輪廻
怒声。
悲鳴。
割れる音。
赤ん坊の叫び声。
今夜も壁の向こうから聞こえてくる。
俺は壁に背を向け、眠りにつく。
その人はいつも扉の前に立っている。
まだ小さな赤ん坊を抱いて、その瞳には何も映っていないかのように。
俺は無言で通り過ぎる。会社へ行くとき、家へ帰るとき、そこに何もないようなそぶりで、通り過ぎる。
怒声。
悲鳴。
割れる音。
赤ん坊の叫び声。
毎夜、繰り返される日常。
俺は壁に背を向け、眠りにつく。
夜が長くなった。会社から出る時には影も見えないほど暗く、寒さは両の手をしびれさせる。コートのポケットに手をつっこみ、歩きだす。街灯、車のヘッドライト、ビルから漏れる明かり。星は見えない。星を見なくなってどれほどたつだろうか。田舎では毎夜、飽きるほどの星を見ていた。あの明かりは今もあそこにはあるのだろうか。それともすでに幻なのだろうか。
その人は今日も扉の前に立っていた。
素足にサンダルをひっかけ、薄いトレーナー一枚。赤ん坊をくるむ布もひらひらと冷たい。思わず、立ち止まる。
どうしてだろう。星のことなど考えたからだろうか。俺がじっと見ていると、その人はゆるゆると首を動かし俺のほうを見た。その目は何かを映しているのだろうか? 俺は軽く会釈した。その人は目を伏せた。俺はそのまま部屋に入った。
アパートに残っているのは俺と隣室の人間だけだ。取り壊しが決まったここに、すがり付いているのは。俺には時間がなく、隣室の住人は行くところがないのかもしれない。
今夜はなぜか静かだ。
人の気配が感じられないアパートは鬱陶しいほど無音だ。いつも背を向ける壁に向かって座わる。壁の向こうに、その人はいるのだろうか。それともまだ扉の外に立っているのだろうか。何かを待つのに倦んだような、何も映さない瞳で。
退屈な仕事だ。電話をかけ、カモを探し、到底価値などないガラクタを売りつける。一日、十三時間それを繰り替えす。それだけだ。なにも変わらない。まるで何かの呪いのように、ぐるぐると同じところを廻り続ける。
夜がもっとも長い日、雪が降った。初雪。ただ、それだけだ。日々寒さが増していく。このアパートは今年いっぱいで取り壊される。その時が来たら、なけなしの家具と共に追い出され、俺は雪に埋もれて見えなくなる。そういう予定だ。
あの人を見ない。
あの人も雪の中、埋もれて消えるのだろうか。
怒声。
悲鳴。
割れる音。
蠢く静寂をやぶる隣室の怒号。俺は背を向けようとして、ふと壁に目をやる。
怒声。悲鳴。割れる音。
俺は壁から目を離すことができない。
「あんた、いいかげん出て行ってくれんかねえ」
大根の煮物と共に投げかけられた言葉は、それでも俺の尻に火をつけはしなかった。俺は曖昧に頭を下げる。
「引越すにしても日数がかかるでしょ。今から準備しても遅いくらいじゃないの」
大家は俺の肩越しに部屋の中を覗き見る。そこには空虚な沈黙だけが居座っている。
「まあねえ。荷物も少ないみたいだから、いざとなったらウチで家具なんか預かってもいいけどさ」
溜息混じりに言う。俺は曖昧に頭を下げる。
「あんたで最後だから、まあそれくらい出来なくはないけどさ」
「あの……。最後って、隣の人はいつ引っ越したんですか」
大家は半眼で俺の爪先から頭のてっぺんまでじろりと睨んだ。
「あんた、何か聞いてるのかい」
「何かって?」
大家はしばらく黙って隣の扉を睨んだ。
「まあ、ここも最後だし、いいかねえ」
そう言って大家が語った。隣室はもう長いこと空き家だったという。夫婦と赤ん坊が住んでいたが、ある日、男が妻を刺し殺し、自身も首を掻き切って死んでしまったという。
怒声。悲鳴。割れる音。
いつもの日常。住民は誰もその部屋で起こったことに気付かなかった。気づいた時には腐臭がしていた。押入れから白骨が出てきた。赤ん坊の。鳴き声が聞こえなくなったことに長いこと誰も気付かなかった。怒声。悲鳴。割れる音。誰も助けを求めなかった。
大家が立ち去り、俺は外へ出た。
隣室の扉を眺める。そこにあの人はいない。もう何年も前にいなくなっていた。赤ん坊、大事そうに抱いていた。事故だったのだろうか、それとも?
あの人は夜な夜な繰りかえす悪夢のなか、赤ん坊を亡くし続けていたのだろうか。それはなにかの呪いだったのか、それとも罰?
怒声。
悲鳴。
割れる音。
赤ん坊の叫び声。
もう聞くことのない地獄。
あの人は抜け出せたのだろうか。日々繰りかえす苦しみから。それともこれからも扉の外に立ち続けるのだろうか。何も映さない瞳で。何も求めずに。何も変われずに。
俺は空を見上げて星を探す。そこには都会の灯を反射する赤黒い雲があるだけだった。
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