物語の終わりに

第92話 エンゲージ



  吉澤は忙しい時間のちょっとした隙間にもぼくに会いに来てくれた。ぼくも母のスクーターを借りて吉澤に会いに行ったりした。母はそんなぼくを見て嬉しそうだった。外に出る機会が増えて、顔色も良くなったし、体型もほっそりしたと喜んでくれた。

吉澤は相変わらずのド・ポジティブで、隣にいるぼくはときどき辛かったけど、一緒にいるうちにだんだんと影響されてきたみたいで、なんだか生活に関して意欲が湧いてくるようになった。しばらくして判明したのだが、吉澤はポジティブ心理学信者だったのだ。ついでにいうと彼女は自己啓発本マニアでもあった。彼女の自宅の本棚には、七つの習慣や、人を動かす、とかいった重厚なタイトルが、おしゃれな絵本や児童書の隣に並んでいて、正直ちょっと引いた。


けれども、まあ、ぼくたちの交際は概ね順調だった。料理はうまいし、掃除好きだし、気遣いはできるし、彼女の人格についてぼくに不満は全くない。強いて言うならば玉子焼きに砂糖を入れるところが不満なくらいだ。

彼女のポジティブに感化されたのか、いつのまにかぼくも職探しに本腰を入れ始め、なんとか満員電車の時間に通勤しなくて済むような職場を見つけた。無駄に高価な進学校を出たわけではなかった。ぼくはプライドをかなぐり捨て当時の同級生たちに片っ端から泣きついた。それこそ、袖が触れ合った程度の知り合いにも頭を下げた。そしたら、見つかったのである。再就職先が。

自分よりも年下の上司に仕事を教わりながら、今なんとかやっている。特に職場や仕事内容に不満があるわけでもないのに、ときどき発作のように不安感や脱力感に襲われることもあった。意志の力でコントロールできることでもなく、辛かった。それでも吉澤や家族がそばにいてくれて、なんとかなってる。


 職を得て調子に乗ったぼくは吉澤の実家に招かれ食事をご馳走になった。お義母さんは、「沙穂ちゃんが今まで連れてきた中で一番まともな人!」などと言ってぼくのことをずいぶん気にいってくれたようだった。前回の彼氏がアマチュアバンドのドラムスだったらしく、そのときに吉澤の母が結婚相手に提示した条件が、定職のある人、だったらしい。振り返ってみると全てが吉澤の思う壺になったような気がする。彼女はピグマリオン効果とか引き寄せの法則とか言うのだろうけど、ぼくにとっては単なる罠だ。それも蟻地獄形式の。

 それから話はとんとんと進んで、三ヶ月後にはぼくたちは婚約した。 母親同士も意気投合して一緒に呑みに行ったりしていたようだったけど、吉澤の父だけが難色を示していた。どうやら吉澤はかなり父親に大切にされて育ってきたらしい。一時はどうなることかと思ったが、吉澤母の「あの子ももう27なんですよ」という言葉で全ては収束した。ぼくは胸ぐらをつかみかかられそうな勢いでガンを飛ばされながら、「娘をよろしく」というお義父さんからのありがたい祝詞を頂戴した。多分あの晩お義父さんは、晩酌しながら泣いたんだろう。


ぼくは実家と吉澤の家に交互に帰る生活を続けている。しばらくこのままの生活が続くんだろうと思っていたら、いつのまにか式の会場が決まっており、日取りや予算まで決められていた。吉澤は本当にびっくりするくらい手際がいい。ぼくよりもずっと優秀なビジネスパーソンになれると思う。

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