空も飛べるはず

「目覚めよ」


 その看板に気付いたのは四日前。ビルの屋上にある巨大なパネル。白地に黒の明朝体で、その一言だけが書いてある。

 いったい誰に向けた言葉なのか、何に目覚めればいいのかさっぱりわからない。「起きろ」という意味ならば、看書いたところで寝ている人には見えはしない。会社の行き帰りに立ち止まっては看板を見上げ、首をひねった。


「宗教よ、きっと」

 昼休み、同期の花ちゃんはさらりと答えた。

「そんな名前の小冊子を配ってる人たちを見たことあるわ」

 花ちゃんが言うならそうなのだろう。花ちゃんはなんでも知っている。

疑問に一応の解決はついた。けれど私はやはり通りかかりに看板を見上げてしまう。


「アニメは好きですか」

 突然話しかけられた。振り返ると白髪の紳士然とした男性が立っていた。

「アニメは好きですか」

 繰り返された質問に首をひねる。小さい頃は好きだったけれど、今は好きかどうかわからない。そもそもアニメを見ることがない。

「アニメはいいものですよ」

 言うと紳士は看板を指差した。私が看板に目をとられている隙に紳士の姿は消えていた。

 アニメに目覚めよという意味なのだろうか。


「そういうタイトルのアニメが始まるんじゃない?その宣伝なのよ」

 昼休み、花ちゃんが言った。花ちゃんが言うならそうなのだろう。花ちゃんはなんでも知っている。

 夕焼けの真っ赤な空に白と黒の看板が映える。そこから何かが始まりそうな心踊る力を感じる。


「アニメは好きですか」

 いつの間にか隣に立っていた紳士が問う。

さてどうだろう。はたしてアニメを好きと言えるだろうか。考えていると紳士は言葉をついだ。

「アニメは良いものです。すべてがある。夢、希望、愛、未来、そしてあなたがいる」

 なぜそこで自分が出てきたか分からず首をひねる。

「あなたに絶望はない。なぜならこのアニメの主人公はあなただからです」

 そう言うと紳士は看板を指差した。私が看板に目をとられている隙に紳士は消えていた。


「誰でも人生という名のドラマの主人公なのよ」

 昼休み、花ちゃんが言った。花ちゃんが言うならそうなのだろう。良い言葉だ。

「でもそのドラマがアニメなら」

 花ちゃんはお弁当から顔をあげるとはっきりと目を見て断言する。

「空だって飛べるはずよ」


 ビルの屋上に上った。夕焼けの逆光になった看板はいつもより暗い。黒い文字はさらに黒々と説得力を持っている。

「アニメは好きですか」

 隣に立った紳士が問う。

「空を飛びたいんじゃない?」

 花ちゃんが問う。

「目覚めよ」

 看板が黒々と説く。

 ビルの縁、手すりを乗り越え下をのぞきこむ。車がおもちゃのようだ。人がマッチ棒のようだ。まるでクレイアニメのようだ。背中に羽が生えたような気がした。


 一歩を踏み出した。


「アニメは好きですか」


 背中で紳士の声がする。


「アニメにはなんでもある。赤ん坊も老人も青春も諦念も生も。もちろん、死も」


 背中で花ちゃんの声がする。


「空だって飛べるはずよ」


 落ちる瞬間、振り返った私の目に看板が囁く。


「目覚めよ」


 なにから?あるいはなにに?


 私は静かに落ちていった。

 そして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る