4.宵色の闇に滲みながら
少し休むといいと言われ、カティは一度意識を閉ざすことにする。
といっても、完全に閉ざすことは出来ない。遠くから、セドリックが浴びているシャワーの音が聞こえている。まるで雨のようだと思いながら、カティは闇の中に浮かんでいた。
考えるのは、件の殺人鬼の話。
愛する人を自らの手で死なせてしまって、壊れてしまった『魔人』の話。
人間は、かくも簡単にすべてを破壊できるのか。
そして――壊れてしまったものは、元に戻すことが出来るのか。
仮に戻れたとして、件の人は事実に耐えられるのだろうか。話を聞く限り、とてもそうは思えないほどに優しい男性のようだったし。最悪、今度こそ本当に壊れてしまうのではないか。
いっそ、その方が彼にとっては、楽なのかもしれないと思ったところで。
「ずいぶん安っぽい話だと思わないかい?」
髪をタオルで拭きながら、バスローブ姿のセドリックが戻ってくる。
水分を含んで、いつもは軽くはねるような癖のある髪が、しっとりとおとなしい。どことなく見た目の年齢が上がって見えて、カティはこの瞬間が一番ココロが落ち着かなくなった。
さらに、考えていたことをするりと読み取られ、ざわめきが増す。
カティが何を考えていたのか、彼にはお見通しらしい。
だが当然だ。カティ・ベルウェットのすべては、彼の手で作り上げられた。ボディこそ他者が作り出したものだが、細かい部分までいちいち注文をつけたとカティは知っている。
何より、カティという人格は、彼がその手で調律した。
物静かといわれる性格も。
ハデさを好まないところも。
全部、セドリックが作り出したもの。カティという個人が、望んで積み重ねて得たものなどほとんどない。生まれた時から、カティという存在はカティでしかなかった。
ヒトのように、長い時間を重ねて成熟させた精神と比べれば、このココロはきっとびっくりするほど薄っぺらいのだろう。だから、簡単に思考を読み取られてしまうのだ。
ましてや相手が製作者ならば、このココロの音色は筒抜けに違いない。
「勝手に妄想の世界を作り上げてそこに浸る。要するに現実逃避じゃないか」
「まぁ……確かにそうですが」
「大事なものを失った悲しみについては、同情するけどさ」
そこに至るまでについては笑うしかないよね、と。
セドリックはテーブルにある水差しの中身をコップに注ぐと、一気に飲み干す。
ふぅ、と一つ息を吐き出して、彼はカティに近づいた。
「そもそも、実験とは技術を高めるための作業だ。いうならば練習。それを愚かにも本番だと過信したその慢心が、彼から一番大切な存在を奪った。自業自得ってまさにこのことだね」
だってさ、とベッドに腰掛けた彼は続ける。
「普通に考えて、アタマの悪いやり方じゃないか。ぶっつけ本番とか」
「そう、でしょうか」
「例えば――モルモットと食料、ついでに諸々の処理係の半永久的な確保の為に、アルがどれだけの実験と犠牲を重ねたと思う? マルグリット一人のためだけに、アイツがどれだけの時間と犠牲を払ったと、カティは思っている? だから彼もさ、そうすればよかったんだ」
石橋は叩いて渡るべきさ、と彼は笑う。
命がかかるなら絶対に安全だと言い切れるまで、それ相応の犠牲を払うべきだと。
「ボクだって、カティを作り上げるまでに、いくつもコアを破壊したよ。自我もそうだ。けれど全部割り切ってやったこと。すべてはカティ、キミをボクの腕に抱くための生贄なんだよ」
「セドリック……」
「時間が足りないだの、自分たちだけでやり遂げるだの。それらは価値のない、実に愚かでくだらないエゴとプライドだ。そんなものに『殺された』彼女と、多くの被害者が、ボクは哀れで仕方がない。過信や自信は結構だが、それで失敗してたら笑い話にしかならないね」
ボクらは犠牲の上に成功を治めなければいけない、と魔人は語る。
そのために『叡智』を求め、ヒトであることを辞めた。与えられた時間は、ヒトよりは長いといっても永遠ではない。その身で出来ることは、ヒトを辞めてもなおも限られている。
ゆえにセドリックは、数多の実験を行う。
より強いコアを。
より高らかに響く音色の調律技術を。
貪欲に求め、得られた成果を本命に注ぐ。そこに至るまでに犠牲になったものは、たった一輪の花のための養分だ。欲しいものは一つだけ。ならば、それ以外は切り捨てなければ。
それを良しとしなかった件の殺人鬼は、甘いのだと彼は言いたいのだろうか。たった一つのために他を犠牲に出来ない甘さと優しさが、そのかけがえのない一つを失わせたと。
「彼は『魔人』になるべきではなかったんだろうね。あまりに不向きだ」
「不向き……ですか」
「まぁ、ボクも向いているとは言いがたい――というか、向いている人間なんて、きっと存在しないんだろうけどさ。それにしたって、件の彼はあまりにも、向いていなさ過ぎる。いかにヒトを逸脱した身であってもね、この腕に抱けるのはたった『一つ』だけなんだ」
その『一つ』を守るために、ありとあらゆる行為を。
それが闇に堕ちた彼らの行動原理。そもそも、その『一つ』のために、彼らはヒトであることを辞める場合がほとんどだから、むしろこれは魔人・魔女という『種族』の理だ。
それを出来なければ、彼らが手にした『叡智』はいとも簡単に裏切る。
摘み取った『叡智』により、一度は目にした希望。
その反動ともいうべき絶望は、彼らのすべてを破壊しつくすだろう。
話に聞くばかりだが、セドリックも一度は、そうなりかけた。彼の場合は、その一つを求めすぎたがため、挫折、あるいはスランプのような状態に陥っただけだと本人は語る。
だがセドリックは戻ってきた。
戻って、カティ・ベルウェットというドールを作り上げた。
創造主的にかなり人間らしくなっているそうだが、カティ自身はそう思わない。
ボディだけならば人間の身体に、かなり近くはなっていると思う。
けれど肝心の中身が伴わなければ、意味がない。
「確かに今のカティは、まだまだヒトと見紛うとはいえないかもしれない」
「……そう、ですよね」
「ならば、これからもボクは犠牲の上を歩くだけさ。たった一つの、他のすべてを失ってもかまわないと思えるキミを、この腕に抱きながら。いつかヒトと見紛う音色を手にするまで」
そのためなら、試作品のコアも、そこに含めた音色も自我も。
紙切れにも劣る価値しかないのだと。
言い切る主に、カティは何ともいえない気持ちになった。ヒトの心臓がある位置に埋め込まれたコアの――ココロの奥が、落ち着かないが悪くはないざわめきに満ちていく。
認めたくはなかった。
いくらセドリックにとって価値がなくとも、失われた犠牲は、ドールであるカティから見るとまぎれもない『存在』だったから。人間のように言うなら、彼らは確かに生きていた。
それらの犠牲の上に、躯の上に立つことが。
そこまでして求められていることが。
――嬉しいと、思うなんて。
そんなことを考える、なんてしたくないのに。
あぁ、でも稀代の人形師には、隠し事など出来ないようだ。
抱きしめられると、喜んで跳ね上がる心だって、きっとバレバレなのだろう。
「嬉しいなら、そう言っていいのに」
「……わたしはそんな、浅ましい振る舞いはしません」
カティを腕の中に収めて、セドリックは楽しそうに笑っている。カティは、口で文句を言いながらも動かない。逃げようと思えば逃げられるのに、静かにその身を委ねている。
本音を言えば、カティはこうされるのが好きだ。
セドリックに抱きしめられるのが、好きだ。
彼にコアの調律をされている間、人間で言う『睡眠』状態にある彼女は、決まって彼と一緒にいる夢を見る。ドールが見る夢は調律師に伝わるから、それは彼も知っているはずだ。
夢の中のカティはいつも、セドリックに抱きしめられている。
彼の傍にいて、幸せな気持ちに包まれている。
「ねぇ、カティ」
カティの黒髪を撫でながら、セドリックはつぶやく。
あぁ、こうして髪を梳かれるのもいい。
思いながら、カティはもぞりと動き、視線を上に向けた。セドリックの赤い瞳を、下から覗き込むように見上げる。そこに、ほんのわずかに憐憫が浮かんでいるのに、彼女は気づいた。
「彼の悪夢を終わらせるべきだと、キミは思うかい?」
「わたしには……判断できません」
現実逃避と言われようと、今の彼は充実しているだろう。相手の種類はともかく、彼には確固たる目標があって、それの為に行動することで一定の満足感を得ている。
何より、その手で最愛の人を死なせた、というおぞましい過去から開放されている。
要素だけを繋げば、今の彼は間違いなく『幸福』だろう。
けれど、セドリックは『悪夢』と呼んだ。
「悪夢じゃないか。だって彼は」
若き魔人は微笑む。
ベッドの上に寝転がり、腕の中に最愛のドールを抱く腕に力を込めて。
「恋人の死の真相を、知らないままでいるのだから」
■ □ ■
朝になり、昼が過ぎ、夕暮れを越えて。
――夜になった。
「さぁて、どこから来るんだか」
街角に立つセドリック。
比較的動きやすい格好をして、普段はピアスに擬態させている銃は腰に。
傍らには、先日と同じようにカティがいる。
マルグリットは物陰に潜み、殺人鬼の登場と同時に飛び出す作戦だ。ここは街灯が灯っているので明るく、彼らの髪や瞳の色はよく見える。マルグリットにも、気づくかもしれない。
「本当に、来るのでしょうか」
「来るさ……彼は、自分自身を殺したいんだから」
けれどそれを許せなくて、他者を自分に置き換えて殺戮をする。
それがあの殺人鬼の仕組みだ。
目の前に自分――『魔人』がいるとすれば、彼は間違いなく来る。
セドリックはそう言い、周囲に視線を巡らせていた。
明るく、人通りが少ない場所、時間を選び出すのに苦労はなかった。マルグリットが、事前にあれこれ調べていてくれたおかげである。あとは、相手が来ればいいだけだった。
その瞬間は、思ったよりも早く訪れる。
ざり、と音がした。
そちらを向くと、仮面の男が立っている。あの時はよく見えなかったが、おそらく毎回姿を変えるということはしないだろうから、今と同じ黒い外套に仮面、という感じなのだろう。
ゆらり、と男が前に進む。
同時にセドリックは銃を抜き、その銃口を男に向ける。
彼は――止まらない。ゆっくりと速度を上げて、こちらに迫ってくる。
「姿が見えれば、こっちのものだよ」
つぶやき、笑い、セドリックは引き金を引く。
狙いは足だ。マルグリットに、出来れば殺さないでほしい、といわれたから。ただその動きを少しでもいいから、止めてほしいと。面倒だなぁ、と言いながら、彼は約束を守る。
連続で二回、空気を震わす轟音が響いた。
命中こそしないが、男はわずかに動きを鈍らせた。マルグリットが負わせた傷で、あまり激しく動けないのかもしれない。けれど、なおも彼はセドリックに――魔人に迫ってくる。
カティは迷わず、セドリックに手を伸ばした。
あの時と同じように、彼をこの身で守るために。
だが。
「今度こそボクを殺す気かい、キミは」
低い声と共に、カティの行為は強引に止められる。今度も何も、このままだと死ぬのはセドリックだというのに。ドールのボディは取り替えられる。コアさえも複製できるのだ。
けれど人間は、魔人は、そう簡単にはいかない。
止められても強引に彼に抱きつこうと、二人の間に入ろうと。
カティはもがいて。
「もう充分ですわ」
そんな声と共に――黒い影が一つ、二人の間に割り込む。
声の主が彼女だと認識する前に、セドリックごとカティは後ろに吹っ飛んだ。
男が彼女にぶつかって、彼女がそのまま後ろに下がったからだ。そんな不意打ちのような状態でも、セドリックは当然のようにカティを腕に収め、守るようにして地面に転がる。
「――」
殺人鬼は、マルグリットを見て動きを止めた。だが無理もないだろうとカティは思う。深々と胸元にナイフを突き立てて、なおも優しく微笑まれたら、誰だって。
マルグリットの手が、男の頬に触れる。
瞬間――男が、びくりとその身体を振るわせた。
仮面の向こう側で、目が見開かれる。
「――」
何かをつぶやく。かすれた音をカティの耳は聞き取れない。至近距離に立つマルグリットには聞こえているのだろう。彼女は、少しだけ笑みの種類を変えたように見えた。
慈愛から、憐憫。
「マルグリット……」
男が、彼女の名前を呼んだ。
ずるり、とナイフが抜けていく。
彼の目にはもう、彼女しか見えていないようだ。何かを否定するように、ゆるゆると首を左右に振る。カティの耳に、どうして、そんな、という呟きがかすかに聞こえてきた。
男は、仮面をはずす。それなりに見目のいい素顔が晒された。
その眦に、涙のようなものが光る。
彼は自分に手を伸ばそうとするマルグリットから、ゆっくりと離れていった。彼女は男を追いかけようとするが、数歩前に進んだところで歩みを止めてしまう。
三人の前で、男は少しだけ笑っているようだった。
思わず追いかけようとしたカティを、セドリックは力で止める。
「……もう、いいのかい?」
カティの腕を掴んで、セドリックは言う。
その声で、カティは気づいた。気づいてしまった。彼女は、マルグリットは、事件の解決のために来たわけではないと。敵討ちなどただの建前で、本当は彼を――救おうとして。
だが、彼はそれを拒否しているようだ。
だからすぐには近寄れないところまで距離をとって、すべてを終わらせようとしている。
「いいんだね、これで」
繰り返されたその問いかけに、マルグリットは少しして、小さくうなづく。その視線の先では男が満足そうに微笑み、一つ息を吸い込んで、ナイフを己の左の胸に突き立てた。
彼は悲鳴も上げず、その動きは次第に小さくなっていく。
ゆっくりと、マルグリットは彼に近づいた。地面に崩れ落ちて、ほとんど動けない彼の血に濡れた手をそっと握る。何かを囁いているように見えたが、カティには聞き取れない。
その囁きが終わる頃には、もう彼は絶命していた。
遠目に、その表情は穏やかそうに見える。
「……さようなら」
動かなくなった殺人鬼。
傍らには黒を纏う、不死の女。
彼女はまるでその死を悼むように、静かに佇んでいた。
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