第91話 あのときの君は

しばらく彼女がもう一度姿を見せるのではないかと眺めていたけど、海面はいつもの穏やかさを取り戻して、どこまでも静かだった。

考えると不思議な話だ。彼女は手のひらサイズだから、ぼくを岸まで運ぶことなど到底不可能だろう。でも、ほおに残っていたあの鱗は間違いない、彼女の尾ひれを覆っていた鱗だ。色が特徴的だったからよく覚えている。そもそも、ほおに鱗が残るなんて、どんな状況なんだ。考えてみたけど、想像できなかった。

意識を失いながらもぼくはなんとか岸まで泳いだのだろうか。方向すらわからなかった中で?


あのとき、真っ暗な水の中で、確かに誰かがぼくのそばにいた。その人がぼくを岸まで導いてくれたのだろうか。誰かというのは、つまり、あの。

そのときふと、以前読んだ人魚姫の絵本のワンシーンが蘇ってきた。王子と結ばれないことを知った彼女は自ら海に身を投じるのである。そして泡に、泡になって。

泡、もしかするとあの泡こそが、彼女の姿だったのではないだろうか。そんな馬鹿な、と思いながらも、夢物語だと否定しきれない自分がいる。だとするともしもぼくが、彼女を愛していると言っていれば?彼女は泡にならずに済んだのだろうか?息が苦しくなる。悲しみがこみ上げて、涙が出そうになる。

とうとう堪えきれずにぼくの目からは涙があふれ出た。息が詰まって声も出ない。足元にはすぐ海が広がっている。距離は30センチもないだろう。あの海に、彼女は溶けてしまったんだろうか。手を伸ばしそっと海面に触れてみる。揺れる波は指先に当たっても形を留めずゆっくりとうごめいている。

ぼくの指先に、何かが当たった。

掴もうとするとするりとすり抜けてしまう。

海面から、また、彼女が顔を出した。ぼくを見上げて、こちらに手を伸ばしてくる。そうか君は、

「ぼくを慰めてくれているんだね」

それはまるで、悲しいときにはなぜかすぐにそばに来てくれる、不思議なあの女性のようで。

「ああ、わかった、君がーー」

彼女がニコッと笑った、気がした。


「待った?」

吉澤が走ってきてぼくの手をとった。

ぼくは彼女に笑いかける。涙はもう乾いていた。

「すっかり暗くなっちゃったね」

「でもほら、街の明かりが綺麗だよ」

海を背にぼくたちの住んでいる街を眺める。いくつもの灯りが色とりどりに輝いて、星屑のようだ。真っ暗な水平線の向こうとは対照的だった。

「おお、なんか本当に、デートみたいだね」

暗くて彼女の顔はよく見えない。けれどその声は嬉しそうだった。

「帰ろうか」

ぼくが言うと、彼女はぼくの手を強く握り返した。

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