7 レース -代償

「ちょっと! 大丈夫!?」


 ゴール付近にいた先生が駆け寄ってくる。

 しかし私たち二人は、声を出すどころか、呼吸も満足にできず倒れこんでいた。

 口に当てられたものが酸素スプレーだと分かったのは、ずいぶん楽になったあとのことだ。今時の小学校がこんなものまで用意していることに軽いショックを受け、何て贅沢だと思い、助かったと感謝した。


「やりすぎよ、あなたたち! 考えたら分かるでしょ! 四年生にもなって!」

「はい。すいません……」

「大丈夫なのね!」

「はい……。大丈夫です……」

「まったく……ほらっ、動かない! 座って! 一応、石山先生を呼ぶから、ちゃんとそこで休んでなさい!」

「はい……」


 その先生はひと通り怒ると、救急テントに向かった。


「俺……負けたの初めてだ」

「どっちが勝ってもおかしくなかったよ……ホント」


 歩いていく先生を見ながらつぶやく駿太に、私は返す。


「約束は、約束だもんな…………。俺……ちゃんと謝るよ」

「……うん」


 駿太の横顔が、少し大人びて見えた。

 男の子は、こんな風に成長していくんだろう。

 私はまた、眩しい思いだった。


「ほいほい、具合はどうかしら?」

「あ、私は大丈夫です」

「俺も」


 やってきた石山先生に、二人ともしっかりした声で答えた。


「うーん、そう。んー、萩永君。君は男の子だから、三雲さんの分もテントから毛布を持ってきてくれるかな? 汗、かき過ぎだから、風邪を引かないように」

「え、あ、俺? あ……はい」


 駿太はテントに向かった。

 石山先生が、その細い目で私を見る。


「さて、三雲さん」

「え? はい……」

「靴に、血がにじんでるね」

「えっ!」


 反射的にめくれた裾を引っ張ったが、時すでに遅し。

 白い側面の、通気をよくするために開けられたたくさんの小さな穴から、うっすらと血がにじみ出していた。血は、そこまで回っていた。


「まず、紐をいっぱい緩めて。当たらないように足を浮かせてから、靴の踵を踏みなさい。それで歩けるようなら、隠したままでも保健室で治療はできるでしょ」


 一瞬、呆気に取られた。

 しかしすぐ我に返った。怪我をした私に負けたなんて知ったら、せっかく気持ちよく謝るって言ってるのに、また気が変わるかもしれない。

 焦って手が上手く動かなかったが、何とか駿太が戻ってくるまでにやり終えていた。


「毛布、持ってきました」

「ほい、ありがと。一枚は君の分。で、一枚は、やっぱり返してきてちょうだい。三雲さんは、保健室で休んだ方がいいみたい」

「えっ! 大丈夫なのか、三雲」


 駿太が心配顔になった。


「大丈夫かしら? 三雲さん」


 先生は、私に確認している。歩けるか、と。

 私は笑った。


「大丈夫。疲れて眠くなっただけだから。ちょっと、頑張りすぎたかも」

「何だよー。心配したじゃん」

「ほい、じゃあ、返してきテントー」


 安堵した駿太は、「テントに帰してきて」を迷いなく駄洒落にまとめた石山先生に追い立てられて、歩いていく。こっちを振り返りながら。


「見てるねー。頑張りどころだ。手は貸さないよー」

「……はい」


 足取りがおかしくならないよう慎重に、そしてしっかりと、先生について保健室に行った。




「あらー……。無茶したもんだね、これは」

「っっっ…………~~~~っ!」


 私の両の踵は、自分でも見たくないほど皮がグチャグチャで、洗うのも消毒するのも……悶絶した。


「ほい、できターザン」


 もはや、寒がる元気もない。

 しかしそのあと、石山先生の声が変わった。


「ここは腱があって、大事なところ。もう、やめなさいね」

「……はい」


 驚くほど真剣な顔に、そう答えるしかなかった。


「ほい! じゃあ、あとは自宅に連絡、病院に行く。その前に、校長にも報告だね」

「えっ!」


 私はうろたえた。


「うん、友達のプライドは保った。でも、あとは観念しなさい。ここでできるのは、簡単な処置だけだから。これ、思ってるよりひどいの。中で炎症を起こしたら、大変になるよ」


 言っていることは、十分、分かっている。

 だけどそれは――


「わ、分かりました、病院には、ちゃんと行きます。学校が終わってから、祖母に連れて行ってもらいますから。だからその、あんまり大げさなことにはしたくないっていうか、大丈夫なんで…………校長先生には、言わないでいてもらえませんか……?」


 子どもの身では自分の責任も取れない。しかもこれは、授業中の怪我だ。

 無理なことは承知で、それでも一縷の望みをかけた。石山本願寺に。


 バーンっ!!

 いきなりドアが開いて、私は飛び上がった。


「どういうつもりだ」

「ぎ……! 校長……!」

「何だ、その足の包帯は」

「こ、これはっ……」

「そこに転がってる、血だらけで、ガバっガバの靴は」

「それ、は……」


 矢継ぎ早に質問をしながら、銀ちゃんが、ずんずん近づいてくる。


「何で、ここまでした」

「え……あ……」

「言ってみろ」


 目の前で、仁王立ちになった。


 間違いなく、聞かれた。隠そうと意図したことを喋った、現場を押さえられた。

 ――現行犯。

 恐らく言ったところで、石山先生に却下されていたのだ。

 そしてきっと……言わなければ、ここまで怒らせることもなかった。


 言うんじゃなかった…………


「……はい」


 もう、観念するしかなかった。

 駿太と白石さんの仲直りのため、勝負したことを白状した。

 しかし、原因が解決すればいずれ元に戻るはずだから、余計なことは省いた。

 靴のことはとっさに、底がはがれて使い物にならなくなったから借りた、という事にした。


「お前……あんな誰が見てもおかしい靴で、ちゃんと走れるか。雪合戦のときもそうだ。危なくても飛び出す。止めても言うことを聞かない。どうも、無茶が目につくな」


 怒ってはいても、今日は抑え気味だった。

 側にいる石山先生の、落ち着いた空気感のお陰かもしれない。

 ちょっと、助かった。


「すいません……」

「お前は…………。懲りてねえな」

「えっ」


 急に硬くなった銀ちゃんの声。

 その目が鋭く光っていた。


「今月の『ラ・カンパネラ』は無しだ。今度からペナルティを科す。また俺に黙って同じようなことをやったら、来月も無しだ。無茶をやる限り、永遠に聴きに行けねえぞ」

「え……ええっ!」


 大事な息抜き。

 その時間だけが、何もかもを抜きにして楽しめた。忘れていられた。

 また、行けると思っていた。


 それが、なくなる。激しい衝撃。


「分かったな」

「っ………………分かりました」


 これからは、もっと慎重にならないとダメだと思った。

 危ない隠し事が露見したら、私はきっと、やっていけなくなるだろう。

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