第49話 白い月

 なんとなく、一刻も早く海の傍を離れたかった。足早になりながら黙々と歩く。けれどもふと途中で、吉澤も一緒だったことに気が付き、振り向くと、彼女はぼくから十メートルくらい後ろで一生懸命小走りになってぼくの後をついてきていた。濡れた足にミュールがすべるのか、随分と歩きにくそうだった。少しだけ申し訳無さを覚えて、立ち止まって吉澤の追いつくのを待つ。吉澤はそんなぼくを見て、また足を早めた。


 追いついた吉澤と並ぶように歩く。異性と歩くのは久々だったから、自分勝手ながら煩わしく思えた。話すことも見つからない。物理的な距離の近さが辛かった。気まずさを打ち消すように、吉澤が明るい話を次々繰り出す。ぼくは生返事をして彼女を困らせる。


 陽が陰り風が冷たく感じられた。吉澤も京子たち親子を波打ち際から引き上げるときに、足元や衣服を濡らしている。きっと寒いだろう。そう思ってぼくは上着を脱いで彼女にかぶせた。

「え、なに、貸してくれるの?……すごい、ぶかぶか」

「嫌なら返して。おれも寒い」

「ううん、着ます」

 自分が女性に対してこのような卑屈な態度を見せるようになったのはいつ頃からだろうか。大学時代友人だった男の女に口説かれてからだろうか。それとも清純そうだと思って好きになった女性がとんでもないビッチだったことを知ってからだろうか。初めて三年間も付き合った女性がぼくよりいい条件で就職した男にあっさり乗り換えてからだっただろうか。吉澤が恥ずかしそうにぼくの上着を羽織るけど、これすらただの演技なのではないかと勘ぐってしまう。女性は怖い。どこに蜘蛛の糸を張り巡らせているかわからない。


「そういえば、彼女、すごかったね」

「彼女って?」

「まこちゃん。泳ぐのすごい上手だった。ライフセーバーみたい」

「ああ、そういえば」

「黙っていなくなっちゃったけど、京子ちゃんがお礼を言いたがってたよ」

「うん?…うん」


 何事もなくて本当に良かったと思った。それでも、何事かあるともっと煩わしかった、と考えてしまう自分が嫌いだった。子供も無事だったし、誰も、怪我をしなかった。だから今日は、良い日だった。


「あ、見て」

 吉澤の持ち上げた指につられて、見上げた空には、白い月が浮かんでいた。

「ああ、月だね」

 答えたぼくの手に、吉澤がそっと触れる。温かいな、とぼくは思った。ためらいがちに握られた手を振り払うことも出来なくて、ぼくはただ月を見て、きれいだ、と言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る