第5話 愛のベクトル
中学二年生だった頃の金江翔真は今と比べるべくもない人間だった。
気弱で、内気で、引っ込み思案で、長めの前髪で目元を隠す姿は陰鬱な印象を与えたせいか小学校でもイジメられており、中学へ入学しても同じ小学校を卒業した同学年の男子生徒たちにそれをネタにからかわれるような子であった。
最初はちょっと馬鹿にするだけだったのが段々エスカレートし、最後の方は暴力を平然と振るわれるほどであったが、その臆病な性格もあってかイジメの事実を家族や教師に相談出来ずに一人悩んでいた。
だが転機が来たのが夏休みの前、一人の女子生徒によって助けられることだ。それは以前セリが聞いた自分と翔真が初めて会ったあの出来事である。それから酷かったイジメが驚くほどなくなったことも相まって、セリは翔真にとってヒーローのような、偉大な神様のような存在に思えるほどだった。
その後、翔真はもう二度とイジメられないよう見た目を変える努力をし、人と接することで少しずつ性格を矯正すると、セリの後を追って同じ高校、大学と上がっていった。
そこまでは翔真もまだ今の事件を起こすつもりは毛頭なかった。
「でもね、宮坂先輩と綾部さんのせいで狂っちゃったんだ」
剣道サークルに入った金江は宮坂栄祐と出会った。自分が望む理想像を具現化したような先輩に羨望と劣等を感じていたが、それでも最初は尊敬の念が強かったらしい。
「だけど先輩がある日突然こう言ったんだよ。‘いつも同じ駅を使ってるあの子が可愛い、好きかもしれない’って。それがセリさんのことだって僕にはすぐ分かった。だって僕と同じで宮坂先輩もセリさんをいつも目で追いかけていたからね」
その時、翔真は初めてセリに感じていた強い感情が恋なのだと思い知った。
同時にもしも自分が告白しても、同じように宮坂栄祐が告白したら勝てないだろうことも分かっていた。どれほど頑張っても翔真は宮坂栄祐の劣化版にしかなれなかったのだ。
毎日毎日朝の登校時に遠くから熱心にセリを見つめる宮坂の存在が、その痛いほど理解出来る恋心が翔真にとっては恐ろしく、またどうしようもなく疎ましくなっていった。
「そんな時に宮坂先輩がセリさんを好きだってことを綾部さんが知って、また前みたいにイジメてしまおうって他の女子と言っているのを聞いて、何とかしなきゃって思ったよ」
セリや他の子たちが高校の頃に綾部から一時的にせよイジメを受けていたという話は女子たちの中では結構有名であったが、女子と関わることの少ない翔真はそれを知らず、その程度も聞いていなかったので自分と同じものを想像した。
何とかセリへ攻撃させないためにどうすれば良いか考え、その根源がいなくなれば二度とイジメなど起こらなくなるだろうという結論に至る。
ついでに言えば綾部麻美は一度宮坂栄祐に告白してフラれている。それはプライドの高い綾部への配慮なのかほとんど知られていないことだが、以前宮坂本人から聞いていたことを思い出した翔真はゾッとした。必ずイジメは酷いものになるだろう。
だから人目がない一人の時を狙って綾部に声をかけた。
「宮坂先輩が放課後一人で中庭に来てほしいと言っていた」
そう言うだけで綾部は目の色を変えてノコノコやって来た。
用務員の桑原が月曜日は宿直をしないことも下調べ済みだった。
時々セリたちで話し合いに使っていた、あの中庭の死角へ誘い込み気を許したところで一度首を絞めて気絶させ、第二旧校舎の地下室――ここは図書室でこの大学の古い見取り図を見たことがあったので前々から知っていたそうだ――へ運び、そこでもう一度首を絞めて殺した。絞殺に使ったのは校内にあった立ち入り禁止などに使う黒と黄色の紐だった。
翔真は一度帰宅し、教師が帰って人のいなくなる夜まで準備を整えて待ち、必要なバケツやノコギリを改めて鍵を壊してあった倉庫から拝借して校舎へ忍び込み、地下室へ行く。
綾部麻美の死体から身元に繋がりそうなものを剥いで首を切断する。校舎に侵入した時から医療用のゴム手袋をつけ、靴は計画を考えてすぐに裏側を削ったらしい。
邪魔者を一人消したことに満足すると共に、死体の処理に困った。
山へ埋めるにしても、運び出すだけでかなりの危険が伴うだろう。
そこで翔真は今回の一件を思いついた。もう一人の邪魔な宮坂も殺し、誰かに罪をなすりつけ、捨てるのに困る死体の処理は警察にしてもらう。
好きだったギリシャ神話が頭を過ぎり、それになぞらえてやれば事件性を関連付けられると考えた翔真は倉庫から植物を整えるために使われていた針金を持ってきて、それで綾部の長い髪を固めてメデューサのようにした。
写真を撮って地下室を出ると用務員室へ向かう。一応人がいないことを確認して、撮ったばかりの画像を机にあったパソコンの使っていなさそうなファイルへ紛れ込ませた。
翌日は何食わぬ顔で大学へ来て、同じ学科の人に聞いてセリのアドレスを入手すると、夜に海外サーバーをいくつも経由させたフリーメールアドレスで画像を送り付けた。
「その時はもう大丈夫って意味も込めて送ったんだけど、今思えばあれじゃあセリさんを怖がらせただけだったよね。きちんと説明文も入れるべきだったかな」
翔真は初めて苦い表情を見せたものの、すぐに微笑でそれを覆い隠す。
翌日もメールを送り、警察に話が行くようにして、様子を見守った。
一週間ほど経ってほとぼりが冷めた頃に今度は宮坂を殺した。
手口は至って単純。ただ後ろから押しただけだ。毎日通っている場所なのでカメラの位置は把握してあったし、人混みの中では見えないだろう腰から下の位置を電車がホームに入るタイミングで押した。宮坂は何の抵抗もなく線路に落ちて轢かれて死んだ。
「カメラに写ったかもしれないって内心冷や冷やしたけど、刑事さんの様子をみて写ってなかったって気付いたよ。それに良い意味の誤算でセリさんに近付けたしね」
あの時、セリへ声をかけたのは偶然ではなかったということだ。
他にも同じ学校の生徒がいた中で、思えば翔真は迷うことなくセリへ駆け寄った。
「じゃあ二十七日のことは?」
「あれは本当に偶然だよ。出かけていたらセリさんと湯川さんを見かけて、声をかけようと追いかけたらあの二人が君たち二人をナンパしようとしてたんだ」
「……それだけ?」
「うん、それだけ。でも僕にとっては酷く不愉快だった」
セリたちの後を追いながら工事中の場所を探し、途中で道を先回りしてナンパしようとした二人組みへ鉄パイプを押し倒せばいいだけだ。これは二人組みの歩くタイミングが関係してくるのでセリにメールを送ることで調整したらしい。
それで三件目の時だけカウントダウンがあったのだろう。
「本来は綾部さんと宮坂先輩だけで終わるはずだったんだけどね」
それで殺し切れなかったため、すぐに翔真は行動を起こした。
近くの店で看護士が着ているものによく似た服と注射器、塩酸、睡眠薬を買い、その日は水に塩酸と睡眠薬をありったけ溶かす作業を行う。
翌二十八日、その液体と注射器、看護士の服を持って病院へ行った。トイレで着替え、警察の目を誤魔化して部屋に侵入し、榎本の点滴に液体を混ぜた。波瀬は丁度一人でいたので、こちらも看護士のふりをして屋上にでも出て気分転換してはどうかと声をかけて向かわせ、こっそり後を追って屋上から突き落とした。
「でも安岡先輩は想定外だったかな」
昨日の夜、安岡先輩に犯人だってバレて仕方なく殺したんだ。と、翔真が続けた。
六時半頃に電話があったそうだ。用件は言われなかったものの、電話越しにそれまでとは違う妙に緊張した様子を感じ取った金江は自分が犯人だと疑われていることにピンときた。誤魔化すことを考えながらも、一方で殺すことも考慮していたそうだ。
七時に日比野(ひびの)公園で待ち合わせをして、人気のない遊歩道へ翔真は誘導する。
それに気付かないまま安岡はこう切り出した。
「まず駅でのことから少し疑問があった。調べたが他にも同じ大学や学科の生徒がいたはずなのに、何故矢島君にのみ声をかけたのか。次に矢島君に関する噂に対して君が欠片も信じていない様子だったのが気にかかった。湯川君のような親友ならともかく、君のような親しくなったばかりという立場なら矢島君を疑っていても可笑しくないはずにも関わらず、むしろありえないと言いたげに噂を否定していたからな」
盲点だった。まさかそんなところを突いてくるとはと思わず内心で笑った。
それを億尾にも出さずに翔真は視線を地面へ落とす。
「それはその、セリさんが好きだったので彼女はそんなことしないと思っただけです」
翔真の言葉に安岡は心得ている風に頷く。
「そう言われると思っていた。だからあえて指摘するが、一番引っかかったのはリストだ。綾部麻美とはクラスメイトであり、宮坂栄祐とは同じサークルであったにも関わらず君の名前がない。無意識に容疑から逃れようと自分の名前を除外してしまったのではないか?」
言われて、そういえば書いていないことに気付く。
恐らく彼の言う通り全て無意識下での行動だったに違いない。
「そうだとしても、動機はなんです?」
そう問うた翔真に安岡は少々居心地悪げに言う。
「君が先ほど言った、矢島君を好いていることだ。君が自身をギリシャ神話のペルセウスに例えたのは、彼が母や後の妻となる女性を慈しむ気持ちから敵を討ち取った点を快く感じていたからではないだろうか。矢島セリをイジメた綾部は恐ろしい怪物・メデューサ、これは憶測だが宮坂は矢島君に好意を持っていたのではないか?それが君からすれば横取りしようとするポリュデクテースに見えた。ピーネウスも多分似たような理由で怪我を負わ、そして殺した。……もしオレの仮説が間違っているなら訂正してくれ。その時は君に心から謝罪する」
「……いえ、まったくその通りですよ」
翔真は安岡の慧眼に一種の感動すら覚えていた。
自分のこの抑え切れない感情と衝動を冷静に分析して辿り着いたことに、賞賛の言葉すら投げかけてもいいと思うくらい、深い驚きと理解してもらえた喜びを感じていた。
安岡に自首を勧められたが翔真はそのつもりはなかった。
捕まってしまえばセリと会う機会が減ってしまう。もしかしたら二度と会えなくなるかもしれない。そんなことは到底許容出来るはずがなかった。
だから隠し持っていたナイフで安岡を刺し、死を確認してから立ち去った。
しかし本当のところはもう捕まることは覚悟の上だった。
安岡と連絡する際に自身の携帯の通話履歴が残ってしまっているし、例え携帯本体の履歴を消しても会社側が調べればすぐに履歴など洗い出せる。それに安岡が自宅に翔真が犯人であると警察に伝える何かを残しているとも限らない。
「じゃあ、どうして安岡先輩を殺したの?」
翔真は笑った。屈託のない笑顔だった。
「僕の気持ちは僕だけのものだ。先輩の推理はすごかったし、感心もしたけれど、同時に怒りも覚えたよ。何も知らないくせに理解したような口を利くなってね」
だがそんなことを言う翔真は怒っているというより、拗ねているように見えた。
すぐに肩を竦めてその表情を消した翔真が口を開く。
「セリさんから刑事さんが来るって聞いて、ああついにバレたかって思った。殺人の件に関しては最初からバレたら誤魔化したり否定したりする気はなかったし」
机の上で両手を祈るように組んだ翔真が言う。
「さて、以上が僕の話です。聞きたいことがあれば何なりと答えますが、それは全てセリさんが立ち会うのが条件です。聴取でも裁判でも、それ以外で答える気はありません」
それだけ言って本当に翔真は貝のように口を閉ざしてしまった。
セリは目の前にいる人物をただ見つめていた。
翔真もまた、もう隠す必要のなくなった熱い視線をセリへ注いでいる。
‘ペルセウス、彼のその真髄はまさしく矢島セリにある’
安岡が何故そんな言葉を残したのか今なら分かる。
「ねえ、翔真君。わたしのこと、好きなの?」
震える声で問うセリに金江は静かな声で答えた。
「うん、君を愛している。君だけが良くて、君だけがほしいんだ」
ぽたりと簡素な机に雫が落ちる。
ひとつ、ふたつと落ちたそれに翔真が目を見開く。
「わたしもね、好きだよ。好きになってたんだよ」
好きになった人が、自分を愛するが故に殺人を犯した。
その事実を知ってセリは耐え切れずに泣き出した。
手錠で繋がれた両手が伸びてきてセリの頬を伝う涙を拭う。その手を掴んで縋り付くように、その存在を確かめるように、離したくなくて両手で握って額に押し当てる。
「言えば良かったんだよ。殺すんじゃなくて、言ってくれたら良かったのに……」
綾部にイジメられそうになっていたことも、宮坂に好意を持たれていたことも、翔真がセリを愛していることも。全て話して別の道を模索していたら、きっともっと明るくて違った未来があったかもしれないのに、彼は自らその道を閉ざしてしまったのだ。
「言ったら僕と付き合ってくれた?」
「……わからない。でも、少なくとも今よりずっと仲良くなれたと思う」
現にセリは翔真とほんの僅かな期間、一緒にいただけなのに好きになっていた。
逆にもしも宮坂に告白されていたとしても、人気が高くて目立つ相手は嫌いだったので、何を言われても断っていただろうことは想像に難くない。
そう言えば翔真はセリの手を握り返して一言謝った。
「ごめんね」
それは何に対しての謝罪だったのか、セリには分からなかった。
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