10 〝第四の女〟



『会いたくないけど、会いたい』

『期待してなかったと言えば、嘘になる』

『気づけばまた、ここへ足を向けていた』

——だなんて言葉を並べ立ててみると、まるで恋に焦がれる乙女の心のようだが、別にそういう話じゃない。

きっとこれは、単なる憎しみの話なのだ。孤独の話なのだ。俺の中にくすぶる『ある感情』の問題なのだ。

はこの感情のことを——野望メテオラと呼ぶかも知れない。

いずれにせよ、ここに愛などはなく、ただ荒涼とした気分が我が物顔で居座っているだけだ。

イメージされるのは世界の果てのような荒野。退廃的な心象風景だ。

そして今、何故か俺はに会いたくなっていた。

あろうことか——俺はブラン・ノワールに会いたかった。

繰り返すが、これは愛や恋の話ではない。

なぜなら俺は、自分を自分たらしめているものが何なのかを知らないからだ。

俺が俺でいるために何が必要なのか自分で分かっていないのに、どうやって対象を対象たらしめているものを愛せると言うのか?

そんな愛はきっと、酸素のない地球と同じだ。

そんな場所に——アダムとイヴは現れない。



「それじゃあ、今日はいろいろなことがあったけど、ひとまずここで一段落ってことで」

なぜか、場の流れで俺が音頭をとっていた。

「みんな、お疲れさま。乾杯〜」

「「「かんぱ〜い!」」」

幼女、ミナミ、ぼたもち……そして俺。四人のグラスが擦れ合ってカチャリ、カチャリと鳴った。

同人イベントの打ち上げを行えるというのは、かなり恵まれていることなんだと思う。こうやって同士が見つかり、彼らとグラスを傾けながらあれやこれやと語り合うのは——幸福なことだ。それは疑いようがない。

きっと楽しいことなのだろう。きっと喜ぶべき境遇なのだろう——しかし心は不思議なほど乾いていた。

乾き。

手に持ったグラスに注がれたカルピスでは解決できない種類の乾き。それはどうすれば潤うのだろう。

喜ぶべき今この瞬間——仲間との語らいの時間——でさえ、少し騒々しいと思った。今までであればぼたもちと二人だけだったので沈黙の時間も多かったのだが、四人となると誰かしらは何かを喋っている。

——というか、喋るのは主にミナミだけど。

「んぐっ……んぐっ……ぷっはー! やっぱ仕事の後のビールはうまいね〜♪」

ミナミはジョッキのビールを豪快にあおっていた。

女性とは思えない飲みっぷりだ。

いや、それ以前に、未成年とは思えない飲みっぷりだった。

……念のためもう一度確認しておくが、ミナミは高校一年生である。幼女と俺とぼたもちが高校二年なので、この中では最年少なのだ。

そんなミナミはグイグイとビールを飲みまくっていて、その一方で幼女はホットウーロン茶、ぼたもちはジンジャーエール、俺はカルピスを飲んでいた。

——何かがおかしい。何だろう? と考えたが、答えにはコンマ五秒で辿り着いた。

ミナミがおかしいのだ。簡単な話だった。


打ち上げの会場となったのは、イベント会場のある蒲畑駅の近く——居酒屋チェーン『豚貴族』だ。メニュー全品三〇〇円という狂った価格設定と、店名にもなっている豚肉を使った料理が売りの庶民的な居酒屋だ。

中でも看板メニューの豚串(2本セット)は絶品だ。歯ごたえが強く、いかにも『肉を喰っている!』と感じられるので俺もぼたもちも大好きなメニューだった。

この店に来たのはこれが二度目。前回はぼたもちと二人だった。

思い返せば、ミナミと初めて出会ったのもここだった。彼女はここでバイトしているのだ。

「そういえば、今日は働かなくていいのか?」

訊ねると、ミナミは「あんだってー?」と俺を睨みつけてジョッキを乱暴にテーブルに置いた。ゴトン! という音が脳に響いた。

「イベント出てたのに、これから働けって? 殺す気かーっ!」

「働けとは言ってないぞ。働かなくていいのかと尋ねただけだよ」

「むあー! 同じじゃん! ええ、そうですよ。働いて飲む酒もうまいけどねぇ、働かずに飲む酒はもーーーーーーーーっとうまいんだぜっ♪」

「…………」

会話にならない。もう酔ってんのかよ。タチが悪い。

……しかし、なるほど。『くだを巻く』とはこのことか。勉強になる。

もちろん反面教師としてだ。

「酔うと気が大きくなるのはあなたの悪いところね」

ホットウーロン茶をゆっくりと大事そうにそうにすすりながら幼女が言った。言葉とは裏腹に、少し嬉しそうな表情だった。

「やっぱり先輩はビール飲まないんですか?」

「当たり前でしょう。私たち高校生よ」

ミナミの問いにつっけんどんに答える幼女。夜な夜なクラブにでも繰り出していそうな身なりで、そのあたりの価値観は非常にユルそうだが、だんだん俺はその外見と中身のギャップに慣れ始めていた。

つまるところ——言葉は悪いが幼女という女性は『いい子ちゃん』なのだ。ただギャルファッションが好きなだけで、中身は委員長タイプ。

丁寧で、律儀で、義理堅く、親切。こんな出来た人はそうそういない。

彼女はメニューを手に取る。

「適当に見繕っていいですか?」

そう俺に訊ねてきたので、俺は頷く。——すると彼女は豚串を人数分と、豆腐サラダと梅水晶を注文した。

「お待たせしました」

一分も経たないうちに料理を運んできたのは黒いTシャツを来た小太りの男だった。顔つきは三十代前半といったところだが、腹がぼってりと出ていて年齢の特定を難しくしている。

「吉川さんが友達と飲みに来るなんて初めてだから」と、その男は注文した料理の他に唐揚げとポテトフライが載った大きな皿をテーブルに置いた。

吉川って誰だと思ったが、文脈から考えてミナミだし確かにそんな苗字だったなと思い出したので特に反応はしなかった。

グッと親指を立てた男の額には脂汗が光っていて、何故か『テリヤキ』という魅惑のワードが脳裏を過ったが、それは関係ない話だ。

「え! いーんですかっ?」

思わぬご馳走にミナミは飛び上がる。その拍子にテーブルに膝をぶつけたが、その場にいる全員がスルーした。

「他のバイトの子には内緒だよ」

「え〜どうしよっかな〜」

「酒飲んでるの通報するよ」

「オウフ! 思わぬ反撃っ。……そりゃパワハラですよ店長♪」

「法にのっとることがパワハラかい!」

店長だったのか、このテリヤキ——じゃなくて、ミナミとやけに仲睦まじく話すこの男……。肩書きを言われると、小太りの腹も不思議と貫禄に見えてくる。

「まあ、ゆっくりしていってよ——あ、」

キッチンに戻るかと思いきや、テリヤキ男は突然俺とぼたもちを見た。

そして。

「……ちなみに、どっちが彼氏?」

とミナミに訊ねた。

「なっ、か、彼——!」

と素っ頓狂な声を出して顔を赤らめたのはミナミ——では当然なく、ぼたもちだった。女々しいやつめ。

しかしこのテリヤキ男、相当な誤解をしているのは確かなので、それを解かなければと思った矢先に——

「えー? えへへ、どっちだと思う〜?」

「なっ、お前、何言って……」

悪ノリするミナミを咎めようとすると、彼女は「しっ!」と口元で人差し指を立てた。反射的に口をつぐむ。

「今は〜、店長に聞いてるんだからぁ」

ミナミはわざとらしく甘えるような声で言った。酒の勢いもあるだろうけど、そのとろけるような表情が妙に色っぽいなと密かに思った。飲んでいない俺まで酔ったみたいだ。

「う〜ん、どっちかなあ……」

テリヤキは腕組みをして真剣な目で俺とぼたもちを交互に見た。

なぜか結果が気になっている自分がいた。男の性だろうか——哀しい習性だ。

数秒の逡巡——その間にどんな思考が働いたかは不明だが——の後、テリヤキは言う。

「……彼、かなあ?」

指差したのはぼたもちだった。

「いやいや、店長サン! 別に俺、そういうのじゃないっすから!」

と手を振りつつも喜びを隠しきれていないぼたもち。

「へっ? ああ、そうなのね〜。僕はてっきりね」

すっとぼけたように頭を掻くテリヤキ。どことなく大人の余裕を感じて、それが少し癇に障る。もちろん顔には出さないが。

しかし、ぼたもちという男はなんという男だろう。知り合って一年以上経つが、この男の自意識は計り知れない。『男の悲哀』を煮詰めたら彼になるのではないか……男ならば誰しもが心の中に飼っている悪魔の皮を剥いだらぼたもちがでてくるんじゃなかろうか。

割とマジでそう思う。

でも俺も、きっと同じ穴のムジナだ。じゃなければ俺が選ばれなかったことに悔しさが湧くはずがない。

…………。

いや、別にミナミを取り合ってる訳じゃない。もしかしたらぼたもちは気があるのかも知れないが、俺は違う。——でも、何故か負けたような気分になった。

なんだろう、オスとして負けたような感じだ。

「そうか、彼じゃないか。じゃあ……」

と、テリヤキは俺を見た。

「俺も違いますからね」

「だよねえ〜」

「?」

なんだその返答? 瞬間、イラっとする。俺はミナミと付き合えるフィールドにいないとでも?

ただ、文句を言うのも話がこじれるし、俺は結局だんまりを決め込む。この場の空気は年長者であるテリヤキの『大人の余裕』とやらに委ねてあげようと思ったのだ。せいぜいうまくやってくれ。勝手にな。

「いや、気分を気分を悪くしないで。そういう意味じゃないから」

「じゃあ、どういう意味ですか」

そう言いながら、俺は自分の不機嫌が顔に出ていたという事実がたまらなく情けなく、消えてしまいたかった。

こんな恋愛トークは、マジになった方が負けだろう。笑って済ませればいいのだ。豪快に笑って「こんな女、こっちが願い下げですよ!」などときっぱり言えば場が治まるのだ。誰も本気で受け取りはしないし、笑いも生まれる。ミナミだってそれで傷ついたりはしないだろう。——簡単なことじゃないか。一度だけ、会話の上っ面を撫でればいいのだ。きっとそれができる奴がモテるんだろう。そういう奴が面白いとされるのだろう。

クソッタレだと思うけど、僻み根性丸出しでモテる男にケチをつけるのは最高にダサいと思うし言わない。

テリヤキは幼女をチラリと見た。少し申し訳なさそうな様子だったのが不思議だったが、突っ込むほどでもないだろう。

「……?」

ふと幼女を見ると、目が合った。彼女は怒っているのかと思うほど真剣な表情だった。

「ん?」

もしかして、俺を見ていたのか? などとおめでたいファンファーレが鳴り始めるも、一音目で脳内の楽隊を抹殺した。仕事は簡単だった。管楽器のマウスピースに毒を塗り、弦楽器の弦で首をきつく締め、打楽器の音に銃声を忍ばせただけだ。

俺は瞬時に現実に還る。

「何か俺の顔についてるのか?」

訊ねると、幼女はハッと目を見開いた。俺から目を背け、何度も首を振る。

「い、いえ! 何でも……何でもありませんよ!?」

「そうか? 顔色がすぐれないから、体調が良くないのかと」

「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

と、なぜか礼を言われた。少し頭を下げた隙に視線が花柄ワンピースの胸元に向いてしまうのは生理的な反応だ。

なんだけどね……」

テリヤキは溜め息をつきながらそう言い残して、ミナミの恋人当てゲームという負けしかない遊びを切り上げてキッチンへと引っ込んでしまった。

「では、ごゆっくり〜」

「……はあ?」

何が言いたかったのかよく分からない。

何今の? という視線をぼたもちに向けると、彼は何故かあんぐりと口を開けてこちらを見ていた。まるで宇宙人を見るような顔だった。

まったく、なんだってんだよ……。



「それにしても、朝は散々だったみたいだね」

引き続きビールを飲みながらミナミは言った。すでに四杯目に突入していた。

どうやら酔いは落ちついたらしい。だが、一杯目でへべれけになって、四杯目で落ち着きをとりもどすというのは変だし不気味だ。さっきまでの酔っぱらい方は演技も含まれていたのかも知れない。

「ブラン・ノワールのこと?」

ぼたもちが答える。ミナミの発言には率先して返答しようという考えが透けて見える。その証拠に、返事をした後必ずグラスを傾けてジンジャーエールで喉を潤していた。次に備えているのだろう。

「そうそう♪ 私はちょうどトイレに行ってたから気づかなかったんだけど、後で幼女先輩から聞いて、ひえーってカンジ」

「途轍もない声で叫んでいましたよね。『ふざけるな、ふざけるな』と……」

幼女も話に乗っかる。合間に梅水晶を噛むコリコリという音が耳に届く。

「間違いなくメンヘラだね」

ぼたもちは鬱憤が溜まっていたのか、強い口調でブラン・ノワールを非難した。

「コピー本ビリビリに破られて思いっきり投げつけられたもんな……あの女はマジでヤバい。ステマ工作とかもういいから、とにかく関わり合いたくないレベル。前回は本を買ってくれたから強く言えないかなって思ったけど、今回は買いもせず文句言って帰ったからな。ありゃモノホンだぜ」

「まあまあ」

俺がなだめると、ぼたもちはムッとした。

「あの女の肩を持つのかよ?」

「そうじゃない」

ンなわけあるか。ただ、ぼたもちが口汚く罵るほど、ブランノワールを許したくなってくるだけだ。天の邪鬼と言えばそれまでだけど。

「俺もブラン・ノワールの行動は間違ってると思う。でも、主張それ自体は割と理解できる」

「それは、どんな主張ですか?」

幼女が俺に問う。

「これは俺の責任なんだけど、今回『メガパ』に参加したことによってコミケの原稿にあてるはずの時間を食い潰してしまった」

「それは……」

やはり責任を感じたように俯く幼女。だが、当然彼女を責めたいわけじゃない。

「もちろん俺の判断ミスだから、幼女が責任を感じる必要はないよ。結果、『メガパ』開催までの期間もなかったからコピー本になってしまった」

「現実的にそうするしかなかったからねえ」

ぼたもちが嘆息する。ここで俺の判断への責任を深く追求せずにいてくれるのはありがたかった。

「仮に、ブラン・ノワールを【ぼたもちジャックのいちファン】として捉えた時、俺たちは彼女に対して不義理とも取れる行いを働いた可能性はある。彼女が俺たちに期待していたのはコピー本じゃなくて、きちんと一冊にまとまった小説本だったのかも……」

「メガパまで三週間しかなかったんだぞ。現実的じゃない」

「いや、だからそんなコピー本など作らずにコミケに集中しろと言いたかったんだろ」

すると、ぼたもちは席の背もたれにどっかりと体重を預けた。自嘲気味に笑う。

「……だとしたら、俺が最初にお前に言ったこととまるっきり同じじゃないか」

「そうなんだよ。だから俺はブラン・ノワールの主張自体は筋が通ってると思うんだ。伝え方が絶望的に間違っているだけで」

俺はそこまで言い切ると、ふとある女性の顔が思い浮かんだ。もうこの際、勢いでその名前を出してしまおう。

「少なくとも、よりは筋が通ってる」

「市川アサカぁ? クメダコーヒーの無愛想女か」

ぼたもちが怪訝な表情で吐き捨てると、ミナミは申し訳なさそうに目を伏せた。普段は言動がテキトーなぶん、ギャップが生まれている。逆説的に、そういう表情にこそミナミの美しさが表れる気がした。

「アサカ先輩のことは、二人にいろいろと迷惑かけちゃったね」

「もちろんミナミが謝ることじゃないさ」

「そうそう、ミナミちゃんは何も悪くない!」

「それは、例のキャンセルの件ですよね?」

幼女が訊ね、俺は「ああ」と頷いた。


——およそ三週間前の出来事だ。

『メガパ』に参加申し込みしたことをぼたもちに打ち明けた翌日のこと。『メガパ』主催者の権田という男から電話が掛かってきた。

曰く、俺が昨日していたはずの参加申し込みのキャンセルの電話が掛かってきたとのことだった。もちろんそんなことはしていないので問い質し、その発信元の電話番号を入手する。

早速掛けてみると、電話の持ち主はミナミだった——

ではミナミが犯人だったかと言えば、話は理解不能な方向へと転がった。

「キャンセル? そんなことしないよ! に誓って!」

「神なんてもともと信じてないだろ」

じゃなくてに誓ったの! でしょ」

「なるほど、信頼できるなそりゃ」

「でしょ?」

「でも、じゃあどうして俺はミナミに電話しているんだ?」

「いや、それはこっちが聞きたいよ〜!」

ミナミの貴重なツッコミを引き出してしまった。

「じゃあ、ぼたもちジャックのキャンセルは、お前が依頼したことじゃないんだな」

「当たり前ジャン! 理由がないし」

「……じゃあどうして昨日の夜、お前の電話から主催者に電話が掛けられてるんだろうな」

「そんなの知るわけ——あっ。そういえば……」

「なんだ?」

「実は昨日の夜、ちょっとだけ電話を貸した人がいるの」

「……誰だ?」

「アサカ先輩だよ」


その次の日曜日に、俺は一人で肘ヶ谷リバータウンに足を運んだ。その日がミナミと市川アサカが勤務する日であることを確認した上でだ。

偶然か必然か、俺の接客に当たったのはミナミだった。

「今日は暇そうだし、五分くらいなら二人抜けても平気かな」

「頼む。タイマンじゃ息がもたない」

「そりゃそうだよね。注文は?」

「アイスコーヒーで」

ホワイトノワールを食べる気分にはとてもなれなかった。

そしてしばらく待っていると。

「お待たせ〜」

アイスコーヒーをトレイに載せて持ってきたミナミ。その背後には市川アサカが不服そうな表情で佇んでいた。

事前にミナミにお願いしていたことだ。

かくして俺、ミナミ、そして市川アサカという摩訶不思議な取り合わせの会合が開かれた。理由はもちろん、キャンセルの電話についてだ。

ミナミは先輩である市川アサカに請われて電話を貸したことが分かっていた。その間にキャンセルの電話をしたに違いない。

つじつまはあっていて、他の可能性はない。だから問題は次のフェイズに移っている。——もちろん、『どうしてそんなことをしたか?』だ。これがさっぱり分からない。そもそもこの無愛想な女が女がどうして俺たちの同人活動のことを知っている?

まァ、千歩譲って、おしゃべりなミナミのせいで俺たちの情報が割れてしまっていたとしても、これといった関わりのない俺たちの活動を阻む理由はないはずだ。

四人掛けのテーブル席。俺の正面にミナミと市川アサカが腰掛ける。

俺の前にだけアイスコーヒーが置かれていて、少しだけ申し訳なく思ったが自分で注文したものなので遠慮なくいただいた。

前置きしても仕方ない。天気の話などしたくもないので早速本題へ入った。

「以前、ミナミから電話を借りましたよね?」

「五分だけね」

市川アサカは、俺とは一切目を合わせなかった。テーブルをじっと見つめている。

だから俺は気兼ねなくその顔を凝視することができた。二十三歳と大人の女性だが顔や体つきは幼さが残っている。小柄で内気そうな雰囲気だ。

肩よりも少し短いショート気味の黒髪はまっすぐ綺麗なストレートだ。ルックスで言えばそこそこ美人なのだろうけど、今日は特に負のオーラが強く、さほど魅力的には感じなかった。

「その五分で何をしていたんですか」

「関係ないでしょう」

「電話を?」

「あなたには関係ない」

「どうしてですか?」

「知らない」

まったく譲らず、話は平行線となった。彼女はただ「知りません」「関係ありません」を繰り返すだけだった。

ミナミは終始気まずそうに苦笑いしていた。いつもの仕事場での振る舞いとかけ離れた態度だからだろう。俺にしてみればこの『人見知り無双』的な状態しか知らないので、普段は優しい先輩だという方が信じられないのだが。

「五分経った。仕事に戻るわね」

澄ました顔でそう言って、市川アサカは仕事に戻ってしまった。

とうとう一度も目を合わせないまま……。

——それから何度か、幼女と会うためにクメダコーヒーを利用したが、俺に危害が及ぶこともなかったし、そもそも彼女が俺を接客することもなかった。徹底的に避けられていたし、理由は分からないが俺は滅茶苦茶嫌われていたようだった。

『もう二度とミナミから電話を借りるな』という俺の命令をミナミに伝えてもらい、了承を得たようだった。

「私と二人のときは本当に優しいんですよ。私を巻き込んだことは謝ってくれましたし……」

後日電話で話した際に、そう力なく笑ったミナミは完全な被害者だった。同情する。


——と、それが俺の身に起こった『市川アサカ』と『イベントのキャンセル騒動』にまつわる出来事すべてだった。

正直、ほとんど何も解決はしていない。

分かったことと言えば、市川アサカとは関わり合うべきじゃないということだけだ。チョコを醤油に挿げ替えられ、そのことを謝りもせず、最後は俺とぼたもちの参加するイベント勝手にキャンセルしようとする。

「ブラン・ノワールよりも市川アサカの方が、よっぽど不可解だった」

行動原理が不明という点で。

「まあでも、否定しなかったってことはクロ——キャンセルの電話をしたのはやっぱり市川アサカだったってことだよな」

「ああ。間違いないだろう」

これが推理小説だったなら、誰か黒幕が存在して、市川アサカはそいつを庇っているだけとか——そういうことは考慮してもいいのかも知れないが、きっとこの場合の結論はこれでいいのだろう。

「まあ、会うのが嫌ならクメダコーヒーに行かなきゃ済む話だろ?」

「それもそうだな」

ぼたもちに同意する。ふと幼女に目を向けると、彼女はミナミの顔を心配そうに覗き込んでいた。ミナミは



それから間もなくして、それぞれのイベント新刊を交換した後に会はお開きとなった。

蒲畑駅のホームで幼女とミナミの二人と別れた後、ぼたもちとともに地元の駅へ戻った。

「明日からコミケ一本な」

駅の改札を出て階段を降りていると、ぼたもちは念を押すように言った。言外に「頼むからもうこれ以上タスクを増やすなよ」と主張しているのがはっきりと分かった。

……まあ、ぼたもちの気持ちは理解できる。今回のイベントは俺の独断で申し込んでしまったので言えた立場じゃないが、実際のところコミケに費やすべき時期を中途半端なコピー本を作るのに使ってしまったのだ。

——ブラン・ノワールの主張もまた、理解できる。伝え方が劇的に間違えているが、要するにコピー本に時間を取られてコミケの本のクオリティが下がるのは本末転倒だと言いたかったのだろう。そうだとしたら、まったくの正論だ。

ぼたもちやブラン・ノワールが言うように、俺だってこれ以上自分の首を締めたくはない。小説を書くのはとても時間がかかるのだ。

「了解」

俺はそうとだけ返事する。駅から出て道なりに少し歩き、十字路を左折すると俺の家で、直進して十分強歩けばぼたもちの家だ。岐路に立ち、互いに別れの言葉を短く交わす。

「じゃあな」

「はいよ」

「——あっ。そうだ、お前さあ」

別れ際、急に立ち止まったかと思うと、ぼたもちがこちらに向き直る。

「なんだ?」

「やっぱ幼女好きなの?」

聞いた瞬間、心臓が飛び跳ねそうになった。

「……俺はロリコンじゃねえ」

「バカ。分かってんだろ。って」

彼の表情は真剣そのものだった。

「やっぱ狙ってるんだろ? 別に隠すことはないさ」

「…………」

妙に男らしく問うてくる。その男気を他に回して欲しい——主に女性とのコミュニケーションにな。

「……はっ。その表情でミナミを口説けば、けっこうイケるんじゃないか?」

何か反撃をしたくなって、ミナミを持ち出してみる。焦ること請け合いだろう。

「ああ……、そうくるわけ。まあ、そうだよな。うん」

しかし、ぼたもちは納得したかのように何度も頷いた。肩すかしを食った気分だ。

「なに一人で納得してるんだよ」

「……いやあ、まだ二人きりで会ったことないうちに言うのもダサいかも知れないけど、俺ミナミちゃんのこと好きだわ——たぶん」

「…………」

——言葉を失った。

こんなとき、喜怒哀楽のどれをピックアップすればいいのか……俺は知らない。

「そっか」

そう答えるのがやっとだった。それ以上の言葉がなかった。

「反応うすっ!」

気恥ずかしさからだろうか、彼はやけに大げさにズッコケるようなジェスチャーをとった。あまりに痛々しく、直視できなかった。

「今、俺の中には色んな感情があるが、その中に『驚き』は見当たらないな。お前がミナミに気があるのは見てればわかる。たぶん幼女も本人も気づいてるさ」

所感を述べると、ぼたもちは俺の態度が気に食わなかったのか、俺に詰め寄ってくる。せっかく別れの言葉まで言ったのに、また話し込もうっていうのか。

「めんどくさそうな顔をするな。お前はどうせ幼女のことが好きなんだろうと思ってたから、俺はこんな打ち明け話をしてるんだからな? わかるか? 痛み分けだ。そうじゃなきゃこんな話するか」

「痛み分けねぇ……」

「な? 好きなんだろ? 楽になっちゃえよ」

思考する。

——俺は、幼女のことが好きなのだろうか?

魅力的な女性だ。見た目は派手だが、人間がなっていて分別がある。才能豊かで……胸も豊かだ。ゲフン。ま、それはどっちでもいい。

ソウルメイトだと感じるほど感性も似通っているし、趣味も共有できる。話していて楽しさは感じる。

好きになるに足る条件は完全に揃っていた。俺は完全に包囲されていた。

……だが、『好きになる』ってそういうことなのか? 警官に取り囲まれて『観念しろ!』と怒鳴られて初めて白状するような種類の感情なのだろうか。

もっと自発的なもののはずだ——ぼたもちが言わずにいわれなかったように、こみ上げて溢れ出るもののはずだ。

「俺は……まだわからない」

自分の感情を捉え切れず苦し紛れに言うと、ぼたもちは白けたように鼻で笑った。

「はあ? 女々しいやつ」

「…………」

女々しい——それは、いつも俺がぼたもちに抱いていた感想だった。

そうか。俺は女々しいのか。女々しいと思われることはけっこう傷つくんだな。勉強になったよ。いつもぼたもちを内心で小馬鹿にした報いだろうか。ああ、心が痛い。

女々しいのか。そうか、女々しいのか。はは。ちょっと苦しいな。

好きで苦しいなら分かるけど、好きか分からなくて苦しいって何なんだろうな。自分の感情が本当に分からない。

いっそのこと、何か大きな運命的な力が勝手に感情を導いてはくれないだろうか。それほど楽なことはない。そうすればこんな風に自分の胸に手を当てて苦しむこともなくなるんだろう。

——女子が占いを好きな理由が分かった気がする。星の導きに翻弄されたいと思った。

「……考える時間をくれ」

頭を押さえながら呻くように言うと、ぼたもちは肩をすくめた。

「まあ、お前がになっちまうんだから、はあるわけだ。……まあ、それが分かっただけでも収穫としよう。ことにしようじゃないか」

そう言ってぼたもちは俺の肩に手を置いた。

「被らなくて良かったな」

どの目線から言っているのか、彼は俺の耳もとでそう囁き、今度こそ帰って行った。

「………………………」

……敗北感が胸の奥深くに沈殿している。

彼はミナミのことを好きだとはっきり言った。

俺は幼女のことを好きがどうかは分からないと答えた。

たったそれだけのこと。打ち明けた情報はぼたもちの方が重い事実だろう。

だが結果として、彼の表情は晴れ晴れとして、俺は敗北感に打ちひしがれている。この逆転は何だろう。

一人になり、ぽつんと道端に突っ立っていても仕方がないのでひとまず歩みを進める。五分も歩けば家に着く。帰ったらすぐに眠ろう。他のことをする気分にはなれそうにない。

心が乾いている。



あと少しで家に着くというところで、切れかかって点滅する街灯の下に人影が見て取れた。通り道なのでだんだんと近づく恰好になる。

少し不気味だな、と思いかけたが、

「……ん?」

俺は気が付く。——それは見知った顔だった。

「市川……アサカ?」

クメダコーヒーで働く二十三歳の女性であり、落ち着いた雰囲気がある女性だ。しかし俺にとっては完全に地雷女。何せ二度も被害を被っている。

キャメル色の薄手のコートに身を包んだ彼女は、俺の姿を見つけると少し微笑んだ。

——それが、俺が見た彼女の初めての微笑みだった。

「ジャックナイフ君。ちょっとお話があるんだけど、いいかしら?」

しっとりとした声で、彼女は言った。





—————————————————————————————————————


「と、取れた……本当に取れた……」

——その瞬間。

テニスコートは確かに静寂に包まれた。暴力的なまでの静寂。色にするなら真っ白。

「————————————————————」

キィン、と耳鳴りがする。

白は暴力的な色だと思う。まるでこの世界を構成しているありとあらゆるすべてを消し去るような、あまりに強すぎる色。

——だが、みずほは知っている。

この白色は、『消失』だとか『無』そのものを表現してはいない。……この白は、『空隙』である。

空隙。物事と物事の間に生じるわずかなスキマ。スキマはスキマだけでは成立し得ない。必ずそれを形作る物事がある。

そして、発生した『空隙』は完全な静寂を生み出したかと思った次の瞬間には——この世界を黒く塗り潰すのだ。

——この場合、『白』とは『静寂』で。

『黒』とは……『声』だった。

それも、耳をつんざくほどの大歓声が。

みずほを中心に巻き上がった。

「う……そ……?」

みずほは愕然として、自分の手を眺めた。

奪ったセット数は、花園莉おんが2で、みずほが1。——つまり、1セット取ったみずほの勝利だった。

周囲を見渡す。みずほの健闘を称える生徒たち誰もが太陽のような笑顔で、祝福の拍手をしていた。

「き、気持ちいい……なんて気持ちいいの……!」

足が震える。肩が揺れる。背筋をゾクゾクっと何かが駆け抜ける。体が歓びの悲鳴を上げているようだ。みずほはその快感に酔いしれた。

テニスコートの反対側では、対戦相手だった莉音もみずほを祝福していた。

今、この瞬間、言葉なんてものは野暮に他ならない——とばかりに、莉音はただそこに立ってゆっくりと手を叩いていた。表情は安らかな微笑み。

言葉のいらない世界……ああ、すごい。言葉よりも先に涙が溢れてくる。みずほは頬を拭った。

霞む視界の中で、みずほはの姿を探した。

みずほを歓喜の渦に放り込んでくれた張本人——有明なみの姿を。

穂波の応援のおかげだ。みずほは彼女の力を実感した。

やっぱり彼女は太陽だ。私を導いてくれる大きな存在だったんだ。彼女となら、どんな風景でも見られそうだ!

でも。

でも、それだけじゃない。私だって頑張ったんだ。

私が、県大会出場の実力を持つ莉音から1セット奪ったんだ。

穂波はすごい。でも、彼女だけじゃこの問題は乗り越えることができなかったんだ。

私も、重要なんだ——そのことが、何より嬉しかった。

私はここに居ていいんだ。

穂波とともに歩む資格があるんだ。

私はそのことが、何より、何よりも嬉しかった。


この翌日、莉音はチア部に転部する。これで三人。

この時点で、運命の四人目の部員、美術部の亀田ゆたとの物語はすでに始まっていた。彼女もまた莉音とみずほの試合を見ていた一人だったのだ。


——アニメ『女神ラブ!』第二話より


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