8 愛のかたち

 って、あれ?

 ……帰ってくる。


 私が想定していた距離よりもずっと手前で反転して、餌も捕らずにビーは帰ってきた。そして、そのあと何回やっても結果は同じだった。

 

「何でだろう。さすがにお腹いっぱい?」

「遠く、怖い。そう言ってる」


 キリリとした目で私を見つめるばかりの、ビーの顔を見た。

 赤鬼にはビーの気持ちが分かるのに、私には全く分からないことが寂しい。私とこの子は、本当に特別な繋がりがあるんだろうか。


 指先で頭を撫でると、ビーは気持ち良さそうに目を細める。

 可愛い。でも、だからこそ、だ。早くこの家から離れた方が、この子のためにはいいのだから。


「怖くても、それでも山に帰るんだよ。大丈夫。ビーならできる」


 一層の想いを込めて、虚空を見つめた。その果てに飛び去って、見えなくなる姿を想像する――――

 と、遠く視界の中に、小さな黒い点が映った。

 そこから届く、まっすぐな視線。


 実は、さっきから気づいていたことがあった。ビーを飛ばし始めてから、近くにいた生き物が、息をひそめたようになっている。安全なところに隠れたか、それとも離れた場所に逃げたのか。いずれにせよ、たびたび感じる好奇心に溢れた視線は一切、無くなっていたのだ。

 だから、黒い点からのまっすぐな視線は、鮮明に私に届いた。何者か分からないほど、遠い距離でも。


 目を凝らした。

 それは、少しずつ形を成していく。両翼を広げ、気流に乗って近づいてくる黒い影。

 悠々。

 余裕と貫禄を感じる姿には、そんな表現が似合う。

 オオタカだ。


「まさか、ビーのお母さん……?」


 期待したものの、だんだん近づき頭上高く通り過ぎていくのを見上げていたら、違うと思った。根拠はないけど確信だった。

 それに、母親は巣を離れないはずだ。


 オオタカは、大きく円を描くように旋回している。

 母親じゃないなら、一体……


「父さん」

「え! お父さん?」


 赤鬼の言葉に驚く。ビーの父親が来るなんて、そんなこと思ってもみなかった。

 ビーを見ると、あれが誰だか分かっているのか、旋回するオオタカの姿を目で追っている。

 私の顔は、自然にほころんだ。


「お前、愛されてるね」


 上空のオオタカは、今度はゆっくり遠ざかり、離れたところでまた旋回を始める。

 そこは、ビーが超えることのできなかった距離だった。


「促してるんだ」


 どこかで、自分自身の遠い記憶と重なり合う。

 恐らく、幼稚園の入園式。たくさんの親子が入っていく門の前で、不安で、私は泣いていた。

 父はその場で私を、優しく、強く、抱きしめてくれた。私が泣き止むまで、ずっと。そして、そっと手を引いてくれたのだ。

 あのとき、自分の足で進むことができたのは、父がいてくれたから。


 赤鬼を見ると、頷いてくれた。

 ビーの目は、絶えず父親を捉え続けている。

 もう、餌はいらない。私は渾身の力で、腕を前に振り出した。


「飛んでけっ! お前の場所に帰れっ!」


 今日一番の、見事な飛び方だった。

 父親と同じく雄大で、力強く、美しく。伸ばした羽いっぱい、過たず気流をつかんでいく。超えられなかった限界点の先を目指し、迷いなく飛ぶ姿は、生き生きとした輝きを放っていた。

 私には眩しすぎて、目を細めずにはいられなかった。


 悠然と待つオオタカに、どんどん、どんどんと近づく。

 そして二羽の大きさが同じになると、ビーはまるで父親に戯れるように自由に舞い始めた。

 飛び交い、追いかけ合い、羽ばたいて上昇し、ひらめき降下する。

 喜びを、全身で表現しているかのように。


 やがて父親は、先導するように遥か向こうへの進路を取る。

 あとを追うビーが、振り返ることはなかった。

 二羽の背景にある空には雲もなく、コバルトブルーに、黒と茶色の鳥影。

 遠くなるにつれてビーの茶色が濃さを増し、二つの黒い点となって尾根の向こうに消えていくのを、私は最後の最後まで見つめていた。


「バイバイ、ビー」


 空には、それからいくつかの雲が流れた。

 青からだいだい、紺に棚引く白を、いつの間にか隣に来ていた赤鬼が声をかけてくるまで、私は屋根の上で眺め続けた。


 居間では、みんながいつも通りに囲炉裏を囲んで、私を待っていた。

 ただひとつ違うのは、そこにビーがいないこと。

 空席になった朧の首の白い毛が、ずっと乗せ続けたビーの重みで、寝癖のようになっていた。


 その夜、降り出した雨は、真夜中には土砂降りになって私の耳を打った。

 いつまでも、いつまでも。

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