6 運命感じましたか?

「なんか思ってたのと全然違いすぎて頭痛いわ」

店から出るなり、ぼたもちはそう漏らした。

俺は無言で頷く。

たしかに、このクメダコーヒーにおける三時間は俺たちにとって特別濃いものとなった。

そう。三時間……。当初想定していた滞在時間を大幅に上回る。

アサカとのちょっとした諍いが遠い昔のように感じるほど、俺とぼたもちと幼女はアニメ『女神ラブ!』について深く深く語り合った。

誰かがあのシーンはもうちょっとやりようがあったと述べれば、いやあのシーンにはこんな効果があるから変えるべきではないと反論し、また誰かがあのキャラのあの台詞は実は過去の発言とリフレインしていると述べれば、新たな気づきを与えてくれたことに対して惜しみない賛辞が送られた。

そんな調子で俺たちは見事なまでに幼女と打ち解けた。

「私たちは出会うべくして出会ったみたいです」

返り際、そんな演劇じみた台詞とともに彼女は俺たちに握手を求めた。

「あなたがそう言わなかったら、きっと俺が同じことを言ってました」

ぼたもちはキザったらしくそう答えて、手を握り返していた。

俺は何を言えばいいかわからず、やんわりと頷いて握手をした。

彼女の手はふんわりと柔らかく、少しひんやりとしていた。

「では、私は少々買い物をして帰るので……」

そして幼女はヒールを踏み鳴らしながら去って行った。きっとギャルものの服でも見て行くのだろう。俺には無縁な世界だ。

「んじゃ、また来てね♪ 今度は私もメガラブトークに混ぜて!」

ミナミはミナミで、店員としての職務を忘れたままそう言って、まるで友達みたいに手を振って俺たちを見送ったのだった。マイペースというかなんというか。

なかなかの美人だし、竹を割ったような性格で憎めないのがまた憎いところである。

「さて……俺たちはどうするか……」

店を出た今もまだ、幼女の手の感触が手のひらに残っている。

彼女の手は冷たかったはずなのに、今、俺の手の皮膚が微熱を帯びている理由は何だろうか。思わず手をじっと見つめるが、当然いつもと変わらぬ自分の手だ。

「…………」

ひどく心を掻き乱されている。異性と会話をした後はいつも胸の中がささくれ立ったような気分になるものだ。きっと気持ちが変なゾーンに入っているんだろう。

たとえば夕暮れ空を見たら無性に泣きたくなるとか。

たとえば道端に落ちているぬいぐるみを見たらふと異世界に迷い込んだような気分になるとか。

たとえば住宅街を歩いていて、とある家からカレーの匂いがした瞬間、それがあまりに懐かしさを喚起して、俺は本当はこの家の子だったはずなのに何かの手違いで別の人生を送ってしまっているのではないかという思いに囚われる……とか。

そんな条件と反射のプログラムが、俺たちの遺伝子の螺旋の中には組み込まれていて——きっと俺は『男だから』という理由だけで、女性と出会うとそういう気分になるんだろう。

それを甘いと感じれば『恋』であり、苦いと思えば——

苦いと思えば、何なんだろうか? わからない。

俺にはそれを語るだけの経験が不足していた。

「どうした?」

気づくと、隣でぼたもちが不思議そうにこちらを見ていた。

「いや、なんでもない」

「そうか?」

「……で、これからどうする?」

「俺はちょっと画材を見ていきたい」

ぼたもちは上を指差した。肘ヶ谷リバータウンの三階には嫌味なほど巨大な画材屋『ワール堂』があるのだ。いつだったか、冷やかしに店を覗いてみたことがあったが、絵を描く人間というのは俺が思っているよりもはるかに多いらしく、なかなか混み合っていたのが衝撃的だったのを覚えている。

……しかし考えてもみれば、まさにぼたもちみたいな人種が繁盛を支えてるんだよな。灯台下暗しというか。

「じゃあ別行動だな」

俺は俺で寄りたい店があったので、そう持ちかけた。ぼたもちは頷く。

「オーケー。じゃあ一時間後に外の電子看板の前で」

「いなかったら先に帰ってるからな」

ぼたもちのことを何分も待つなんて辛抱たまらないからな。

「ええ〜、冷たいなあ」

とか言いながら肩を揉んでくるぼたもちの手を振り払って、俺は本屋へと向かった。俺の情が薄いような物言いだったが、ぼたもちだって俺が遅れたら先に帰るに違いないのだ。



肘ヶ谷リバータウンの一階の奥のフロアには、これまた巨大な書店『トゥンクBOOKS』が鎮座している。

土地柄からか、児童書や学習参考書のコーナーがやけに広いのは俺にとっては少しだけマイナスだが、それを差し引いても文芸書や雑誌、専門書などの充実度は県内随一なので重用している。

本屋に到着すると、まず目に入るのはそびえ立つアクリル製のディスプレイ棚だ。新入荷の雑誌や大河ドラマ関連本の特設コーナー、アニメ化した漫画の特集コーナーなどが設けられていて、やはり人々の注目度が高いのかいつ来ても賑わっている。

俺はそのコーナーは素通りして、入ってすぐ左手に見えるライトノベルコーナーに向かう。そこで新刊のチェックを軽く済ませ、それから漫画のコーナーを流し見しつつ文芸書・専門書のコーナーに足を運ぶ。

政治・経済・社会情勢の棚もざっと見る。決してその分野に明るいわけではないが、興味がないわけではない。哲学や歴史の棚も一応は見る。これも俺に必要なことだという気はしている。どうしても一冊の値段が高く手が出ないが、とにかくこういった本を見るのは好きだ。自分に不足しているものを警告してくれるかのようで、不思議と心地いい。

俺は哲学と銘打たれた棚の前に立ち止まり、ふと気になった本を一冊手に取る。

その本はいわゆる哲学書ではなかった。黒く塗りつぶされた表紙に銀の箔でタイトルが記されていて、重厚でありながらもひどく退廃的な雰囲気を醸していた。

十字架やドクロなどのモチーフが散りばめられたデザインはあからさまに『死』を直感させていて、おおよそ健全な精神状態であればこのような本は視界にも入らないだろうと思えた。

しかし俺は今、この本を手に取っている。

その理由について思考を巡らせる前に、ページを捲って内容を追ってみた。

——さっきの幼女のような速読を試みたのだ。

「………………」

極度の緊張感をもって、次々と迫り来る文字群を目で追い、塗り替えられ過ぎ去っていく文字たちが持つ情報の意味を頭の中で整理しようとしたが…………。

「さっぱりだな」

とくに印象的だった一節だけが頭の中にこびりつき、離れない。そんな状態の脳内では、全体を理解するのは無理だ。

頭の中に残っている一節とは、こんな文章だった。


—————————————————————————————————————

不可能なものばかりを欲する心。強烈な自尊心。現状の存在すべてへの愛想尽かしと否定

—————————————————————————————————————


では、果たしてこの一節が『運命の出会い』として俺の心に深く刻まれて、今後の人生に多大な影響を及ぼすかと言えば——決してそんなことはないだろう。

これはただ単に、気まぐれで速読を試みて、たまたま頭に残っただけの偶然の一節だ。

意味があるとは思えない。人生の指針にもならないし、忠告として受け取ることも困難だ。

ひとつ分かったことと言えば……。

「やっぱ速読なんて無理だな」

揺るぎない事実を、俺はひとりごちた。まあ、そのことが分かっただけでもある意味勉強だ。

「速読には訓練が必要なんですよ」

やっぱりそうだよな……いきなりできるなんて驕りは捨てた方がいいよな。

「でも、そんなに必要のないスキルだとは思いますけどね……」

「そうですかね? さっきの読むスピードを見たら、自分もやりたくなったっていうか……じゃなくて——」

俺は振り返る。

そこには、さっき別れたはずの巨乳ギャル——幼女が立っていた。

「なッ…………!」

心臓が目から飛び出そうだった。いや、たぶん実際飛び出た。

「こんにちは」

と、彼女は見た目にそぐわない上品な仕草で手を振っていた。

浅黒い肌に、金髪のロングヘアーはゆるやかなパーマがかかっている。化粧はさほどケバケバしくないが、バッチリと決めていて申し分ないほどにギャルの条件を満たしている。

ざっくりと開いたシャツから、蠱惑的な谷間が覗いていた。俺がチラリと盗み見ると挨拶代わりにプルンと揺れた気がしたが気のせいだろう。

「えっと……なぜここに?」

てっきり服屋でも見ているものかと……。

すると彼女は一歩俺に近づき、下からほんの少しだけ挑発的な視線で俺を見た。

ふんわりと甘い、女の子の匂いがした。脳が溶けそうだ——いや、きっと溶けていただろう。

「ジャックナイフさん。あなたは小説を書いています」

彼女は言った。

「私も小説を書いています。であるなら——私がここに居る理由は、あなたと同じじゃないでしょうか?」

「……あ」

それもそうか。言われて初めて気がつく。

つまり、俺が本を——小説を愛しているのと同様に、彼女も小説を愛していて、空いた時間があったなら本屋に足を向けずにはいられない人種なのだ。

見た目のせいでそのことに気づけなかったが……。

「じゃあこうして出くわすっていうのは、俺が思ってるほど低い確率の出来事じゃないってことか……」

甘い匂いから自分の身を守る為に一歩後ずさり、自分の中で確認するように呟くと、幼女は不思議そうに訊ねる。

「一度は、低い確率だと思ったんですか」

「ま、まあ……。とにかく驚きました」

「運命感じましたか?」

「なッ」

俺は慌てて首を振った。

「そういうんじゃないっすから」

「……そうですか」

「ただビックリしただけです」

「ビックリ、ですか……」

なぜか、幼女の表情はちょっと寂しそうに見えた。童貞を誤解させるような仕草はやめてもらいたい。日本の将来の為に。

「…………」

「…………」

時間にして、二秒ほどの沈黙が訪れた。お互いに何を話せばいいのかを探っているかのようなこそばゆい時間だった。

気づけば、何か話題を提供しなくてはと視線を動かしていた。これじゃあぼたもちを咎められない。男ってのはどうしてこうも女性を楽しませなければという思いに駆られちまうんだろう。哀しくなるな。

……ふと下を見ると、幼女の手に一冊の本が握られているのを確認した。

「その本は?」

「これは……その、ちょっと読んで勉強してみようかと思って」

彼女は胸の前に本を掲げた。俺は本の向こう側のふくらみに意識を刈り取られそうになるのを堪えて、本のタイトルを読み上げた。

「『これであなたもベストセラー作家に! ライトノベルの書き方入門』……?」

「そうです」

気恥ずかしさからか、頬を赤らめる幼女。

「小説がもっとうまくなりたいので、参考にと」

「幼女さんには必要ないと思いますけどね」

俺が反射的に言うと、幼女はまるでいたずらを咎められた子どものように弱った表情になった。

「そ、そうですよね……私なんかが買っても習得できないし意味ないですよね……」

幼女は胸の前に掲げていた本をおずおずと下ろした。

——む。ものすごい誤解をしている。

「いや、そうじゃなくて、逆です」

「逆?」

「はい。幼女さんって、もう充分に書けていると思うし、独自の作風も持っているので、こういう本はあまり参考にならないんじゃないかって」

「それは……いい意味でしょうか?」

「もちろんです」

それに、すごく個人的な意見を言えば、こういう類の本って、つい俺も気になって手に取ってしまうんだけど、だいたいすでに分かってる情報の羅列だったり、書くことが習慣化している人にとっては、『書く』という体験以上の効果をもたらしてくれるとはどうしても思えないんだよな……と。

誤解を恐れずに言えば、こういう本は『書かない人』とか『書きたいけどどうしたらいいか分からない人』が読む本っていうか……。そんなイメージがある。

だから俺は買ったことがない。実際に、なくても書けているから。

「そう言ってもらえるのは嬉しいです……けど」

「けど?」

「ジャックナイフさんの小説を読んで、私思ったんです。このままじゃダメだって」

「へ?」

予想外の言葉に、俺はマヌケな声を出してしまった。幼女が、俺の作品を見て反省すべき点など、俺にはひとつも思いつかない。

才能は明らかに幼女が勝っている。負けるつもりはないが、スタート地点がまったく違うことは認めなければならない。

「俺のどこを見て、そう思ったんですか?」

と、訊ねてから——俺は失敗したなと思った。これじゃあ褒めてもらいたがってるみたいじゃないか。褒めて欲しくないわけじゃないけど、自分から欲しがるのは違う。

しかし、そんな俺の後悔には気づかず幼女が言う。

「ジャックナイフさんの小説は、きちんと小説になっています」

「まるで幼女さんの書いたものが小説になってないみたいな言い方ですね」

後悔を埋める為に、つい茶化すような物言いをしてしまう。俺もまだ人間が未熟だ。自分のミスを帳消しにしようとして人に当たってしまうのだから、本当に最低だ。自覚はある。

「そうなんです。それなんです!」

突如、幼女の言葉が熱を帯びた。

「え……?」

「私の書いたものを面白いと言っていただけるのは嬉しいんですけど、ジャックナイフさんの小説を読んで初めて気づいたんです。……私のは小説じゃない」

「…………」

幼女は真剣な瞳で俺を見ていた。俺は彼女の主張を否定する文言がいくつも思い浮かんだが……結果、彼女が言葉を継ぐのを待った。

「私のは、小説じゃなくて……単なる心情の羅列です」

「それは……」

俺は彼女の小説の書き出しを思い出す。


—————————————————————————————————————

オーケー。マイスイートベイビー。お前の希望を聴かせてみろ。え、なんだってんだそりゃあよ。くそったれ、ボケ。殺すぞ。いいか、一度決めたら二度と曲げんな。たとえ無理だと知ってもやりきれ。そんで駄目だったら派手に散れ。いっそ清々しくなるレベルで爆散しろ。目も当てられないほど無様に挫けろ。そういうモンだろ夢って。リスクあってこその野望だろクソが。何安全地帯歩こうとしてんだこの平和ボケが。それでこそ女神になろうって女の矜持ってモンだろがボケ。カス。失敗したらちゃんと死ね。じゃねえと成功した時に跳ね上がれないだろうがクソが。

—————————————————————————————————————


「そうですね……」

彼女の自己分析は合っている。まったくもって正しい。

『ライトノベルの書き方入門』には、彼女のように激情を塗りたくる方法は記されていない。入門書を鵜呑みにするのなら、彼女の書いたものはきっと『小説未満』なんだろう。

でも——。

だからこそ、俺は彼女のことを天才だと思ったのだ。

彼女は教科書に載っていない方法で人の心を掴める、希有な存在かも知れないのだから。

「俺の考えを伝えるのは非常に骨が折れる作業になりそうですが……」

そう断って、俺は簡潔に思いを伝える。

「結論から言えば、幼女さんは今の作風を大事にした方がいいと思います」

「そう……ですかね」

幼女はふっと表情を和らげ、微笑んだ。

そういう仕草はやはり、ギャルっぽくないと思う。

「そう言っていただけるのは本当に嬉しいです。私も、この本のすべてを鵜呑みにすることが正しいとは思いません。でもやっぱり、『型を知る』ことも大事でしょう?」

「それは……そうですけど」

しかし、『型を知』ってしまったがばかりに彼女の可能性が狭まることだって考えられる。もしそうなれば——ひとつの才能が失われることになる。

才能が失われる瞬間というのは、かなりの悲劇だ。確実に誰かが泣きを見る。

「…………」

本を強奪してでも、彼女の『可能性』を守りたい衝動に駆られる。俺の小説を読んだせいで彼女がのびのびと創作できなくなるのは、あまりにしのびない。

しかし、今日出会ったばかりの相手にそこまでする義理はないだろうという思いも去来する。俺たちは確かに『女神ラブ!』で繋がった同志と認め合った仲ではあるけど、まだ本当の意味で仲が良いわけではないのだ。

……彼女の人生に踏み込めるだけの根拠は希薄だ。

「ひとつだけ、一応の確認なんですけど」

幼女は俺に問うた。

「——私にこの本を買わせずに、私の成長の機会を奪うことによってライバルを一人突き落とすとか、そういう発想はないですよね」

「まさか!」

俺は突き動かされるように声を上げた。

「絶対にありえない! そんなことをして誰が得をするって言うんですか! そもそも——」

「あ、すいません。冗談ですよ! ……あなたのことは信頼してます♪」

あらぬ疑義に対してつい声を荒げる俺に、「ふふふっ」と彼女はおどけた。——その名の通り、幼女が父親に見せるものに見紛う笑顔だった。

「……やっぱり私、これ買ってみようと思います」

彼女はそう言って、本を顔の横に掲げる。少し残念だったが、彼女が決めたことだ。

「そうですか。あまり気にしすぎなければ問題ないと思いますよ」

「ありがとうございます♪」

そう言って、彼女が深々と頭を下げた。

男の本能が眼球を下方に仕向けようとするのを、俺は頭ごと上を向くことによって回避した。

「では、私はレジに行きますね」

正面を見ると、彼女はすでに頭を上げてこちらを見ていた。

「そ、そうですよね。……俺はもう少し本を見ていこうと思います」

「そうですか。ではまたの機会にぜひお話しましょう——あ、」

幼女は最後に大事なことを思い出したように、本を持ちながら器用に手を叩いた。

「そういえば、その……二つだけお願いがあるんですけど、いいでしょうか……?」

そう彼女は訊ねてきた。

「お願い? 二つ?」

首を傾げる。心当たりはないが、不思議と期待が暴れだしてしまう。これも男だからか。

「もちろん無理にとは言わないので……」

「大丈夫ですよ。何ですか?」

「あのですね……」

彼女はしばらく何かを迷うような仕草を見せて、それから意を決したように言った。

「あの、私に、タメ口を使ってくれませんか? そもそも同い年ですし」

「……!」

意外な申し出だった。

「……それは、いいんですけど」

今時、あまりこういう会話ってあまりないような気がする。タメ口なんて、気づいたらそうなってるのが理想と言えば理想なんだろうし。そのそもこの幼女という女性は、こと人間関係に対してはかなり慎重な部類だよな……。

「お互いにタメ口でいこう、ってことですよね?」

「い、いいえ!」

念のため確認すると、幼女は全力で首を振った。

「え、違うんですか?」

「私はもうずっとこんな感じですから、このままで……。でもジャックナイフさんは私にタメ口で大丈夫なので」

「……? でもミナミに対しては結構ガンガン言いますよね?」

「ミナミは腐れ縁というか、舎弟みたいなものですから! アレは別ジャンルです」

「そうなんですか……」

いまいち釈然としないが、確かに同い年にいつまでも丁寧な言葉を使うのはちょっと疲れる。俺は彼女の言葉に甘えることにした。

「じゃあ、よろしくな」

できるだけ平然と言うように努めたが、もちろん内心はドキドキだ。こんなシチュエーションを経験したことはないのだから。

「はい! よろしくお願いします♪」

「…………」

その笑顔は幼女っていうより子犬のそれだった。重いボディーブローを食らった気分だ。

心理的にふらつく足を固く踏みしめて、俺は幼女に訊ねる。

「それで、もうひとつのお願いっていうのは何ですか? ——じゃなくて、何?」

「ふふ、急には慣れませんよね。すいません」

彼女は本で口元を押さえて笑った。しかしすぐに真面目な表情に戻る。

「それなんですけど、実は——」



「うー」

唸っている。

「うーうー」

ひどく唸っている。

「うーうーうー」

しゃにむに唸っている。

「うううううううううううううううううう!」

「うるさいな!」

思わず声を上げる。声の方を振り返ると、ぼたもちは頭を抱えて真っ白な原稿と向き合っていた。心なしか顔が青ざめている。

昨日、クメダコーヒーで幼女と三人でメガラブ談義に花を咲かせたのも遠い昔のようだ。俺とぼたもちは、いつものように俺の部屋で原稿に取り掛かっていた。

いよいよ残り三カ月ほどに迫ったコミケの原稿を?

——否。状況はほんの少し変化した。

ただし、変化したのは状況だけでなく、ぼたもちの態度もだった。

「……お前のせいだ」

ぼたもちは怨めしい視線をこちらに投げやる。

「なぜ幼女の話に乗ったし……スケジュール的に無理すぎるだろ……」

はああ、とまた大きく溜め息をついたぼたもち。どうやらかなり切羽詰まっているらしい。

「今さら言うか? もう申し込んじゃったし」

「だからなんで申し込んだんだって言ってるんだよ……」

「まあ、心配するな。キツいのは俺も同じだから」

「そもそも俺が画材を見てる間に、自分は幼女と偶然会ってたとかそれなんて幼女ルートだよマジで……」

「いや、だからそれは二人とも小説書きなんだから本屋に向かうだろうってのはあり得る事じゃん。ルートとかじゃないだろうが」

「タメ口でいいとか言われるのはデレだろうがよぉ〜!」

ぼたもちは性欲の魔物になってしまったのか、乱暴に頭をブンブン振っていた。

ルートだとかデレだとか……ギャルゲー脳おそるべしというか、本当に羨ましいんだなというのがわかる。

「別にタメ口はデレじゃないだろ……」

「そんでもって約束の一時間後にちゃんと来ないしよぉ……」

「それはごめんって。幼女とは関係なく、本に夢中になってて。というか待ってなくて良かったのに……」

「友〜情〜って知ってるか〜〜〜〜!」

荒ぶるぼたもち。アニメだったら人の形をしていないな。何かおどろおどろしい異形の者に変身しているに違いない。

彼が情に厚すぎるのか、俺がドライすぎるのか。

「俺だったら先に帰ってるけどね」

そう言うと、ぼたもちは「〜〜〜〜〜〜」と声にならない声を上げた。きっと後悔と自責の念と原稿を落としかねないというストレスやら色々が混ざったのだろう。

「三週間後なんだし、大作はできっこないんだから割り切ってサクッとやろうぜ!」

「……お前は気楽でいいよな」

「ンなわけあるか」

俺だって苦しい決断をしてしまったと焦ってる。ただ、ぼたもちのように唸っていても始まらないと思っているだけだ。


幼女の二つ目のお願い——それは、三週間後に催されるという『メガラブ』オンリーイベントのサークル参加への誘いだった。

小規模なイベントであるためか定員割れを起こしていて、申し込めばすぐに出展が受け付けられるという状態だったため、ぼたもちジャックさんも一緒にどうですかと幼女に誘われたのだ。

本来であれば、ぼたもちの言う通り「コミケの原稿で手一杯なので」と告げて断るべきだった。今考えてもそうするのが常識的な判断だったと思う。

しかし、何故か俺はその時……首を縦に振ったのだった。

そして帰宅してすぐさま申し込みを完了させたのだった。結果的に、ぼたもちには事後報告になってしまい——今に至る。

はっきり分かるのは、俺が悪いということだ。ぼたもちには何の非もなかった。


「生まれて初めて女子に『お願い事』されて舞い上がっちゃったってか?」

「ない。それはない」

俺は全力で否定した。

そりゃあ女の子からお願いされるのは悪い気はしないけど、それで判断力が鈍ったわけではない。

「じゃあ、あのおっぱいに屈したか」

「…………」

「おいおい……その沈黙は罪深いぞ……」

「…………」

「何か言えよ……」

「…………」

「おい…………」

と、まあ。冗談はさておき。

ただでさえコミケの原稿が危ないというのに、その前にもう一冊何かしら本を作らなければならなくなってしまったのだ。非常にまずい事態であるのは自覚している。

ただ、このピンチをうまく切り抜ける器用さが必要だと思うのも本音だ。

目指すものは違えど、同人は趣味の活動だ。同志ができれば、そういう人ともうまく付き合う必要があると思う。

幼女や、ミナミ——などといった、同人がきっかけで知り合った人たちと。

……今、何故か俺たちの『敵』の顔もチラついたが、あのゴスロリ女は論外だろう。


ともあれ。

どんな理由があっても、どんな想いがあっても、どんなモチベーションでいようとも。

とにかく俺たちにできることは非常に限られている。

書かなければ完成しない。シンプルだが重すぎる因果だ。

俺たちは、目の前の原稿に集中するしかないのだ。



その翌日、学校から帰って作業に取り掛かろうとすると、突然電話が鳴りだした。

「ん……?」

画面には知らない番号が表示されている。

「……もしもし」

訝しみつつも出ると、電話の主は男だった。

「突然すみません。サークル『ぼたもちジャック』のジャックナイフさんのお電話で間違いないでしょうか?」

「はい。そうですけど……」

サークル名とペンネームを訊ねられたことに大きな不信感を抱きつつ答える。

「私、同人イベント『メガメガ・ラブパーティ!』主催の権田と申します」

「ああ」

なるほど。合点が行った。

『メガメガ・ラブパーティ!』は、幼女に誘われて申し込んだ『女神ラブ!』専門の同人イベントの名称である。ちなみに『メガパ』と略されるらしい。

申し込みをしたので、俺のペンネームと電話番号を知っていて当然だ。得体の知れない人物ではなかったことに安堵した。

「今、少々お電話よろしいですか?」

「……いいですけど、何か?」

安堵はしたものの、一抹の不安は消えない。——イベントの主催者が俺に何の用だってんだ?

「一昨日の夕方ごろにネットで参加申し込みをされていたかと思うんですが、昨日の夜に女性の声でこちらに電話が掛かってきまして、参加をキャンセルされると……」

「キャンセル!?」

思わず叫ぶと、男がホッと胸を撫で下ろすように息を漏らすのが聞こえた。

「……あ、やっぱり心当たりがない感じでした?」

「ないですね。キャンセルなんてしてません。イベントには出ます」

「やっぱり……どこか変な感じがしたんですよね……」

俺がキャンセルをしていないと知るや、男の声はだんだんと不穏なものに変わっていった。

「だとすると、あの電話はなんだったんでしょう……?」

そんなこと言われても。まったく心当たりがないし不気味すぎる。どうして俺たちが勝手にキャンセルさせられそうになっている?

「それは女性の声だったんですよね?」

「ええ。比較的若い感じの声でした。なんとなく言ってることが曖昧だったというか、『とにかくキャンセルにしてくれ』の一点張りだったので、変だなあと」

「…………」

俺は考える。

一瞬、ブランノワールの仕業かと思ったが、彼女は一応は俺たちを応援してくれているのだ。その方法が途方もないほど歪んでいるだけで。……イベントの参加を妨害する理由は思いつかない。

——というかそもそも、俺たちがこのイベントに申し込んだことは幼女とミナミ、そして主催者しか知り得ないのだ。彼女が知るはずがない。

じゃあ何だ? 誰がこんなことを?

俺たちは今、確実に『何か』に巻き込まれているが……それが『何』なのかはまったく分からない。

ならばもう、俺が打てる手は一つだ。

「その電話番号、わかりますか? 教えてもらっていいですか?」

俺がそう持ちかけると、男はう〜んと唸った。

「一応番号の履歴は残っています。ただ、守秘義務というか、ここで番号を教えるのは本当は良くないことなんでしょうけど……」

それはそうか。

「う〜ん。でもこの件に関しては、番号を教えたことがおおっぴらにならなければ……」

男もこの件については気持ち悪さを感じているようで、すっきりと解決したいという思いの方が強いのかも知れない。

「もちろん、誰にも吹聴したりしません。胸のつっかえを解消したいだけです」

俺がダメ押しすると、男は折れたようだった。

「……わかりました。お伝えします。ただし、イベントとしてはこれがトラブルになっても責任を負いかねます、とだけ言わねばなりません」

「それはそうですよね。わかります」

「これはあくまで私個人の判断ということでひとつ——」

過剰にも思えるエクスキューズを付けるあたり、イベントの主催者というのは本当に大変な仕事だなあと同情をしつつも、俺は男から問題の電話番号を聞き、礼を言って電話を切った。


「…………」

メモに記した電話番号を無言でじっと眺める。それは携帯電話の番号だった。

しかし、眺めるだけでは何も解決しない。俺が取るべき行動はひとつしかなかった。

「電話……するのか……するしかないよな……」

恐怖感はある。そもそも通話という行為自体、俺にとっては非日常的な行為だ。今はSNSやメッセージアプリがあれば連絡手段に困らない時代だ。

緊張しながらも、俺は記された番号を順に押していき……電話を耳に当てる。

——繋がった。

コール音が鳴り——三度目でブツリと途切れる。

——出た! 緊張がグッと高まり、耳に意識が集中する。


「はい! もしもし! 知らない番号からでも平気で出るでおなじみの元気印! 『黙ってたら割と美人』と巷で評判の吉川ミナミが電話に出ましたよ♪」

「……ミナミ?」

電話の向こう側の呑気な声に、俺の緊張の糸はプッツリと切れた。

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