第60話 スポンジと泡

 食器を泡のついたスポンジでこすりながら、シンクに並べていく。思っていたよりも洗うのが楽だった。マーガリンやバターをあまり使っていないからだろうか。木ベラを泡で拭っていたら、いつの間にか隣に吉澤が立っていた。彼女はぼくの置いた洗い物を水で流していく。

「いいよ、せっかく作ってくれたんだし、後片付けくらい」


「ふたりでやったほうが早いでしょ」


 スポンジを握ると泡が飛び出た。小さな泡はふわふわと漂って弾ける。

 母が夕飯の買い物に行くと言って部屋を出て行った。

 ぼくは吉澤の手元を見ている。白い泡は水柱に押しのけられてするすると剥がれていく。シンクを打つ水音。

「電話を、したんだ」

 ん?という、声にならない鼻音とともに、吉澤がこちらに視線を向ける。

「京子と、話した」

 そう、という、微かな息遣いが聞こえる。

「振られたよ」

 吉澤はぼくに顔を向けた。ぼくは蛇口から流れる水を見ている。

「ちゃんと、振られてきた」

 ふっと、彼女の口元が緩んだ気がした。

「良かったね」

 吉澤が手にしていたコップを水切りかごに入れた。

「自分の気持ちを伝えるって、大事だと思う」

 吉澤の手がぼくの手に触れた。

「あとはやるから、座っておいでよ」

「いや、いい、ぼくもやる」

 スポンジを泡立て直して食器をこすった。


「ちゃんと傷つくって、大事だと思うよ」


 噛んで含めるように、吉澤が言う。ぼくは思わず苦笑いしてしまった。

「傷ついたことを完全に表現して初めて、私たちは癒される。

 byマルセル・プルースト」

 唐突に、そう真顔で呟く彼女に内心かなり驚いた。

「え、吉澤フランス文学とか読むの?」

「ううん、全然」

 吉澤が驚いたようにぼくの目を見た。フランス文学、なにそれ、おいしいの?とでも言いたげな目だった。ぼくは悟った。彼女はマルセル・プルーストが誰か知らないのだ。ガチャンと、メラミンのプレートがぼくの手から滑り落ちて音を立てた。ぼくは息を呑んで。何事もなかったかのように、洗い物を続けた。吉澤が恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「ごめん、最近読んだ自己啓発本に書いてあったから、つい」

 私が言うより、えらい人の言葉の方が、航平くん聞いてくれると思って。そう言って俯く吉澤は少し、ほんの少し、可愛かった。

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