3 スイーツ殺人事件

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「振り向かないで」

仄暗い部室の中で、なみは顔を伏せて静かに言った。

みずほはただならぬ空気を背後に感じ、振り返ろうとした。

「穂波? 何を言っ——」

「見ないで!!」

絶叫だった。みずほの肩は驚きに跳ね上がり、思わず動きを止める。

「穂波……? どうしたの?」

「今はダメ。……今は情けないから」

みずほは気づいた。背中に感じていた突き刺すような違和感は、穂波の抱える哀しみだったのだと。

「……わかったわ。見ない」

みずほは穂波の言葉に従った。

「ありがと、」

穂波は短く言って、それから「ごめん」と付け加えた。

「一分で片付けるから」

「そう。わかった」

哀しみを片付ける、という表現をするのは彼女くらいだろう。みずほはそこに穂波という女の子の本質を見た気がした。

彼女にとって、きっと感情はおもちゃ箱のようなものだ。箱から取り出したものを正しく使えばとても楽しい。ただし、散らかしたら片付けなければならない。

大丈夫。穂波だったらまだ諦めないはずだ。彼女はおもちゃ箱の扱いを知っている。絶対に折れないとみずほは知っているのだ。

「ふう〜。今日もレッスン疲れたッスねえ」

「うん……でも、すごく、手応え、ある……」

「ゆっちんはすっごくすっごくダンスうまくなってるッスよ! ボクも頑張らないと」

部室の外から話し声が聞こえた。こちらに近づいてくる。

おんゆただ。

おそらく莉音のものであろう、ショートカットの小柄な女の子のシルエットがドアの擦りガラスに浮かび上がる。そのシルエットにさえ彼女の利発さが現れているようで、みずほは瞠目した。

ガチャリ、とドアノブを捻る音。

「待って」

みずほの声に、ガラスの向こうのシルエットが固まった。

「——みずほ先輩?」

「一分だけ、入らないでいて」

「わかったッス」

莉音はみずほの突拍子もない願いをあっさり聞き入れた。

「ありがとう、莉音」

「いやあ、問題ないッス!」

ガラス越しに、莉音が親指を立てるシルエットが浮かんだ。

「莉音ちゃん? どうしたの? 入らないの?」

莉音の背後で豊歌が困惑している様子だった。みずほと莉音のやり取りが聞こえなかったのだろう。みずほはフォローしておくべきか迷ったが、それは杞憂だとすぐにわかった。

「ゆったん。もうちょっとだけ、レッスンしないッスか?」

「え、いいけど……?」

「よしっ! そうと決まればグラウンドまで競争ッスー!!」

「え? ……え?!」

「よーいドン!」

軽快な足取りで走る音が一つ、遠ざかっていく。

「ま、待ってよ〜!」

数秒遅れて、豊歌の愛らしいステップの音も遠ざかる。アニメだったら足音にSEを付けて欲しいな……変な意味じゃなくて、豊歌はまるでゆるキャラみたいに普遍的な愛嬌を備えているように思う。つい構いたくなるっていうか。

妹だったら良かったのにと何度思ったことか。

ともあれ、訪れた静寂。

穂波が鼻をすする密やかな音だけが断続的に鼓膜を撫でる。世界に二人だけが生き残ってしまったかのようで、息をするのも忘れて、みずほはしばらくその音に聴き入っていた。


「……うん。もう大丈夫!」

穂波が言ったその瞬間が、みずほの体感上では一分ジャストだった。

私たちはもはや、時間さえも同期しているのだろうか。……そうかも知れない。私たちはほとんど一心同体なのだから。

そうじゃなかったら、悲しんでいる穂波を見て悲しい気持ちになるなんてありえない。

「振り向いてもいい?」

「いいよ!」

振り向くと、そこにはいつもの太陽のような笑顔の穂波が立っていた。

「恥ずかしいトコ、見せちゃったね」

「いや、そんなことは……」

そんなことはないんだ。穂波のやることは正しい。昔からずっと正しかった。弱くて間違った道に進んでしまいそうになる私をいつだって正しい方向に連れて行ってくれた。

みずほは穂波を信じている。

彼女が太陽であるなら、私はその光を浴びて輝く月でいたいと思い——かけたが、そうじゃないと思い直す。

みずほは海のようでありたいと考えた。月では太陽の隣に居ることはできない。だから、太陽の光を受けてきらめきながらさざめく海のようでありたい。

そうすれば、私たちは一枚の写真に収まる。

「じゃ、私たちもレッスン行こっか!」

良かった。いつもの穂波だ。

「……うん!」

「私ね、グループ名決めたよ」

「何?」

「『BEACH!!』」

穂波が言った名前は、みずほが想像していた風景とまったく同じものだった。

穂波は太陽で、私は海。

——莉音はビーチボールのように弾み、豊歌はビーチパラソルのように癒しをくれる。

それぞれ違う役割があって、それぞれが輝いていて……四人集まれば、きっと楽しくて素敵なビーチになる。

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——アニメ『女神ラブ!』第四話より





「では、ご注文をどうぞ!」

干物女——もとい、ミナミが元気よく言った。

それに対して、幼女を名乗る巨乳ギャルは、見た目とは裏腹にしっとりとした調子で答える。

「まず、ブラックノワールを三つお願いね」

「フフン、そう来るだろうと思って、すでに作ってますよ♪」

得意げに胸を張るミナミ。もはや店員としての態度を完全に忘れていた。

——いや、それは最初にブタキで会った時から変わらないか。

「準備がいいね。偉い偉い」

「そんな〜当然じゃないですかぁ」

幼女に褒められ、ミナミはまるで撫でられた猫のように目を細めた。それを見ただけで、いかにミナミが幼女を敬愛しているかがわかった。

大人びた印象から、急激に妹めいた雰囲気に変わったためこちらとしては戸惑うばかりだ。

ミナミは、敬愛する幼女の来訪によって水を得た魚……いや、になりつつあった。

「きっと今頃、アサカ先輩が作ってるはずですよ。ホワイトノワールを作るのは自分の仕事だって言って聞かないんですから。今は期間限定でブラックノワールですけど」

「そう。それじゃ、あと飲み物は……」

幼女がちらりとこちらを伺ったので、俺は小さく挙手して「アイスコーヒーで」と言った。

「俺もそれで」

ぼたもちも続く。幼女は小さく頷いて、またミナミの方を見た。

「私はホットココアで」

「はい! ホッコ1のアイコ2ですね♪」

ミナミは威勢良く注文を繰り返す。

「よろしくね」

「モチのロンです!」

ミナミは幼女にサムズアップして、軽快な足取りで去って行った。

その背中を見つめながら、ふと気づく。

——『ホッコ』『アイコ』という略し方ではココアなのかコーヒーなのかわからないよな……。ホント、テキトーだよな……。

まあ、たった三つの注文だしさすがに間違えるようなことはないと思うけど。

ミナミはキッチンとホールの窓口のようなエリアにあるカウンターに辿り着くと、すぐさまトレイを持ってこちらに戻って来た。

まるで水泳のターンのような無駄のない動きだった。

手に持ったトレイの上にはカップが三つ載っている。

「お待たせしました♪ ホットココア三つです!」

「早い! 待ってない! 注文違う!」

すかさずツッコむ。周囲の客に迷惑を掛けない程度の声量で。

『アイコ』の『コ』を取り違えるのはまだ分かる。

だが『アイ』はどこへ行った?

——いや、不思議と哲学めいた言葉が湧いてきたが、実際のところ内容はしょうもない。

しかし、なぜかミナミはピンときていないようだった。

「なに? その新しい三冠王みたいなのは?」

的外れな返答を俺に寄越す。

いや、ミナミがこちらに歩いて来る時から、トレイの上に載っていたのがアイス用のガラスのコップじゃなくてホット用の陶器のカップだったから、変だとは思ったんだけど。

「俺たちが頼んだのはアイコだよ!」

「アイコ? 誰その女。……あの〜、ここ『そういうお店』じゃないからね」

ミナミは首を傾げてから、引きつったような笑みを浮かべた。

「自分で言ってただろ! アイスコーヒーのことだよ!」

なぜか俺が説明するハメになっていた。

「いやごめんジョーダン。私、確かにホットココアとアイスコーヒーを頼んだんだけど、アサカ先輩がホットココア三つ作っちゃってさ……」

めんご♪ と彼女は誠意のない謝罪をした。

この店のバイト教育はどうなってるんだ。

……いや、ミナミの親の教育を疑った方が早いかも知れない。

「というか、そのアサカ先輩って、仕事できる人なんだよな……?」

仕事できる人が注文と違うドリンクを作るか? 見たところ店が大混雑していて激務というわけでもなさそうだし、どうにも腑に落ちない。

「う〜ん。いつもはこんなんじゃないんだけどねぇ。怨みでも買ったんじゃない?」

ミナミはケロリと言ったが、あまりに心外な話だった。

「逆に訊くけど、出会う前にどうやって怨みを買うんだよ……」

「う〜ん。前世で因縁があったとか?」

例のごとくテキトーな調子でミナミが小首を傾げる。返事をするのもアホらしくなった。

と、そこで幼女が口を挟んだ。

「ミナミ。いつまで喋ってるの。ココアが冷めちゃうでしょ」

ピシャリと言い放たれた言葉にミナミは肩を跳ね上げた。

「あっ! ごめんなさい〜!」

そう言って、ホットココアが入ったカップを慌てて俺たちの前に配る。

いや、だから俺たちが注文したのはアイスコーヒーなんだってば……。

俺とぼたもちは顔を見合わせる。ぼたもちは苦笑いしていた。

「ごめんなさいね」

なぜか幼女が軽く頭を下げた。その拍子にたわわな胸が弾み、ざっくりと開いたシャツの襟元につい視線を向けてしまう。

「い、いや、別にいいんですけど……」

どぎまぎしたまま平静を装い答える。

「ここのホットココアはとってもおいしいので、もし良ければ飲んでください」

「は、はい……」

言われた通りに飲んでみる。口に含み、その香りを鼻から抜く。

——ちょっとした衝撃を受けた。

「おいしい……!」

甘みが口いっぱいに広がり、思わず顔が綻ぶ。甘過ぎなくてすっきりしているだとかそういう話ではない。めちゃめちゃ甘いのだ……だが胃がもたれるような嫌味がなく、上質なものだとはっきりとわかる。

そんな甘みを楽しんでいると、その中にわずかな『香ばしさ』の萌芽を発見する。次第にその『苦み』に似た『香ばしさ』は存在感を強めていく。

香ばしさが逆説的に甘みを増強していると気づく頃には、ふくよかで多層的な味わいがじんわりと脳の幸福中枢を犯している。

これは、とてつもない飲み物なのでは……?

「おいしいでしょう? ここのココアは特別なの」

背筋をピンと伸ばして座った幼女がくすりと笑う。

『甘み』とはすなわち『幸福感』の味なのだと思い知る。その暴力的なまでの幸福感を前に『屈服』することが幸福への唯一の扉なのだとしたら、俺は喜んでプライドを捧げよう。

そんな心持ちで正面を見ると、巨乳の幼女と目が合った。

彼女はその金髪をさらりとかきあげて聖母のように微笑んだ。

——ありのままを述べただけなのに破滅的な言葉になっていて精神状態を疑われそうだ。

とにかく、その笑顔があまりにも無垢なものだったので、ココアの美味しさと同様に俺はハッとしたのだった。

「特別、と言うと?」

ぼたもちが訊ねる。彼もココアの味にいたく感動した様子だった。

「それはね……」

すると突然、幼女は座席から立ち上がり、俺たち二人の方に上半身をかがませた。

「え……?」

近づいてくる幼女の顔。

——と、胸。

揺れる。揺れている。

何やらいい香りがする。色にするならクリーム色? そんな感じ。柔らかい刺激が鼻を突く。

「……な、何ですか?」

視線を下に落とさないように煩悩の限界に反逆をしつつ、身を乗り出した幼女に訊ねる。

すると幼女はひそひそ声で、逆にこう問うてきた。

「秘密に……してくれますか……?」

「!?」

てらてらと艶かしく光を蓄積した唇から漏れたその声は、耳を愛撫したと言って過言はない。背筋がゾクリと歓喜する。

「そ、それってどういう……?」

なんだ? ココアの美味しさの秘密を訊ねただけのはずなのに、ものすごい秘め事をしているような雰囲気になってきた。

隣から、生唾を飲む音がはっきり聞こえた。ぼたもちだ。

「…………」

謎の緊張感に包まれる。

すると幼女は唇の前に人差し指を立てて「内緒」のポーズで囁いた。

「ここだけの話……ミナミから聞いたんですけど、クメダコーヒーのココアにはちょっとだけコーヒーが入っているらしいんです」

「コーヒーが?」

「それも、特別濃いエスプレッソを、ほんのわずか」

「へええ……」

ぼたもちは過剰に感心していた。きっと照れ隠しだろう。何となくいかがわしいことを期待してしまっていた自分を打ち消そうとしているのがありありと分かって、こちらまで照れくさくなる。

「それで、甘みの中にほのかに苦みがあったのか」

俺が言うと、「そうなんです」と幼女は頷いた。

「だから、定義で言えば実はこれはカフェモカに近いんでしょうけどね」

そうか。ココアとコーヒーを混ぜたものがカフェモカだったっけ。

「まあ、でも——」

「そう。おいしいければ定義なんてどうでもいいですよね♪」

俺が言おうとしていたことを、幼女は言った。心を読まれているようだと感じたが、単に同じ意見だというだけだろう。

ついさっきまでおっさん疑惑があった人物との距離がとてつもない勢いで近づいていることには正直戸惑いがあった。

と、その時。横から軽妙な声が。

「お待たせしました♪ 元祖・ブラックノワールですっ!」

見ると、フフン♪と鼻を鳴らして上機嫌なミナミが立っていた。

「元祖って。じゃあ本家はどこにあるんだ」

「本家はありません!」

「誰と競合してるんだ……」

当然のツッコミをすると、ミナミは仕方なさそうに首を振った。

「まったく、ジャックナイフさんは神経質だよねえ」

「違う! お前がテキトーすぎるんだ」

「そう? ふふふっ」

「…………」

軽く流されたのが悔しい。いかにも向こうの方が大人な感じで会話を打ち切られた。絶対に俺の方が正しいのに。

「さて! お待ちかねのブラックノワールですよ〜」

歌うように言いながらミナミはトレイの上の皿を三つ、手際良く俺たちの前に並べた。

「おお……!」

思わず感嘆の声が上がる。これがブラックノワールか。

こんがりキツネ色に焼かれた円盤型のパン。その上にソフトクリームが載っている。

ソフトクリームはパンの熱で少し溶けていて、その部分がステーキにおける肉汁のような視覚効果をもたらしているのか、食欲をそそる。

上からチョコソースであろう黒い液体が皿にまではみだすように振りかけられていて、見栄えは最高だ。

「では、ごゆっくり〜」

「では、溶ける前に……」

幼女は手にフォークを持ち、胸の前で手を合わせる。

「いただきます」

そう丁寧に言ってから、穏やかな手つきでフォークを扱い、ブラックノワールを食した。

「う〜ん♥」

と幸せそうに頬を押さえる様も気品に溢れている。

同時に、ものすごく色っぽい。

というかエロい。

——じゃなくて。

本当に育ちが良さそうな人だ。ペンネームとルックスの奇抜さ以外は完璧だ。

外見と中身の関係で言えば、幼女とミナミはまったく逆だろう。

ひょっとしたらこの二人は何かの拍子に互いの頭をぶつけて、その時に中身が入れ替わってしまったのではないかという疑惑さえ湧き上がったほどだ。

……まあ、そんな漫画のようなことがあるわけはないのは分かってるけど。

「……ん?」

と、そこであることに気がつく。

「幼女さんのブラックノワールと、俺たちの、少し見た目が違うような……?」

幼女が今まさに食べているブラックノワールは、俺とぼたもちのそれよりもソフトクリームが少し大きく、チョコソースも多いように見えた。

「たしかに、俺たちの方が小さいな」

ぼたもちが少し不服そうに言う。

「たしかに。どうしてでしょうね……」

幼女は首を捻った。そして、

「もし気になるのであれば、私のものと交換しましょうか?」

と、数センチだけ皿をこちら側に押し出した。

「い、いや、そこまでじゃないっす!」

ぼたもちは慌ててそれを制止する。大げさなほど首をブンブン横に振っていた。

「それはさすがに悪いので大丈夫です」

俺も丁重に断る。

彼女の食べかけのブラックノワールをいただく……食べかけ……この世のものではない新しい門が見えるほど、恐ろしいレベルの魅力的な提案ではあるのだが、さすがに首を縦に振ることはできなかった。

——ここで「え、いいの? じゃあいただきま〜す♪」と言える男がモテるのかも知れないが、それをした瞬間に色々なものを手放してしまう気がした。

「まあ、味は一緒ですし」

「それもそうですね。とってもおいしいですよ」

幼女は一度押し出した皿を自分のそばに引き寄せる。慣れた手つきでパンをフォークでカットして、ソフトクリームをちょこんと載せて口へ運ぶ。

口の中でその形が消えていくのを名残惜しむようにゆっくりと味を楽しんでいるようだった。

「極上の甘みです。パンの温かみとアイスの冷たさが舌の上で社交ダンスを踊っています……」

奇妙な喩えを引っ張り出して、幼女はブラックノワールを賞賛した。ヒップホップダンスじゃなく社交ダンスであることが重要と言われても、あまりピンと来ないだろうに。

しかし、それが極上の体験であることは彼女の表情を見ていれば容易に想像がついた。

「じゃあ、俺たちも食べよう」

「そうだな」

フォークを手に取ってパンを切る。幼女と同じように、ソフトクリームを少しだけすくい取って小さく切ったパンに載せる。

それを口へ運びながら、俺は思考する。

ハロー、二秒後の俺、幸せですか。素晴らしい甘味に溺れるのは夢のような体験なのだろう。それを存分に楽しむ心構えはできていた。

ブラックノワールを口に放り込む。

……ゆっくりと、まるで永遠の時の牢獄に閉じ込められた仙人のような表情で。

一噛み。

二噛み。

その味は——

「「しょっぱ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」

俺とぼたもちは叫んでいた。無意識だった。

互いに顔を見合わせる。

しょっぱい。しょっぱい。しょっぱすぎて喉が熱い。痛い。

慌てて水をあおる。一心不乱に水を飲む。

「んぐっ……んぐっ……」

コップの水を一気に飲み干してもまだ口の中の塩分が抜けきらない。

ぼたもちは顔を真っ青にして、ブラックノワール(だと思っていたはずの何か)を指差した。

「これチョコじゃねえ! 醤油じゃねえか!」

「え?」

幼女は慌てて立ち上がって、俺の皿から黒い液体を指に付け取って舐めた。立ち上がった拍子に大きな胸が弾けるように揺れたが、それどころではない。

「……本当に醤油ですね」

幼女は愕然としていた。

「でも、一体なぜ……?」

と彼女はその理由について思考し始めたが、俺はそれを全力で止めた。

「違う! 今はホワイダニットじゃない! フーダニットから始めようか」

喋るだけで喉が灼けるような感覚だった。

口内と喉奥に甚大な被害を被っている俺とぼたもちからすれば、『なぜ』チョコが醤油に挿げ変わっているのかよりも——一体『誰が』こんなことをしたのかが肝要だ。

ならば、最初にすべきことは一つ。

俺はまず、注文をする際に使う呼び鈴のボタンを押した。店の奥でチャイム音が鳴るのがここからでも微かに耳に届いた。

「フーダニット? ブラックノワールにチョコではなく醤油をかけた、世紀の大犯罪の犯人、ですか……」

と、幼女は呟いた。普通にフーダニットの意味を知っていたことに若干戸惑ったが、彼女は見てくれこそギャルだが、中身は俺と同じオタク気質があるのだ。知ってて当然か。

ブラックノワールに醤油をかけることが『世紀の大犯罪』かどうかはさておき。

「しかし、これがもしフーダニット小説だとしたら——」

幼女の問いに俺は首を振った。

「ひどく出来の悪いフーダニットだ」

「……?」

なぜなら、疑うべき人物が一人しかいないからだ。

「そうだな」とぼたもちが横で頷く。「こんなことをする奴はどうかしてる」

「チョコと醤油の見分けがつかない俺たちもどうかしてるけどな」

俺は自嘲気味に笑った。

「まったくだぜ! ハハッ」

ぼたもちは快活に笑って同意した。……笑い事ではないが笑うしかないだろう。

そんな会話をしているうちにキッチンの奥からミナミがやってくる。

「呼びましたか?」

「頼みがある。アサカ先輩とやらをここに呼んでくれ」

いきなりの俺の申し出にキョトン顔のミナミ。しかしすぐに意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「だから、ここはそういうお店じゃあ——」

「いいから早く頼む」

冗談を言いかけたミナミの言葉を遮って。

できるだけ深刻な空気が伝わるように、一拍置いてから俺は言う。

「すぐにホワイダニットになりそうだな」

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