その3 そして異世界へ…

*        *        *


 あび。


 あびゃらばばばば。


 何が起こってるんだこれ どうなっとる

 助けてくれ。

 どうしてこうなった。何がのまちがいか。

 帰らないと。

 帰ってお母さんに謝らないと。いままでごめんなさい、と。

 靴下をそこらにちらかしたままですいません。毎日お洗濯してくれてありがとう。


 ……違う。そんなんじゃない。混乱してる。冷静さを取り戻せ。

 こうなったのは、あの、造物主を名乗ったガキが原因か。

 だとしても、――こんな。

(2015年2月4日 記)


*        *        *


「――はっ?」


 目を見開く。

 同時に、痛烈なほどの違和感に襲われた。

 全身が、じりじりと焼け付く布に包まれているかのような――。


「……はっ……はっ……はっ……はっ……」


 小刻みに息をしながら、身体を起こす。

 どうやら、しばらく地面に倒れ伏していたらしい。学校指定の制服が、土でべったりと汚れていた。

 上着を軽く叩きながら、きょろきょろと顔を動かす。


 ――木が多い。


 それだけ理解して。

 しばらくしてから、


――ここは、どこかの森の中だ。


 そう思った。

 徐々に、五感に火が灯っていく。

 土を払った上着を羽織ろうとして、さらなる異常を発見した。


――暑い。


 一瞬、自分の体温に異常があるのかと疑う。だが、どうやら違うらしい。空から降り注ぐ日差しが、じりじりと周囲を照りつけているのだ。


「なんだ……?」


 誰ともなく訊ねるが、小鳥が数羽飛び立っただけで、返事はない。

 光久は、傍らにあった大樹に寄りかかりながら、何とか立ち上がった。


「……くそっ」


 思わず、毒づく。

 いきなり、足のつかない海中へ投げ出された気分だった。

 何かはわからない。

 ……ただ、何ごとかが起こっている。

 それだけは確かだ。


 だいたい、ここはどこなのだろう。

 先ほどまで、冬の海を眺めていたはずなのだが……。

 それも全部、夢幻だったのだろうか?

 いや。白昼夢にしては、リアリティがありすぎる。


 ――考えても仕方ない。


 得体の知れない恐怖に溺れそうになる気持ちをとどめて、深く呼吸をする。

 頭を整理しろ。

 朝起きて。朝飯を流し込むように食べて。

 家を出るとき。何か、いつもより自棄になっていた記憶がある。

 そして。


 ――恋をしなければ……。


 なんでか、そんなふうに考えていたような。

 ふいに、草を踏む音が聞こえた。

 反射的に振り返る。


 そこにいたのは、物語に登場するような、可憐な少女であった。


 少し旧いデザインのセーラー服を身に纏い、首元には金色の首輪と思しき何かが巻かれている。

 年は、光久と同じくらいだろうか。

 彼女は、真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 ぽかんと、口を開く。


 ……奇跡が。奇跡が起こっている。


 それだけはわかった。

 気分が高揚する。喉が渇く。

 何か。――何か言わなければ。

 口を開き駆けたその時。

 ひゅ、と、風を斬る音がして。

 光久の鼻先を、銀色に閃く何かが掠めた。


「――ん?」


 一拍遅れて、目の前を通り過ぎていったものの正体に気付く。

 それは、刃渡り二十センチほどのナイフであった。

 お巡りさんに届け出たら、間違いなく取り締まりの対象になるようなヤツである。

 刃を振るったのは、他ならぬ、目に前にいる少女だ。

 唇を真一文字に結んで、後退る。


「いい加減・・・・・・化かし合いは終わりにしましょう」


 少女は、淡々と言った。


「あ……え……」


 光久は、口をぱくぱくさせて、何ごとか言わなければ、と、考えている。

 何ごとって。具体的に、何を?


――良い天気ですね、とか。

――一緒に食事をしませんか、とか。


 ずいぶん混乱していた。

 ただ、彼女と結婚を前提としたお付き合いに到る場合。――あのナイフが邪魔だ。あんなものがある限り、どうしても二人の仲は剣呑になってしまうのではないか?


「待て。落ち着け。冷静になれ。話し合おう」


 どちらかというと自分に言い聞かせるように、言葉を並べ立てる。


「何を今更……」


 少女の柳眉が、ぴくりと逆立つ。


「何か、……自分でも知らないうちに失礼なことをしたんなら、謝るから。とりあえず、それを仕舞ってくれ」


 とっさに思いついたにしては、そこそこ説得力のある台詞だ。

 必死の形相に、嘘が含まれていないことを悟ったのか、


「……ん?」


 少女の表情に迷いが生まれる。


「君、……ひょっとして“魔女”じゃない、……とか……?」

「はあ?」


 光久は首を傾げた。


「“魔女”?」


 これは何かのコントだろうか。

 色々ツッコミたいところはあるが。


「俺が女に見えるか?」


 とりあえず、もっとも身の潔白に繋がりそうな矛盾点を突く。


「でも。――”魔女”って、姿を変えられるって話よ」

「……なんだって?」


 どうやら彼女の常識は、光久の知らない領域を彷徨っているらしい。


「それにアイツ、たしかこっちの方に逃げたはずなんだけど……」


 今度は少女の方が困惑する番であった。

 光久も徐々に平静を取り戻しつつあって、この状況が、向こうの一方的な勘違いによるものだと気が付きつつある。


「あのさ……」


 何ごとか文句を言いかけた、次の瞬間であった。


『失礼、魔衣様』


 光久の耳元で、男の声が聞こえたかと思うと、


『悪党とのんびりおしゃべりする場合、もう少し優位に立ってからの方がよろしいかと』


 光久の首根っこを、何かが掴んだ。

 同時に、世界がくるりと反転する。

 気がついた時には、光久は地面に押さえつけられていた。


「――なッ!?」


 赤ん坊のように振り回されて、したたか胸を打つ。


「ちょっと! “ショートケーキ”……ッ」


 魔衣と呼ばれた少女が、非難の声を上げた。


 同時に、

『失礼。少し痺れます』

 紳士的な声が、耳元で囁く。


「やめ、」


 言い終える間もなく、耳元で、ぢっ! という、蝉の断末魔のような音がして。

 全身が、バネ仕掛けのように跳ねた。

 悲鳴を上げる余裕もなく。


 合原光久は、あっさりと昏倒した。

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