1.追跡者
かつ、かつ、かつ――音が路地裏に響く。
「はっ……っは、はぁ」
走り抜けるのは少女だ。まだ若い、華奢な十代の。
左右に分けて黒いリボンで結われた金色の髪は、動きにあわせて毛先を躍らせる。赤い瞳を恐怖で潤ませ、彼女はひたすら走った。出口を求めて、救いを求めて。
背後からはかすかな足音。彼女を追いかける影。
どうして、という言葉を彼女――ミュイルは、何度も頭の中でつぶやいた。足はすでに痛みさえ感じるほど疲れ、今すぐにでも休めるものなら休んでしまいたい。
けれど背後に迫るそれは、彼女の休息を許さないだろう。
だからミュイルは、ひたすら前を目指した。
走り続けた。
この危機を乗り切った、その先にある夢のためにも。彼女には、こんなところですべてを閉ざされるわけにはいかなかったから。それがどんな高みでも、その手を伸ばし掴むために。
ミュイルは、舞台女優になりたい少女だった。
幼い頃に両親と見た、ある舞台に身も心も魅せられてしまったから。自分も、あんな華やかで誰かに影響を残せるような存在になりたくて、あの舞台に立ってみたいと思ったのだ。
憧れの舞台、憧れの場所。
そこに立ちたくて劇場に就職したのは、今から半年前のことになる。劇場にはお抱えの劇団があって、ミュイルはいつかそこに入れるように、まずは劇場に就職したのだ。
本当は今すぐにでも劇団に入りたいが、親がどうしてもそれを許さない。どうにか説得を繰り返して手に入れた場所。それも両親からすると、憧れを消し去るためのものなのだろう。
すぐ傍で見れば、中途半端な憧れなど消えてしまうだろう、という。
中途半端、と決め付けられたことは悔しかった。けれどそう思わせたのは、きっと自分の態度が言葉だったのだろうとも自覚している。ならばこれから、本気を見せ付ければいい。
そう思ったのは、就職してすぐのこと。
実家を離れて寮に入り、一人になって彼女は誓った。
いつか必ず、と。
仕事の合間に役者の振る舞いを観察して、家でこっそりと練習をする。どうやれば優美そうに見えるのか、賢そうに見えるのか、妖艶に見えるのか。一つ一つ、ミュイルは吸収する。
時には男性の演技も参考にした。男性的な女性、という役だってこなせるように。役者のみならずありとあらゆる存在を、観察して、分析して、いつか立つ舞台のために記憶した。
いつか、あの華やかな舞台に立ってみたい。
舞台女優になりたい。
そんな、小さくささやかな夢を抱えて、がんばってきた。
ただそれだけを願っていたのに、どうして自分はこんなことになっているんだろう。劇場から頼まれたものを、町の店に注文して回っただけだ。衣装の布や、セットに使う材料で足りなくなったものを注文して、劇場まで届けてくれるように頼んで回っただけの下働きだ。
実家もごく普通の一般家庭。
舞台の袖にすら立たず、特別金持ちというわけでもない自分に、薄暗い上に臭いもそれなりにキツい場所に耐えてまで追いかける価値など、どこにもあるはずがないというのに。
なのに、どうして追いかけてくるんだろう。
どこまでも、どこまでも。
彼女の背後を、足音がついてきた。
いっそ幻聴だったらいいのに、ミュイルは足音に身体が伴っていることを知っている。店の前でばったりと遭遇し、ぶつかりそうになったので軽く会釈して別れた見知らぬ青年。
それが靴音の主の姿だ。
店の前から追跡し、路地裏に入り込んでもなお歩みを止めず、走れば走る。そこまでして追いかけてくるような存在が、追いついたらそのままなんて……いくら子供でも考えない。
この辺り、いやこの町は比較的平穏な場所だった。
犯罪らしい犯罪もなく、劇場と演劇を愛する人々が静かに暮らしているだけの場所。もちろん物騒な事件が一件もない、というわけじゃないけど、何十年も前の話だ。
少なくとも、ミュイルの記憶にそんな事件はない。
遠くの都で起きた事件に、震え上がる程度だ。
ミュイルが置かれている異常な状態だって、噂にも聞かない。時々、変質者の話や注意をそれなりに聞くけれど、こんなにしつこい相手だなんて話は誰も言っていなかった。
もしも、追いかけてくる足音に追いつかれたら、どうなるのだろう。
いや、そんなのわかりきっていた。
これほど執拗に追いかけてくるのだから、それなりに強い目的があるに決まっている。金があるようには見えないだろうから、きっと目当ては自分の身体だ。いや、それだけならもう手を引いているだろう。だとするともっとまずい。乱暴以外の強い目的なんて、一つしかない。
だって金も身体でもないなら、残ったのは命だけ。
店の入り口で遭遇した時、決してぶつかったわけではない。けれど、彼はそうなったこと自体が気に入らなかったのだろうか。だから謝って欲しくて、こうして追いかけてきて。
だったら足を止めればすむことなのに、ミュイルの足は止まらない。
ちらりと振り返って見た彼の表情に、心が恐怖を叫んだから。生きたヒトのものとは思えないほどに無に包まれた表情は、勉強で人間観察をしてきた彼女でも見たことが無かった。
あの青年は謝罪してほしいわけじゃない。
捕まったら、きっと良くない。
「こ、な、こない、で……っ」
苦しみの中で、ミュイルはか細い声を――悲鳴を零す。
まだ、女優にすらなっていないのに、こんな終わりが来るなんて思わなかった。
イヤだ、こんなところで死にたくない。まだ死にたくない。諦めたくない。
夢が、まだ手も伸ばさないままなんて――。
イヤだ、という音が喉から出た瞬間、ミュイルの視界がぐらりと傾く。あ、と思った時には彼女の身体は制御を失い、地面の上を転がっていた。かばうように伸ばした腕に痛みが走る。
「……った」
這うように前に進む。身体が思うように動かない。ずっと張り詰めていた糸が、転んでしまったことで千切れたかのようだ。まともに動くのは指先だけ。頭の中も混乱の海に沈む。
ざり、とすぐ傍で音がした。
ずっと聞いていた、あの足音だった。
背後に、あの青年が立っている。今となっては恐怖しか感じない表情しか思い出せない、追跡者に追いつかれてしまった。もっとも望んでいなかった展開に、ミュイルは嗚咽を漏らす。
髪を掴まれて、強引に上体を引き起こされた。
けれどうつぶせになっているから、背中を大きくそらせるだけ。痛みに呻く彼女などどうでもいいと言わんばかりに、青年はひたすら髪を引く。痛いなら勝手に起きろ、ということか。
けれど全身から力が抜けたミュイルには、もう目を開けていることさえもできない。
それに、どうせ殺されるのだろう。
だったら何をしても、従順にしても、意味など無いように思えた。
「おっと、そこまでだよ」
そこに――声がした。
聴いた記憶のない、少年のような高さのある、青年のように凛とした声だ。かすかに聞こえるのは、彼が歩いてくる音だろうか。髪を離されて、成す統べなく地面に突っ伏すミュイルには何も分からない。ただ、どうやら少しだけ寿命が延びたらしいことだけは、わかった。
うっすらと開く視界に見える、見知らぬ足元。
引きずりそうなほどに、丈の長い――余り気味のコートのすそ。
二人の青年は、ミュイルを挟んで向かい合っているようだ。
それを認識した辺りで、ミュイルはゆっくりと意識をどこかに引きずられる。次に目を覚ますことができたらいいのにと思いながら、彼女はずっと引き寄せていた意識を手放した。
■ □ ■
ミュイルが目を開くと、そこは見慣れた劇場の控え室だった。控え室、といっても半分物置のような状態で、主に劇場の職員が休憩したり仮眠を取ったりするための場所である。
運び込まれたボロいベッドの上に、ミュイルは寝かされていた。
「……あれ?」
一瞬どうなっているのかわからず、周囲に視線を向ける。ついでに頬を軽くつねる。ここは間違いなくあの休憩室だし、つねられた頬はツキンとした痛みを頭に伝えた。
だから、これは現実。
じゃあ……あれは夢だったのだろうか。
いや、夢だったに違いない。見ず知らずの相手にあんなに追いかけられて、まるで演劇のように危ないところを助けられるなんて、庶民である自分の身に起こるわけがないのだから。
助けてくれた誰かがよく見えなかったのだって、きっと夢だから。
少しだけ残念に思っていると、部屋の扉が開閉する音がした。
「あぁ、気がついたのねミュイル」
現れたのは同僚のキーラ。ミュイルより一つ年上の、実に気の会う友人だ。彼女は手に着替えらしき衣類を手にしている。これから、脚本家をしている恋人と帰るのだろうか。
けれどキーラは、その服をミュイルに差し出す。
「はい、これに着替えて」
「……え?」
「だって、デロデロに汚れてるもの。洗うから脱いじゃってよ」
「よごれ……?」
言われて、ミュイルは自分の身体を見下ろし、絶句した。
キーラの言うとおり、衣服は黒く薄汚れていたからだ。認識した瞬間、自分の衣服であるにもかかわらず、嫌悪感がこみ上げるほど。慌ててボタンをはずし、服を脱いで下着姿になる。
途中、服に髪が引っかかったのだが、いつもよりも痛みがキツく感じられた。その痛みで改めてミュイルは思う。あれは――少し良くない夢じゃ、なかったのだ。
実際に、自分は変な誰かに追いかけられ。
そして見知らぬ誰かに救われた。
夢だと思っていた、思いたかったものは、全部現実。
「ったく、変質者に追いかけられたら、路地裏じゃなくて店に逃げ込みなさい」
「う……ん」
そうだね、と返すのが精一杯だった。
確かに、あの時の自分の判断は、良かったとは言いがたい。けれど、それは相手が普通の人間だった場合だ。あの相手は、仮に店などに逃げ込んでも追いかけてきただろう。
あの界隈でミュイルは馴染みの一人になっているので、きっと店主や、居合わせたお客は自分を助けてくれたと思う。けれど――それでもあの青年は、追跡を止めなかっただろう。
そうなると、ケガ人は必ず出た。
じゃあ、やっぱり路地裏に逃げ込んだのは……正解だった、と思う。
確かに『助け』は欲しかったけど、誰かを犠牲にするようなことは望まない。
たとえその非常さを必要とされる世界に立つことを、望んでも。
「……優しいわねぇ、甘すぎってぐらい」
「わかってる……よ」
「それだから、きっとご両親は役者になるのを反対したのよ。あたしが見てても心配になるぐらいだもの。ミュイルは優しすぎる。とても、あの世界で生きていけるようには思えないわ」
「……うん」
「あたしは夢を追いかけるのを、悪いことだとは思わない。でもね、人には向き不向きってヤツがあると思うわけ。ミュイルは劇場勤務はできても、舞台に立つのはたぶん……いや絶対に無理だと思う。立つだけならできるだろうけど、きっと後で潰されるわよ」
あたしみたいに、と小さな声で付け足される言葉。
キーラは昔、女優になりたかったと聞いた。けれど緊張すると発作を起こすようになり、結局夢は叶わずに終わり。今は、夢を追いかける恋人を、そっと支えている。
そんな彼女だからこそ――ミュイルを説得するのだろう。
ミュイルも自分のように、あの華やか過ぎる世界には向いていないのだからと。優しいのは彼女も同じだ。互いに優しすぎる。だけどミュイルは、それでも諦めきれていなかった。
行けるところまで、這ってでも進みたい。
その先が夢の終焉や絶望で、心に傷を負うことになったとしても、だ。
「頑固ね」
キーラは苦笑し、ミュイルの頭をそっとなでる。
ともかくこれを着なさい、と彼女が差し出した服は、どうやら衣装らしい。
色落ちしたり縫い目がほつれたところがあるから、おそらく古くなって今はもう使われていたものなのだろう。清楚そうな色合いの、品のいいメイドが着用するような衣服だ。
ミュイルが脱ぎ捨てた服を抱え、キーラは苦笑する。
「例の男の子に感謝なさい。ロビーにいるからお礼言ってきなさいな」
あなたを背負って運んでくれたんだから、と彼女は笑って、そして去っていった。
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