセージだな」

「でしょ?」

「これもあのゴスロリの仕業か?」

「うーん……」

どうだろうか。たくさん感想が出てくれば直接メッセージを送ってくる人がいてもおかしくないから、これも工作の一環であると言われれば納得できそうでもある。

だけど、自分の感覚としてはこれは違う気がした。

つまりこれは工作ではなく、本当に俺と連絡を取りたがっている人が存在すると考えた。

元々少しだけ引っかかってはいたのだ……エゴサーチで浮上してきたものの中で、この『幼女』とかいうおかしなペンネームの人物だけが、昨日の即売会に『売り手』側として参加していたと述べていたことが。

売り手としての参加であれば、別の角度からも検証ができる。

俺は昨日の即売会のWebサイトにアクセスし、本当に俺たちの向かいに幼女という名のサークル参加者が存在したかどうかを確認した。



配置番号:ガ15b 

サークル名:納豆カレー

代表者:幼女



「いた。幼女だ。……幼女は実在したんだ!」

俺がまたありのままの事実を言うと、ぼたもちは溜め息をついた。

「言ってることは合ってるんだけど、そこはかとなく響きが危ないんだよな」

それに、と彼は付け加えた。

「こんな名前付けるのは、十中八九おっさんだろ」

「……」

「いや、百発百中でおっさんだな」

確率が格段に上がった。

だけど、それもそうだ。俺は脳内に描写していた無邪気で無自覚な美しさを纏った童女の映像を打ち消した。

夢を夢のままで持ち続けることの、なんと難しいことか。

「じゃあこれはブラン・ノワールとは別人ってことだよな?」

俺が確認すると、ぼたもちは曖昧に頷いた。

「たぶんね」

これもひっくるめてすべてブラン・ノワールによる工作の一環なのかも知れないが、リアリティを出すためだけに即売会のサークル参加者一覧にまで手を回していたとしたら、いくら何でもディテールが細かすぎるだろう。

俺は幼女を名乗る人物のアカウントをフォロー(友達登録)し、返事を書いた。



ジャックナイフ

幼女さん、メッセージいただきありがとうございます! とても嬉しいです。本はまだ在庫が若干あるのですが、訊きたいこととは何でしょうか? フォローしたのでダイレクトメッセージでも大丈夫です。よろしくです!



「うん。それで行こう」

とぼたもちから許可が下りたので、このメッセージを返信した。

別に俺のアカウントなんだから許可などなくても送ろうと思っていたのだが、すぐ横にいたので一応。

本の在庫はなくなっていたが、元々自分用に保管しようと思って五部ほどは手元にあったので、幼女氏が本当に本が欲しいと言えば、渡そうと思っていた。

返信して一分も経たない内に、幼女が俺をフォローしたという通知が来た。

お互いにフォローし合った者同士であれば、ダイレクトメッセージという当事者以外には非公開のやりとりをすることができる。

幼女の正体がブラン・ノワールであれ知らないおっさんであれ、『昨日俺たちの身に起こったこと』が議題であるなら、ダイレクトメッセージで秘密裏にやり取りをした方がいいだろう。

ダイレクトメッセージはすぐに届いた。



幼女@納豆カレー

フォローありがとうございます! 本の件なんですけど、失礼ですが昨日、ゴスロリのお方が全部買い占めていらっしゃいましたよね? なのに感想ツイートがいくつも見られるので、はて? と思いまして。もしもまだ本が余っているのでしたら、一部買わせていただきたいとも思っています。



「…………」

言葉が出ない。早速バレてるじゃねーか。あのゴスロリ女め……。

たしかにネット上での工作の巧さは目を見張るものがある。たぶん事情を知らない他人からすれば、疑う余地もないだろう。

だが気づかれた。原因はファッションだろう。フリルやレースが盛大にあしらわれたゴスロリ服と、ふわふわと揺れる金髪縦ロールを引っさげた女が、どうして目立たないと思える?

ぼたもちが深い息を漏らした。

「冷静に考えて、これはまずいな」

「やっぱマズい……かな?」

振り返ると、彼は浮かない表情だった。

「まずいだろ。こうしてステマがバレていくわけだ。……ステマじゃないが。だがいずれにせよ、俺たちの立場は悪くなる一方だぞ」

「そうか……うん、たしかにそうか」

「お前、事の重大さ分かってるか? まずこの局面をどう切り抜けるんだよ」

「う〜ん……」

先が思いやられるという気持ちはあるけど、今回の幼女氏に関しては、ちゃんと説明すれば分かってくれそうだし、まだ大丈夫かなと……。

「丁寧そうな人だし、話せばわかってくれるって」

だが、そんな俺とは裏腹に、ぼたもちの口調は次第に熱を帯びていく。

「おいおい。幼女を名乗ってる奴がマトモなわけないだろ?」

……それは一理あった。

「それに、まさか真実を話すってのか? ネットの繋がりなんて地雷だろ。確実におっさんだし、適当にごまかそうぜ」

「ごまかすったってどうするのさ?」

「それは…………」

そこで沈黙。俺は提案する。

「もうさ、訊かれたら正直に答えるしかないんじゃない? 訳の分からないゴスロリ女の工作に遭ってます、迷惑してますけど明るみには出したくないので内緒でお願いしますってさ……」

「そんな話が……」

ぼたもちは言いかけたが、そこで言葉を継ぐのを諦めた。

気持ちは痛いほど分かる。そんな話があってたまるかと俺も思うが、でも現実だ。信じてもらえなくても押し通すしかない。

ちくしょう、とぼたもちは吐き捨てた。

「こんなことになるなら、あの女に本を売らなきゃ良かった。『完売』という一時の欲望に負けた自分が憎い……!」

「まあまあ。とりあえず、幼女にどんな返事を書けばいいか考えようよ」

「お前は気楽でいいよな……」

ンなわけあるか、と反論したくなったが止めた。俺からすれば、いかにも問題を自分一人で抱えてますよっていう彼のポーズの方がよっぽど気にかかるんだけど、今いがみ合っても仕方ない。

俺はパソコンに向き直り、幼女氏への返事を打ち込む。



ジャックナイフ

ありがとうございます。本はまだ少し手元にあるので、お渡しすることは可能です。郵送でも、お住まいの場所によっては手渡しでも構いませんよ! ゴスロリの女性については……まず彼女は他人です。正直、我々にとっても不測の事態で、かなり困惑しているというのが本音です。



「こんなところか?」

訊ねると、ぼたもちは無言で頷いた。可もなく不可もなくといったところか。

とりあえず、ステマ疑惑は俺たちにとっても困ったことだと伝わればそれでいい。

俺はメッセージを送信して、椅子の背もたれに体重を預けて返事を待った。

——すぐに返事が来ると思ったが、それ以降ぱったりと返事が止まってしまった。何かまずいことを書いたか? と何度も自分の送信したメッセージを見返したが、見れば見るほどベストな回答だという確信を強めた。

幼女氏のTwitterアカウントも見たが、特に何も呟いていなかった。きっと用事ができたのだろう。別に返事を急いでいるわけではない。

返事が来ないと見るや、ぼたもちは机に広げていたスケッチブックを閉じ、リュックに放り込んだ。そして立ち上がる。

「今日はそろそろ帰るわ」

「そか」

時計を見ると、十九時を少し回ったところだった。窓の外は薄闇に包まれ、夜の到来を告げていた。

夏の盛りは過ぎたが、まだまだ蒸し暑い日が続いている。これが落ち着くのは十月になってからだろう。もう少しの辛抱だ。

「腹減ったなあ……」

言いながら俺も立ち上がる。部屋を出た場所で立ち止まり、階段を降り行くぼたもちを見送る。

「じゃ」

「また」

いつも通り、別れの挨拶は簡単なものだ。男同士だし、玄関まで送るのも面倒だし。

階段を半分ほど降りたところで、ぼたもちは「あ、そういえば」と立ち止まり、こちらを見上げた。

「帰って飯食ったら原稿やるわ。また連絡する」

「え、原稿って何の?」

「ばかやろう」

純粋に訊ねるとソフトに罵られた。

え、何で?

「あのゴスロリ女も言ってただろ? コミケだよ、冬コミ」

「冬コミって……まだ先だろ? 早くない?」

彼は大きく溜め息をついた。

「早くないから。計算してみ?」

「……?」

えーっと。

冬コミは十二月末。その三週間前に印刷会社に入稿するとして、十二月の頭からは文章のチェックや書き直し、入稿用データの作成に取り掛かって、一週間ほどで入稿完了と。

……となると、小説そのものの書き上げ目安は十一月いっぱい。

えーと、俺個人としては長い小説を書くのに取っておきたい期間は、構想一カ月、執筆三カ月。ざっくりとした基準だが、四カ月は欲しい。

四カ月。

うむ。今が九月頭だから、九月は構想。十月、十一月、十二月の三カ月で執筆——

……ん? 十一月いっぱいで書き上げ予定だろ?

「…………あ」

なるほど。間に合わん。

「気づいたか……遅えよ……」

やれやれ、とぼたもちは言った。

「間に合わないじゃん! そういう大事なことはもっと早く言ってよ」

「人のせいにすんな。じゃ、間に合わせる方法考えとけよ」

そうとだけ言い残して、ぼたもちは階段を降りて帰ってしまった。

「…………」

残ったのは静寂のみ……。

俺は部屋に戻り、パソコンの前にどっしりと腰掛けた。マウスをクリックして、スリープ状態だったパソコンを立ち上げる。

「三カ月……か」

小さな声で、自分に突きつけられた期間を再確認してみた。

三カ月、うん……三カ月。

短いことは短いが、絶対に不可能な期間じゃないはずだ。俺はもう一度頭の中で計算する。

三カ月の中に構想と執筆を収めればいいのだ。理想は構想一カ月と執筆三カ月の計四カ月だが、これをほんの少しスケールダウンすればいいだけ。

——構想半月に、執筆二カ月半。

うん。これしかない。

俺は机の端に置いてあった創作用ノートを広げ、そこに簡単なスケジュールを記入した。

「よし……っと」

これで、あとはやるだけだ。一心不乱にノートを黒く塗り潰し、キーボードを百万回叩くだけ。

たったそれだけで小説は書き上がるのだ。何も心配はない。

木材に釘を打ち込む時のように、コツコツと少しずつ進めるしかない。焦って一息に打とうものなら、釘はあらぬ方向にぐにゃりと曲がってしまう。小説も同じだと思う。

ということで早速、構想を練ろうとノートを一枚めくる。

「よし、やるぞ……!」

ひとつ気合いを入れて、ペンを手に取る。集中力が大事だ。

と、ふとパソコンの画面を見ると、Twitterにメッセージが到着していた。

集中したそばから気が散ってしまったが、幼女氏からの返信だったのでペンを置き、マウスを掴んだ。

そして、ステマ疑惑の件が幼女氏に悪い印象を与えていませんようにと祈りながら——それを開いてみた。


幼女@納豆カレー

ゴスロリの方が他人になりすまして感想を書いているってことですかね? 困惑するのもわかります。連絡先も知らないんですか? あ、本の受け渡しなんですけど……私、ひじ市に住んでいるんですけど、もし近くなら手渡しできませんか? 無茶言ってすみません、残り少ないと知ったら余計読みたくなってしまいまして……笑


俺はメッセージを何度も読み直して、いくつかの確信を得た。

わかったことが三つある。

まず、幼女氏は俺たちの困惑を理解してくれて、解決方法さえ探ってくれる優しい人物であること。これには安堵した。

次に、『私』という一人称と口調の雰囲気から、幼女氏が女性である可能性があること。これはまあ、別に出会いを求めてる訳じゃないからどっちでもいいんだけど、俺も男だ、四十代のおっさんが出てくるよりは気持ちがいいかな。

そして、最後に。

どうやら幼女氏は、肘ヶ谷市で暮らしているらしいということ。

肘ヶ谷市は、俺とぼたもちが住むすな市の隣街だった。自転車で十分ほどの街だ。

「近いな……」



幼女氏が住んでいるという肘ヶ谷市は元々、都市と呼ぶには圧倒的に活気が足りない街だった。

俺の目から見る限り、本当に『市』の条件を満たしているのかと疑いたくなるほど住む人も多くなかったし、とにかく空き地が目についた。所有者がいるかどうかさえ怪しい土地が有り余っている状況はひどく目に余った。

住宅情報のチラシには『閑静な住宅街!』という文言が踊る。担当者の苦心が滲み出ているという点では、ある意味詩情に満ちた表現なのかもしれない。

実態は、ただ人口密度が低くスカスカした土地だ。閑静じゃない方がおかしい。

街の名前と同じ肘ヶ谷駅から歩いて五分もかからない場所には、とどめき川という幅の広い川が流れている。夏場になれば河川敷でバーベキューをする集団が散見されたが、それも大盛況というわけではない。ちらほらといるだけだった。

穴場と言えば聞こえはいいが、ただ寂れていただけだ。

まだ夏は涼しげがあってマシだが、冬の川辺はほとんど魔境のような雰囲気だった。寒気を遮るものはなく、上流から下流へと捨てられるように流れゆく水はゾッとするほど冷ややかな音を立てる。その場にいるだけで背筋が凍えそうになったものだ。

こんな土地に住もうというのはよほどの物好きだろうと思える。

肘ヶ谷という土地は本来、そういう場所だったのだ。都会になりたくてもなれない、かといって純然たるベッドタウンになるには都心までのアクセスが悪い。人はどんどん外へと流れて行く。暗い未来しか想像がつかない場所だった。

——ところが。

数年前、肘ヶ谷駅前に『肘ヶ谷リバータウン』という、嘘みたいに巨大なショッピングモールができた。

これは肘ヶ谷市民、そして隣接する街の住民にとって大事件だった。

率直な感想を言えば「どうして肘ヶ谷なんかに……バカなんじゃないか……」と思ったが、だが間違いなく、俺もその恩恵を享受した内の一人ではあった。

肘ヶ谷リバータウンの最大の特徴は、その広さにあった。元々あった空き地を暴力的なまでにフル活用し、日本最大のショッピングモールとして肘ヶ谷の名とともに広く知れ渡った。

衣・食・住すべてにおいて、都心の繁華街にまったく引けをとらない——いや、美観の点では上回ってさえいる——ラインナップの店舗群が軒を連ね、また、公園やスポーツ場、イベントスペースも充実。

週末にはアイドルやミュージシャンがミニライブを行い、活気を見せている。

更には、とどめき川の河川敷の一部もバーベキュー場として整備され、器具のレンタルや食材の購入もできるため、『手ぶらで行けるバーベキュー場』として地元住民以外からも人気を博しているようだ。

肘ヶ谷リバータウンができたことは俺にとっても本当に事件的なことで、オープン当初は足繁く通ったものだった。

俺の家からは自転車を二十分弱走らせれば着く距離だ。今でも月に二回くらいのペースで買い物に通っている。時間があるとつい本屋やシネコンに足を運んでしまうのだ。

全貌を知ろうと歩き回るだけで足が棒になってしまう広大なショッピングモールに居ると、自分がSFの世界の未来人になったかのような錯覚に陥る。

ユートピアなのかディストピアなのかは不明だが、自分が文明の中に存在している共同体の一員だという感覚は嫌いじゃなかった。

ここがユートピアであれば、ここに立つことが俺の生きる意味なのだろう。

ここがディストピアであれば、ここに立つことで俺は生きる意味を探し始めることができるだろう。

どちらにせよ、望ましいことだ。



幼女氏からメーセージを受け取った日から六日後の日曜日——俺とぼたもちは肘ヶ谷駅に来ていた。

ある約束があったためだ。

改札を抜け、出口から外へ出るとすぐ目の前に肘ヶ谷リバータウンが見える。

放射状に組まれた白い鉄骨にガラスが張られた屋根はまるで大きな傘のようだ。

その下に鎮座する巨大な建物の壁には、木目があしらわれたおよそ一メートル四方のパネルが散りばめられ、それが視覚的なぬくもりを生んでいる。

建物からはエスカレーターが伸びていて、次々と人を飲み込んでいる。メタリック調に装飾されている近未来的なエスカレーターは、いかにも手触りがツルツルしていそうだ。

建物のふもとは広場のようになっていて、不思議と圧迫感がない。円形にベンチが並んでいて、誰もが足を休めることができる。

エントランスはガラス張りの壁だ。そのすぐ脇には、見上げるほど大きな案内図が表示された電子看板がある。その近くで多くの人が足を止めて指を差しながらどこに向かうかを話し合ったりしている。

透明感と安らぎと洗練、そして解放感が絶妙に同居する——そんな特徴的なエントランスまで、駅から徒歩二十秒。

そう。今や肘ヶ谷駅は、ほとんどこの巨大なショッピングモールの為だけにある駅だ。

「たまんないな」

隣を歩くぼたもちは灰色の空に向けて文句を吐き捨てた。

——その日は朝から小雨が降っていた。

九月の中旬、昨日までの残暑が嘘のように少し冷えるような空気を感じた。湿度は相変わらず高いが。

ぼたもちの文句は天までは届かず、細かい雨に飲み込まれ、地面に叩き付けられて溶けた。ように見えた。

傘を持参していたが、小雨だったし、どうせすぐに屋根のあるエントランスに着くので俺は傘を開かなかった。

一方で、ぼたもちは傘をさしていた。

彼は頭が濡れるのを嫌うのだ。理由を訊ねたことはないが、髪型を見れば容易に想像がつく。

『どこかアンニュイな雰囲気をまとった無造作ショート! 指先で軽くねじって束感を演出!』

キメキメのヘアスタイルに向けてそんな宣伝文句を叫びたくなるが、ぐっとこらえる。

「たしかに、自転車で行ける場所に電車で来るのは損した気分になるね」

足下の数多の飛沫を見ながら、ぼたもちの心情を汲んだつもりで俺は言った。

「そうじゃなくて」

だがばっさりと切り捨てられた。隣を歩く彼は忌々しい視線で空を見る。

頭はしっかりと傘でガードしながら。

「日曜日に雨が降るのって間違ってると思うんだよな」

ぼたもちは言った。

「平日ならまだしもさ」

「どうしてだよ?」

無茶なことを言う。天気に間違いも正解もないだろ。

「だって、平日は学校だろう。大人だったら仕事だろ?」

「そうだけど」

「平日を社会活動に費やしている俺たちは、休みの日は気持ちよく過ごさなければならないと思わないか?」

「…………」

と、そんな話をしているうちに屋根のあるエントランスに到着した。

ぼたもちがゆっくりと傘を閉じる。

エントランスの大きな電子看板の前には、ちょっとした人だかりができている。そろそろお昼時だからか、多くの人がフードコートのレストランの案内を熱心に見つめていた。

「わからないな。気持ちよくなければならない? そりゃ、晴れてた方が気持ちいいけど、あくまでベターでしょ。マストじゃない」

「そうじゃなくて、日曜日はきちんと気持ちのいい天気の中で、心と体を休ませないとダメなんだって」

「ダメ?」

「そうじゃないと、うまく回らないのさ。平日に支障が出る」

「……?」

彼の言いたいことはよく分からなかった。

「まあいいや。行こうぜ」

俺がまったく共感を示さないのを見るや、ぼたもちは話を打ち切ってしまった。

俺たちは並んで歩き、電子看板には目もくれず、入り口の自動ドアを通過した。

目的地はすでに決まっている。

入ってすぐの右手にある喫茶店『クメダコーヒー』だ。

——そこで俺たちは、幼女氏と会う約束をしていた。Twitterでの一週間のやりとりで、俺は幼女氏が人の話をよく理解してくれる常識人であるという確信を強めていったからだ。

ブラン・ノワールの手によって日に日に積み重ねられていき、終わりの見えない『偽の感想のサイクル』を解決する方法を、幼女氏は一緒に考えてくれた。

その協力の感謝に報いる方法として、幼女氏が欲しがっている俺たちの小説本を手渡そうと思ったのだ。

その考えを話すと、ぼたもちは初めこそ「そこまでする必要なくね?」と難色を示したが、最終的には首を縦に振った。

理由は「これで幼女氏の機嫌を損ねたらいよいよ立場が悪くなると危機感を覚えたから」らしい。ぼたもちって、ちょっと性悪説論者みたいなところあるよな。

クメダコーヒーのドアの前に立つ俺とぼたもち。

「どんな奴なんだろうな?」

「きっといい人だよ。……あと、やっぱ女性だと思う」

俺が言うと、ぼたもちは鼻で笑った。

幼女氏とメッセージでやりとりをする中で性別を訊ねられそうなタイミングは何度もあったが、いかにも女性であることを期待しているように受け取られるのは良くないと思い、とうとう真相を知らぬまま今日に至る。

「まあ、夢を見るのはタダだよな」

彼は幼女氏がオッサンだと信じて疑わないようだ。

『クメダコーヒー』の外観は木の板で覆われていて、とても優しげだ。

——暗い森の中を歩いていたら、ふと、ぽっかりと広場のような場所に出て、木漏れ日が降り注ぐように辺りを照らしている。広場の中央には木をつぎはぎして建てたログハウスがあって、そこからはふんわりとコーヒー豆を挽いた香ばしい香りがする……みたいな感じだ。あくまで俺の勝手なイメージだが。

中高生をはじめとする若者が好むタイプのカフェとは一線を画している。あえて悪い言い方をすれば、そんなにオシャレじゃないのだ。

この場所を指定したのは幼女氏の方だった。その事実もまたぼたもちにとっては『幼女=オッサン説』を補強するものであったらしいが、俺はあまり関係ないと思う。

一度は来てみたかったので、いい機会だ。

店内に足を踏み入れる。ウッディで落ち着いた雰囲気の店内にはピアノによる牧歌的な音楽がうっすらと流れていた。ボサノバというやつだろうか。

客はそこそこ入っていたが、ざっと半分ほどは空席だった。見渡した感じだと客層は主婦層がメインのようだ。

店に入り、店員が来るのを二人で待っていると、奥の方から店員が足早にやってきた。

「いらっしゃいま……うわっ」

「え?」

この店のユニフォームであろう黒のタイトスカートと白いブラウスに身を包んだ小柄な女性店員は、俺たちの姿を見るなり変な声を上げた。

え、何?

一瞬だが、にらめっこのようになり、謎の沈黙が流れる。

驚いた表情の店員はほんの少し顔を伏せた。

「……いらゃっしゃいませ。二名様ですね。お煙草は吸われますか?」

「い、いいえ。後でもう一人来ます」

「……かしこまりました。では禁煙の空いている席へどうぞ」

俺たちは窓際の四人掛けの席を選んだ。幼女氏が来るので、二人横に並んで座る。

「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルでお呼び下さい」

彼女は不自然なほど低いトーンでそう告げて、行ってしまった。

「変な人だな」

「ああ」

ぼたもちの言葉に同意する。何かしたかと思うほど無愛想な店員だった。まるで俺たちにあまり会いたくなかったかのように……。

ま、いいか。店員にいつまでも構っているほど暇ではない。

メニューを眺める。通常メニューの冊子の間に、ペラ紙をラミネート加工した限定メニューの案内が挟まっていた。

『秋のチョコレートフェア開催中! ホワイトノワールが期間限定でブラックノワールに!』と大きく書かれたその案内に、つい目が行ってしまう。

見たところ、『ホワイトノワール』とはクメダコーヒーの看板メニューのようだった。

写真を見ると、丸く焼いたパンの上にバニラのソフトクリームが盛られていて、更にその上からまるで繊細なフレンチ料理のようにチョコソースが振り掛けられているスイーツだった。甘そうで、いかにも女子が好みそうな食べ物に見える。

まあ、俺から見てもかなり魅力的ではあったのだけど。

その『ホワイトノワール』が期間限定で、バニラソフトの替わりにチョコソフトが載った『ブラックノワール』として登場! ——というのが、秋のチョコレートフェアの全容らしく、その『ブラックノワール』もこれまた美味そうな代物だった。

今度一人で原稿でもしに来て食べようかな……。

って、そうじゃなくて。

こうも『ノワール』を連呼していると、反射的にある女性のことを連想してしまう俺がいた。

——もちろんブラン・ノワールのことだ。

女性。ゴスロリ。二十三歳。小柄で童顔。風貌は美しいが、その言動は理解不能だ。

先日の同人即売会でぼたもちジャックの小説本を買い占め、他人になりすましTwitterに感想を書き続けている。このことが世間にバレれば俺たちにまでステマ疑惑が降り掛かりかねないので、はっきり言って悩みの種でしかない。

今こうして幼女氏待ち合わせしている間にも、もしかしたらブラン・ノワールは偽の感想を作成し続けているのかも知れないと思うと、店を飛び出してゴスロリの女を探したい衝動に駆られる。

そんなことをしても彼女が見つかるわけがないのだが。第一、どこに住んでいるのかさえ分からない。

ぼたもちも同じことを思い出したようで、苦虫を噛んだような顔をしていた。彼は冷静なようで、実は思っていることが顔に出る部分がある。

「まあ、今は幼女氏のことだ」

俺は言って、リュックから小説本を取り出した。これを幼女氏に渡して、興が乗れば少しだけ世間話でもして、帰る。

それが今日の俺たちのタスクだ。きっと三十分とかからず終わるだろう。

店員がトレイを持ってこちらに来るのが視界の片隅で見えた。どうやら、先ほど案内してくれた愛想の悪い店員とは別の女性のようだった。

「お待たせしました! お水とおしぼりです♪ クメダコーヒー三種の神器、水・おしぼり・ホワイトノワールの内の二つです! 座ってるだけで二つも揃うなんて、まったく幸運ですね〜」

「いやだからおしぼりじゃなくてコーヒーを入れてあげましょうってば!」

「……ん?」

「え?」

あれ? どうして俺、ツッコんでるんだ?

「あ」

ぼたもちがその女性店員を指差す。驚いた顔。

「……ブタキの人だ」

「本当だ……」

忘れもしない。

以前即売会の打ち上げで訪れた居酒屋『豚貴族』の店員の適当なことばかり言っていた大学生っぽい店員その人だった。

……なぜクメダコーヒーに?

すると、ようやく彼女もこちらのことに気がついたようで、「ああっ!」と目を輝かせた。

「君たちは……あのゴスロリちゃんのお友達の男子二人組ではないか!」

「「友達じゃない!」」

俺とぼたもちの声がハモった。

「へ、そうなの? まあ人類皆兄弟だよ」

ケロリと言う彼女に、ぼたもちは嘆息した。

「もう何もかもが違い過ぎるので、ツッコまなくていいですか?」

「うん、いいよ!」

なぜかピースサイン。あしらわれるのには慣れているのか、まるで干物のようにカラッとした性格だった。

干物女だ。そう呼ぶことにしよう。

「というか、どうしてここで働いてるんですか?」

訊ねると、干物女は少し悩んでから、きっぱりと言った。

「創業者である久米田氏の掲げていた経営理念に感銘を受けたからよ」

ドヤ顔だった。

「綺麗事はいいですから」

「つれないね〜」

「ブタキと掛け持ちでバイトしてるってことですか?」

「……まあ、そういうことになるね♪ って言ってもここは日曜日だけで、メインはブタキだけど!」

「へえ……そうだったんですか……」

訊ねてはみたものの、いざ回答を得てみると「そうだったんですか」としか言いようがなかった。困った。

「それにしても……へえ〜、そうか。君たちだったのね」

なぜか、いかにも探し物を見つけたかのような口ぶりで彼女は呟いて、タイトスカートのポケットから取り出した伝票に何やら書き込んだ。

「何をしてるんですか?」

訊ねたが干物女は無視した。

「とりあえず、ブラックノワールを三つでいいよね?」

相変わらず、勝手なことを言う人だった。

「いやいや、頼んでないです」

「違うの、これはサービスだから」

「サービス?」

「どうせ幼女先輩が注文するだろうから、一緒にサービスしとくわ」

「え?」

どういうこと?

「だから、どうせ幼女先輩が君たちの分も注文するんだし、だったら今の内に作っておいた方が手っ取り早いじゃない?」

「……?」

色々と理由になってない。というか説明が足りない。

幼女先輩? ——言葉の秩序が瓦解している。

幼女氏のことを指しているのか? だとしたらどうして知っている? 知り合いなのか?

「あ、幼女先輩はもうすぐ来ると思うよ」

「いや、ちょっと待ってください。本格的に、色々と、謎すぎます」

干物女はキョトンとしている。

「たしかに私って、周りから『本格ミステリみたいな奴だ』ってよく言われるけど……」

「……だとしたら類は友を呼んでいますね」

「どういう意味?」

「もちろん、あなた含め全員、訳の分からないことを言う変人という意味です」

「あっ、さっきのは冗談だからね?」

「知ってますよ!」

「あら、そう? うふふ」

「はぁ〜……」

含み笑いをする干物女とうなだれる俺。謎の敗北感がある。

この人と話すとすっげえ疲れる。この干物、噛みごたえあり過ぎだろ……。

「まあ、私はともかく、周りに変人しかいないっていうのは当たってるカモね♪」

いや、どう考えてもあなたが変人筆頭だろう。

「そんなことより、幼女氏と知り合いなんですか?」

ぼたもちが言った。そうしないと話が進まないだろうから、グッジョブだ。

「うん。そうだよ。高校の先輩なの」

「えっ」

干物女の答えに、俺たちは色々な面で戸惑う。

「まあ、先輩って呼ぶと嫌がるんだけどね」

俺たちの戸惑いとは違う部分で、なぜか照れ笑いをする干物。

そういう問題じゃない。俺は問う。

「そもそもあなた高校生だったんですか」

しかも先輩がいるということは高校一年か二年のどちらか。見た目は二十三歳くらいだが……。少なくとも、ブラン・ノワールよりは二十三歳らしさがある。

「えっ、当たり前じゃん! ピッチピチの高校一年生だよぉ」

「「同い年かよ!」」

思わず二人で叫ぶと、店中の空気がピタリと止まるのがわかった。

……マズい。瞬間的にたくさんの視線が刺さる。

ゲフン、とひとつ咳払いをすると、店の他の客はまたそれぞれの会話に戻っていった。

「周りから見たら、まるでナンパされてる店員みたい♪」

「…………」

朗らかに笑う干物女の言葉に、ぐうの音も出ない俺とぼたもち。

「——っていうか、本当に高校一年なの?」

周囲に迷惑を掛けないよう小声で、早速タメ口に切り替える。今までの敬語を返してほしい。

「もちろん! 嘘ついてもしょうがないし」

どの口が言う。

「今までの会話で嘘の方が圧倒的に多いのを忘れたのか?」

「冗談と嘘は違うじゃん? いや〜しかし、高一に見られてないのがショック☆」

全然ショックじゃなさそうだった。

「正直、大学生にしか見えなかったわ……」

「え〜。私、そんなオバサンじゃないでしょ」

……とんでもないことをのたまいだした。

「うん。とりあえず謝ろう」

「え、誰に?」

「いいから」

世界のどこかにいる、悲しんだり腹を立てているであろう誰かに対して謝罪を促した。

「ご、ごめんなさい……高校生特有の若気の至りなので許してください」

「火に油だよ!」

俺は小声でツッコんだ。同じ轍は踏まない。

すると彼女は手で口を押さえてクスクスと笑った。

「?」

「……あ、ごめんね。面白い人だなあって」

気恥ずかしそうに笑いを噛み殺す干物女。飄々としている印象だったけど、こんな顔もできるのか……。

「君が、幼女先輩とやりとりしてたジャックナイフさん?」

「……そうだけど」

妙に照れくさい。こうして見てみると、肩の下まで伸ばした黒髪が清楚な感じで、美人だった。

——今までは他人というか、別世界の人間だと思っていたからさほど感じてなかったけど、同じ高校生だと思うと、顔つきは妙に大人びているし、さっぱりとした感じの美人であるという事実が突然浮上してきた。

横からぼたもちが少し身を乗り出す。

「俺は、ぼたもちって言います。よろしく」

「うん。よろしくね、ぼたもちさん♪」

彼の表情は心なしかキリッとしていた。

「君の名前は?」

ぼたもちが訊ねる。ユニフォームのシャツには特に名札らしいものは見当たらなかった。

けっこうグイグイと行くな……ぼたもちのモテたい欲が透けて見えるようでこちらまで小恥ずかしくなる。

「ミナミです」

「ミナミちゃん! 無性に甲子園に連れて行きたくなる名前だね」

「はぁ……?」

干物女——ミナミはあまりピンと来ていないようだった。

「あ、これは昔そういう漫画があったんだけど」

「へえ、そうなんですか」

可哀想になるほど興味がなさそうだった。いや、全面的にぼたもちが悪いのだけど。いきなり知らない漫画の話をされても困るって。

ぼたもちは何か会話を探しているのか、一秒ほど沈黙して……

「ここ、良いお店だよね」

と言った。

「うん。でもチェーン店だよ〜」

「…………ですよねー……」

あはは、と笑ってぼたもちは頭を掻いた。表情からは推察できないようにうまく隠していたが、「女子を楽しませなければ」というとてつもない気負いが痛いほど伝わってきて、こちらまで胸が苦しくなりそうだった。

ぼたもちって顔は良い方だから、うまくやればモテそうなのに……。つくづく不器用な奴だ。——俺も経験で言えば人のことを言えないんだけど、ここで助け舟を出す余裕くらいはあった。

「っていうか、こんなに立ち話してて大丈夫なの? 店の方は?」

俺が言うと、ミナミは変わらない笑みを浮かべた。

「大丈夫♪ アサカ先輩がうまくやってくれてるから」

「アサカ先輩? それも高校の先輩?」

「ううん、バイトの先輩」

「紛らわしいね」

それに、あまりバイトの人を『先輩』と呼ぶのもちょっと変というか、普通に『さん』付けでいいんじゃなかろうか?

「そうかな? でもアサカ先輩は『先輩』って呼ぶと喜ぶんだよ。それが妹みたいで可愛いの」

だから関係ないって。どうして彼女は『先輩』と呼んだ時の反応を気にするのだろう……?

「妹みたいって……年上でしょ」

「うん。二十三歳って言ってたかな?」

「かなり上だね」

「でも顔はロリ系なんだよ。ソソらない?」

「答えづらい質問だね」

「それ、イエスと言ってるようにしか聞こえないよね〜」

ミナミは意地悪そうに笑った。

「…………」

うん。やっぱこの人疲れるわ。それは第一印象から変わらなかった。

それにしても、高校生にとっての二十三歳というのは、かなり別世界の人間という印象だ。

年齢から考えれば、社会人一年目といったところだろうか。まあ今は生き方も様々だから一概には言えないけど、一般的には大学を出て働き始める頃だ。

「すごく良い人なんだよ。接客もすごくうまくて憧れるなあ、アサカ先輩」

「顔も見たことない人を良い人と言われてもね……」

「いや、最初に二人を接客したのがアサカ先輩だよ?」

「え?」

あの無愛想で人の目も見ずに接客していた小柄な女性が、接客がうまい……?

思わずぼたもちと顔を見合わせる。互いに小首を傾げた。

「ま、私そろそろ行くね〜」

「ああ、どうも」

いつまでも客と喋っているわけにはいかない。彼女はひらりと振り返って歩き出した。

あ。

そこで思い出す。俺たち、まだ何も注文してないじゃん。

「あの——」

俺は去り行く彼女を呼び止めようとした、その瞬間。

「あっ! 幼女先輩〜! 待ってましたよぅ♪」

と、ミナミが嬌声を上げた。

向こうに一人、人影が見えるがミナミに隠れてよく見えない。

「ジャックナイフさんときびだんごさんがお待ちですよ〜」

「ぼたもちね!」

しかし彼のツッコミは届かなかったようで、ミナミは俺たちの居場所を伝えると今度こそ店の奥の方へと行ってしまった。

と、いうことは。

そこにぽつりと人影がひとつ残った。その人物が幼女氏であるのは間違いないだろう。

「遅くなってしまいすみません。すぐに分かって良かったです」

腰は低く、それでいて朗らかに言いながらこちらに近寄ってくるのは、女性だった。

「注文はもうされましたか? ここ、甘い物がとってもおいしいんですよね」

ブリーチを繰り返したであろう金髪。毛先は緩やかにカールしていて、気怠げに肩に掛かっている。

肌の色は黒め。引き裂いたような切れ目のデニムパンツの丈はかなり短く、健康的な肉感を持った太ももを惜しげもなく露わにしている。

首元がざっくりと開いたTシャツから覗く鎖骨が艶かしく直視できない。

要するに、肌の露出が多い。

そして特筆すべきは、大きな二つの山のような膨らみ。

……胸だ。胸がめちゃめちゃデカい。カップ数とかはよく分からないが、エクセレント! と指を鳴らしたくもなるし、ファンタスティック! と喝采を浴びせたくもなるし、もしかしたらグレイト! と絶叫するのかもしれない。

思わず唾を飲んでしまうほどの大迫力だった。

「失礼しますね」

そう言って、彼女はヒールの高い靴を踏み鳴らしながら俺たちの向かいの席に腰を下ろした。その拍子にぷるん、と胸が弾んだ気がした。

腕にはアフリカのどこかの国では呪術的な意味合いがありそうな原色使いの太いブレスレットを付けていた。

派手な身なりからは想像がつかないほど言葉遣いは丁寧で、俺たちは狐につままれたような気分になった。

「わざわざお呼びだてして申し訳ありません。お会いできてとても嬉しいです」

「い、え……こちらこそありがとうございます」

そう言うのがやっとだった。混乱している。

非常に混乱している。

そんな俺をよそに、彼女はまるで大企業の受付嬢のような嫌味のない笑みで言った。

「申し遅れました。私が幼女です」

とんでもないことを言っているが、それ以上に問題なのは彼女の姿だ。

「ミナミが何か粗相をしませんでしたか? あの子、礼儀がなってない部分があるもので」

それは……俺たちが普段関わりを持たないであろう人種の女の子だった。

こういう人種を何て言うんだっけ?

ああ、そうだ。

……ギャルだ。


かいつまんで言ってみよう。

幼女と会う約束をして、オッサンかも知れないと思っていたら、腰の低い巨乳ギャルが来たぞ。

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