第52話 物語を歩く
絵本を読むようになって、例の女性の表情が豊かになってきた気がする。吉澤は仕事で読んだおすすめ絵本のリストをぼくに送り、ぼくは有り余る時間を図書館通いや本屋めぐりに費やし、本を探した。毎日一冊を彼女に読み聞かせることを続けていると、だんだんと感情や常識といったものが彼女の中に芽生えつつあると感じられるようになった。例えば食卓に並んだ林檎の表面を興味深そうに眺める彼女を見たとき。あるいは路端の雑草を大事そうに摘み取る彼女を見たとき。もしくはぼくや母以外の人間に、親しみ深い視線を投げかけるのを見たとき。
そんなときぼくは、物語の効能というのを実感せざるをえなかった。しかもその効果は彼女だけに限ったことではなかったのだ。
時には、食卓で。時には、枕元で。ぼくは彼女に物語を聞かせる。彼女は嬉しそうに、楽しそうに、悲しそうに、ぼくの声に聴き入ってくれる。こんなにも誰かに必要とされたことがあっただろうか、いや、ない。こんなにも自分の言葉の一つひとつをじっくり味わってもらったことがあっただろうか。幼児の頃を除いて、ぼくにはそういう経験が皆無だった。
そもそも他人は皆自分のことで精一杯なのだから、ぼくなんかの言葉は聞くに値しないものなのだ。物心ついてからのぼくは、いつしかそんな風に他人との距離を測るようになっていた。その傾向に思春期を迎えて拍車がかかり、今までついぞ矯正される機会もなかった。
けれどここ数日は違う。こんな自分にもやるべきことがあるように思えた。彼女は毎日成長し、学び、すくすくと育っていく。ぼくもこんな風に、何かをひたすらに追求するべきだと思った。要するにぼくは、この年になって自分がすっかり諦めていた、成長を遂げようとしていたのだ。
ピーターラビットの絵本を読み終えたとき、彼女はこれまで不審がって口にしなかった、生の人参を齧ってみせた。魔法使いの出てくる話を読めば箒にまたがってみるし、クズリの実を煮詰めてジャムを作る話を読めば、冷蔵庫の梅干しを鍋にぶち込んで木べらでぐつぐつかき混ぜたりした。
以前のぼくなら苛立つこともあったかもしれない。けれど不思議なことに、ここ数日はまったく腹も立たず、ただ淡々と人参の美味しい調理法を教えたり、正しい箒の使い方を示し見せたり、梅干しと生の果実の違いを説いて聞かせることができるようになっていた。
いつものように女性が超人的な失敗でぼくの手を煩わせても、気にならない。言葉が話せないことで些細な齟齬が生じても、許せる。非常識な振る舞いも、びっくりするほどの無知も、大体のことが、すんなり受け入れられるようになっていた。
そうなると、なぜだか自分の非も認められるようになって、日常起こりうる失敗にも寛容になったし、必要以上に自分を責めることも減っていった。
吉澤がここまでの効能を見越して一冊の絵本をぼくに与えたのだとすると、彼女は神だ。女神だ。頭の中で呟いたのが聞こえたのだろうか、女性がぼくのそばに寄ってきた。音もなく近づいてくる様子は猫に似ている。野良猫と違うのは手を伸ばしても逃げないところ。
ぼくはふと、彼女を自分しか知らない名前で呼んでみたくなった。彼女は返事をするだろうか。
けれどもぼくの別のところで声がする。彼はこう警告するのだ。名前をつけたらもう野良には戻らないんだぞ、と。
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