うすら明るい水の底に

「あ、亀がいるよ!お父さん!」

 息子が指差した先に、小さな池があった。柵で囲まれて菖蒲の葉が繁っている。その池の端に、なにやら黒っぽい丸いものが浮かんでいる。一見、亀のようにも見えるが、それにしては大きい気がする。

「見に行こうよう」

 息子に手を引っ張られ池のそばまで歩く。丸いものは、私たちの足音に気づいたのか、とぷんと水の中に沈んだ。

「あー。いなくなっちゃった」

 息子が走って池の端に走り寄り、柵から顔をつき出して池をのぞきこんだ。途端、火がついたように泣き出した。

「どうした!?」

 息子は駆け寄った私の首に抱きつき泣き続ける。私は水の中をのぞきこんだ。


 目があった。


 うっすらと明るい水の底に女性が沈んでいた。濁った目で私を睨んでいる。ゆらゆらと揺れる髪は長く水面に届き、今にも私の足を絡めとりそうに思えた。私は息子を抱いて走って逃げた。


 その後、池の近くには近づいていない。息子はすぐに忘れたようで、すぐに明るく笑いだした。


「パパ、亀がいるよ!」

 息子が川に走っていく。私は一瞬躊躇して、しかし明るい息子の背中を追って川べりに近づく。おそるおそる川をのぞく。そこにはのんびりと甲羅干しをする亀がいるだけだ。私はほっと息を吐く。

 あれ以来、ついぞ濁った瞳には、出会わない。きっとあれは幻を見たのだ。安心して歩き出そうとした私の視界に、なにか丸いものが映った。それに視線が合う前に、とぷん、とそれは水に沈んだ。

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