泳げない魚

第46話 魚影

 総括すると、弁当はうまかった。そこそこ。人間って成長するんだなぁ、と改めて感じさせられた。一つ残念だったことを挙げるとすれば、おかずを一つつまむごとに京子の刺すような視線が耳のあたりを貫いていったことくらいだろうか。ぼくだって鬼畜ではないので、作った本人を目の前にしておかずの出来を酷評するつもりなどさらさらなかったのに。


 食事の後は砂浜で貝殻を拾う子供に付き合ったり、波打ち際で靴を濡らしたりという、ごくごくありふれた1日を過ごした。確かに、子供と過ごす時間は悪くはない。リラックスできて、さらに子守という社会貢献を果たしている気分になるので、精神状態の安定につながる。葉月は砂浜にへたり込んで、持ってきた毛糸に貝殻を通してアクセサリーを作っている。


 砂浜にはしばしばまあるい穴の空いた貝殻が落ちている。なぜそんなに美しく細工された貝が落ちているのか、子供の頃は不思議だった。ノミやキリで人工的に穴を開けようとすると、貝は無残にも割れてしまう。それなのに、浜辺に落ちている貝の穴は、均等に丸く、貝にひびもない。

あの穴は、貝がまだ生きていた頃開けられたものなのだという。貝を食べる生き物がいて、そいつが中身を食べる際に硬い表面に穴を開けるのだそうだ。それを聞いた時、ぼくは怖かった。拾い集めていた貝は、ただの死骸なのだ。抵抗もできずに食べられた、無残な跡なのだ。よくよく考えてみれば、貝殻というのがそもそも貝の死体だった。生物という意味を広く捉えれば、珊瑚の枝だって死骸だ。すると途端に、海を歩くのが怖くなった。砂浜を形作るのは砕けた石のかけらと、無数の生き物の死骸。自分が身近に触れていたものの正体を始めて知ったぼくは、恐れおののいた。


 今思い出してみると、そのときぼくの少年時代は終わったのかもしれない。人工的に切り取られた環境に身を置いていたって、生物として厳しい生存競争にさらされている事実は変わらないのだ。そういうふうに思った。考えてみると、護岸のために繰り返される工事も、波消しブロックも、海の猛威にはほとんど無力じゃないか。コンクリートの表面は無数の有機物に侵食され、やがて消えていく。自然を目の前にして、ぼくたちにできることは思いの外少ない。それを知ったとき、安全圏に身を置いていると信じ切っていたぼくの青春は終わった。実際にぼくたちの目の前に広がっているのはどこまでも荒涼とした荒野で、無数の捕食者から身を隠すので精一杯だった数万年前の景色とほとんど変化がない。生きて行くのに必要なのは競争と保身。ぼくは自ら進んで激しい環境に身を置きそして、落伍した。


 そのときふいに激しい風が吹いた。

「あっ」

 子供のか細い声がする。

 葉月の帽子が風に舞き上げられ、宙をさまよい、海面に、落ちた。

 引き潮が帽子をあっという間に沖へと運んでいく。

「はづき!」

 京子が鋭く叫んだ。小さな体が水際を目指して走っていく。パシャパシャパシャ、と小さな足が海水を叩いた。彼女の体は寄せ波に拒まれて、うまく前へ進めない。ひときわ大きな波に揉まれて、葉月の体が大きく揺れた。パシャン、とひときわ大きな音がして、葉月の体が水の中に投げ出された。立ち上がろうとして、波に拒まれる。ごろり、と砂浜側へ転がった体が、次の瞬間ぐい、と沖の方へ飲み込まれた。引き潮。薄いワンピースの布が、波に弄ばれて、ひらりひらりと揺れた。


 この辺りは波が激しいから、少し沖に出ると急激に深さを増す。子供の足はとてもじゃないけど届かない。思わず走りだしたぼくの横を、すり抜けていく影が見えた。

 

 パサリと音がして、ナイロンのスカートがバサバサと風に舞った。


「へ?」


 ためらいもなく水の中に消えた、彼女の姿。ぼくは思わず砂の上に捨てられたスカートを拾い上げた。脱いだ。人前で。なんの葛藤もなく。後ろを振り向くと、京子と目が合った。


「まこさん」


 吉澤が呟く。海は怖いくらいに静かだった。この広い範囲から、子供の姿を見つけ出すなんて、不可能じゃないか、とすら思う。


 どれくらいの時間が経ったのだろう?音も、気配も、なにもかもが消えていたように感じた。 

 

 不意に浜から離れた沖のほうで、何かが浮き上がった。黒い、頭のように見えた。ふたつ、波の間で揺れている。

「はづき!!!」

 京子が叫んだ。

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