第76話 あぶく

さっきまで感じていた彼女の体重、息遣い、温度、匂い。そのすべてが一瞬のうちに消えてしまった。まるで泡のように。

ぼくは手の中に残る彼女の温度を確かめるように自らの手のひらを眺めた。確かに、さっきまでここにあったのに。手放してしまったのはぼくなのか。それとも彼女の方からすり抜けて行ってしまったのか。

意識のあるときに、キスをされたのは初めてだった。


あんなに、柔らかいのに。どこか冷めたように感じるのは、なぜだろう。

決して必要でないはずがないのに、それ以上求めることができない。


心臓が不自然に脈打った。彼女のことを考えていたせいなのか、それとも単なる緊張から解放された安堵感によるものなのか、自分では判別がつかなかった。ざわざわと、脈打つたびに違和感が左胸を埋め尽くしていく。欠乏あるいは充足。矛盾しているのに、それを埋めることができない。どうしてもパーツが不足していて、今あるものでは補うことができない。


ぼくは開くことを許されなかった絵本の最後のページを開いた。

物語の中の人魚姫は王子の心を捕らえることができず、約束通り海の藻屑となってしまう、はずだった。しかし海に身を投じた瞬間彼女の肉体は泡となって滅びたが、彼女の魂は天上に召され救済される。幼い頃に読んだのと同じ筋書きだった。


もしも王子が姫を選んでいたなら、どうなっていただろう。ぼくはやっぱり、アンデルセンの話が苦手だ。重たすぎる。


本をしまい、自室を出た。階段を降りて一階のリビングを覗く。

「あら、もう直ぐご飯だよ」

ぼくの姿を認めた母が言った。

「まこちゃん呼んでおいで」

「わかった」

薄暗い廊下を行き、和室を覗いた。けれども、人の気配はない。客間も見た。誰もいない。トイレも、風呂も、押入れも、開けられるところは全部開けて確認した。どこにも、彼女の姿はなかった。

「ちょっと出かけてくる」

母に声を掛けて玄関へ走った。靴は一つも減っていない、だとすると、家の中にまだいるのだろうか。ドアノブに手をかけた。鍵は、かかっていなかった。

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