Pの恋情
早瀬黒絵
プロローグ
家の固定電話が鳴り響く音がする。
帰ってきて早々のそれに少し鬱陶しい気持ちになった。
しかし間が悪いことに母は買い物にでも出かけているのか家に居らず、自分以外に出られる者はいないようだ。昔から相手の顔が見えない電話は嫌いである。
「はい、もしもし、矢島(やじま)です」
仕方なしに受話器を取る。
「もしもし、友浦(ともうら)と申しますがセリさんはご在宅でしょうか」
酒で焼けたのか煙草で焼けたのか、ややしゃがれた懐かしいダミ声に驚いた。
もう一年近く耳にしていなかった人物の声は硬い。
「セリです、こんにちは」
「ああ、なんだお嬢ちゃんか。声が大人びてて分からなかった」
お世辞とも本音とも取れる溜め息交じりの声は硬いままである。
ちらと時計を見ればまだ夕方の五時前で、仕事を終えるには幾分早い時間の電話に内心で小首を傾げながらも受話器を持ち直す。
「お久しぶりです、何か御用ですか?」
こちらの単刀直入な問いに向こう側で苦い声がする。
「変わらねえなあ」
しみじみと何かを噛み締めるような言葉だ。
続いて本題だろうことを述べた。
「今日、アイツの刑が執行された」
がつん、と頭を殴りつけられたように脳内に声が届く。
……執行された? 死んだってこと?
生唾を飲み込み、早鐘を打つ心臓を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。今にも口から飛び出しそうなくらい暴れていた鼓動が落ち着いた頃に電話口の相手へ聞く。
「何時頃だったか分かりますか?」
「正午前だったらしい。火葬も済んでもう今頃は無縁仏として埋葬されてるかもな」
「……そうですか」
自分でも驚くほどいつもと変わらない声が漏れる。
今日は午前中何をして過ごしていただろうか、なんて思い出す余裕すらあった。朝起きて大学へ行って、講義をいくつか受けたら昼食を食べて、そうしてまた講義を受けてつい先ほど家に帰ってきたばかりだ。
ダミ声が告げる住所をメモ帳に書き留める。
「ご連絡ありがとうございました」
受話器を電話機へ戻す。
震える手を離して胸元で合わせるように両手を握る。血の気の引いた指先は冷え切り、擦り合わせて温めても震えはまったく治まらなかった。
あの人とはつい一月前に会ったばかりだった。
あの時には既に自分の命の短さを知っていたのだろうか。
思わずその場に蹲り、握り拳を額に押し当てる。熱い頭を冷やすように手のひらを広げて顔を覆えば涙が溢(あふ)れ出し、拭いきれなかったものが膝の上に落ちていく。はたはた、はたはた。悲しくて泣いているのか、ホッとして泣いているのか分からない。
でも何か耐え切れない感情が溢れてきて心が引き裂かれそうに痛む。
今でも鮮明に覚えている二年前の今頃。
まだ大学に入ったばかりの自分は忘れられない事件に巻き込まれたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます