第35話 尾ひれの影

 朝食は全部は食べられなかった。時間が10時過ぎと中途半端だったし、色々考えていたら箸が進まない。ぼくは食べ残しをラップで包んで冷蔵庫にしまった。それから家の中をしばらく意味もなく歩き回ったあと、箸とコップを洗って二階に上がった。

 部屋の中にはまだ彼女の姿がある。大きめのシャツをワンピースみたいに着こなして、ぼくの寝床に横たわるその姿は、一見彼女か何かみたいだ。くの字に折り曲げられたふくらはぎや、柔らかく握られた手のひら。ぼくは彼女の姿からあえて目をそらして自分の洋服タンスを開けた。

 休日の格好を気にするなんていつ以来だろう。少しでも感じがよく見えるように頭を使いながら洋服を選ぶなんて、何年ぶりなんだろう。そもそも最後にユニクロ以外で服を買った記憶がもうなかった。服なんて、夏暑くなくて、冬寒くなければいい。仕事についてからはそんな風に考えるようになっていった。

 そのせいかろくな服がない。どれを着ても決まらない。女性ウケを狙えるような衣類が全くない。無地のTシャツにチノパン、ジャケットを羽織ってみた。いやいやこれじゃいかんだろう。ジャケットを脱ごうとした時、彼女が体を起こした。

「あ、目が覚めた」

 もしかしたらもう少し前に彼女は目を覚ましていたかもしれない。だとすると下着姿を見られただろうか。よく考えてみると、そもそももう見られて恥ずかしいような部位はないはずだ。ぼくは気にせずありったけの服を引っ張り出す。

「これ、どうかな」

 彼女の前で回って見せた。ぶんぶん、と彼女が首を振る。めっそうもない、って感じで。

「こっちのズボンは?」

 またもや同じリアクションである。

「じゃあ、これ?」

 濃い紺のジーパンを見せてみた。彼女がちょっと首をかしげる。まだマシかな、とでも言ったところだろうか。もしぼくに妹がいたらこんな感じだったのだろうか。妄想しながらタンスからあぶれた衣服を中に突っ込んだ。その中から、白いパンツを一本拾い上げて彼女が足を突っ込む。どう見ても彼女にはぶかぶかだった。 余った布に足を取られて、彼女が転びそうになる。

「なんだよ、同じ方に両足突っ込んでるじゃないか」

 本当に君は、子供か。ぼくは彼女の手を取った。足を抜き取る手伝いをする。数日前は細かい傷でいっぱいだった足も、今はだいぶん綺麗になっている。窓から差し込んだ日の光が、彼女の足元を照らしている。薄く細かい足の爪が、海の底の貝殻みたいにきらりと光った。ずいぶんと足の指が長い。筋張った健がヒレのように思えた。

 人魚みたい。まさかね。

 着替え終えたぼくは、携帯と財布をカバンの中に突っ込んだ。

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