ー水妖ー

 美緒が死んだ。高校二年の夏だった。

 水泳の授業が終わり次の授業が始まった時に、美緒がいない事に教師が気付いた。さぼっているのだろうと気にも留めず授業は進められた。

 夜遅くになっても帰らない美緒を心配した両親が電話をかけたことで、初めて美緒が消えた事が知れた。教師たちはあわてて学校中を探し、プールの底に沈んでいた美緒を見つけた。

 美緒は頬に微笑を浮かべ、水底で幸せそうに夜空を見上げていたという。


 美緒の葬儀に、クラスメイトは誰もやってこなかった。担任の教師は美緒は一人を好み、授業もおりおりにさぼっていたと言った。学校のロッカーに隠すようにしまわれていた教科書やノートを担任が持参した。そこには一面に酷い言葉が書き連ねてあった。クラスメイトが書いたのだろう。何人もの筆跡で美緒を蔑み、攻撃し、破滅をそそのかす言葉たちが踊る。教師が抱えてきたそれらは厳重に梱包されていた。両親が梱包を解くのに手間取り中身を確認する前に、担任はそそくさと帰ってしまっていた。


「美緒……」


 母は泣き崩れた。美緒はいつも笑顔で学校が楽しいと話していた。友達もたくさんいてクラスは明るく、担任は親切だと。

 美緒。お前が見ていた世界は地獄のようなものだったろうに。覗きこんだ棺の中、美緒は何も語らず、幸せそうに微笑んだままだった。


 美緒は双子の妹だ。俺とは違って良く出来た自慢の妹だ。勉強も運動もできて優しい美緒はクラスの人気者だった。

 中学までは。

 その後、素行の悪かった俺の成績では美緒が目指した進学校に受かる事は出来ず、俺たちは別々の高校に通うことになった。美緒は毎日楽しそうに家を出ていった。

 一度だけ、美緒が泣いているのを見た事がある。風呂場に続く洗面所で隠れるようにして泣いていた。普段涙など見せない妹の姿に動揺した俺は美緒の肩を掴んで顔を覗きこんだ。美緒は涙を拭きながら、大事にしていた腕時計を壊してしまったと言って笑った。祖父の形見に貰った古い型のものだ。確かに腕時計は壊れていた。木っ端みじんに。まるで踏みつけられたかのように。

 俺は、美緒のことを見ているようで、本当は何も見ていなかったのか?

 美緒、教えてくれ。

 お前はなんで死んだんだ?



 葬儀から二日後、刑事が訪ねてきた。


「大堀さん、このたびはご愁傷様です」


 白い布で覆われた桐箱と美緒の写真が飾ってある祭壇に手をあわせてから、田沢と名乗った刑事は口を開いた。


「今回の件は事故と自殺、両面から捜査していくことになります」


「自殺……」


 母がぼんやりと口にした言葉に刑事はうなずいて、密やかに問うた。


「娘さんが悩んでいたとか、なにか心当たりはありませんか」


 母は下を向き、自分の膝を見つめた。母に代わって父が刑事に答える。


「娘はどうやら学校でいじめにあっていたようです」


「あなた!」


 母は父の腕にすがりつく。


「美緒は、美緒はいい子です! いじめなんてそんなこと……、そんなことあるはずない!」


 父は母の肩を抱きしめ、背を撫でた。母は父に縋りついて声を殺すようにして泣きはじめた。刑事はしばらく口をつぐんで母が落ちつくのを待ってくれた。


「娘さんに変わった様子があったのですか?」


 母は俯き唇を噛んだ。父は首を横に振る。 


「娘はいつも笑顔でした。しかし美緒は私たちの前で無理をして明るくふるまっていたんだと思います」


 父は立ち上がり部屋の隅に美緒の制服と共に置いてあったノートや教科書を持ってきた。田沢刑事はそこに書かれた薄汚い文字を見て、眉をひそめ同情を示してくれた。


「これらを一時、あずからせてください。捜査の資料として」


 父は黙って頷き、母はまた涙をこぼした。

 それから一週間後、美緒の死は事故死と断定された。





「川内君、なにしてるの?」


 振り返ると新しいクラスメイトの水村ゆかりが、白いブラウスを涼しげに揺らしながら近づいて来た。俺は窓から下を指差す。


「なんでプールがあるのに水泳の授業がないの?」


 水村は一瞬、表情を失くし歩みを止めたが、すぐに笑顔に戻った。


「去年ね、事故があって使えなくなっちゃったの。今は防火用水を溜めているだけ」


「ふうん」


 俺はプールの事など気に留めていないということを示すために水村の方へ体を向けた。


「川内君、クラスにはもう慣れた?」


 親切そうな笑顔で水村は俺に尋ねる。


「うん、おかげさまで。このクラスはいいクラスだね」


 水村は嬉しそうにおさげ髪を揺らして微笑む。


「そうでしょ? 私達みんな仲良くて毎日楽しいんだよ」


「俺も毎日学校に通うの、楽しいよ」


「よかった。何か困った事があったら、何でも言ってね。みんな力になるから」


 水村はそう言ってクラスの方へ歩いていく。俺はまた塗装の剥げてしまった古ぼけたプールを見下ろした。

 この学校、海藤高校は一年から三年まで成績順のクラス編成になっている。髪を黒く染め三年に編入した俺は特進クラスに入った。毎年、中ほどの成績のクラスには生徒の変動が多くあるらしいが、特進と最下層のクラスだけはほぼ固定されたメンバーらしい。去年も、一昨年も、このクラスのメンツは変わっていない。美緒はずっと特進クラスにいた。


 仲良しクラスの面々は、休み時間になると全員で輪を描くように座って談話する。ただ一人の生徒を除いて。

 瀬田剛史。強そうな名前の男子学生は、しかし細身で青白く背も低い。小さな背を丸めながらぼそぼそと喋る。けれど成績は学年トップで、ということはつまりこのクラスで一番頭がいいのだと目されている。

 

「瀬田君」


 昼休みに俺は彼に声をかけた。瀬田はびくっと肩を揺らし、小柄な体をなお一層縮めるようにして上目づかいで俺を見た。


「一緒にお昼食べない?」


 瀬田は目を見開き、怖ろしいものを見るように俺の顔を凝視すると、勢いよく首を横に振って教室から飛び出して行った。

 教室の中はしんと静まり返り、クラスの全員が俺を見ていた。


「川内君」


 水村が俺に近づいてくる。


「瀬田君は恥ずかしがりやで、一人が好きなの。あんまり関わらないであげて?」


「そう」


 俺は短く返事をして、教室を出た。


 屋上からプールを見下ろす。満々と水が湛えられている。防火用水として使うだけならばプール清掃もされていないだろうに、なぜか水は透き通り、プールの底の排水栓もくっきりと見えた。


「か、川内君」


 か細い声に呼ばれて振り返る。瀬田がコンクリートの床を見つめて立っていた。


「なに? 瀬田君」


 瀬田は制服の裾を握りしめて絞り出すように声を出す。


「ぼ、ぼくに近寄らないで……」


「どうして?」


 瀬田は俺の肩の後ろを気にして、ちらちらとそちらに視線を向ける。俺の後ろには屋上の柵しかない。その向こうにはプールが見えている。


「ぼ、ぼくも大堀さんみたいになるから……」


「なんだって?」


 瀬田は踵を返すと階段を駆け下りていく。


「おい待て!」


 追いかけようとしたが瀬田の逃げ足は驚くほど速く、俺はすぐに振りきられてしまった。


「……瀬田は何を知ってるんだ」


 俺の疑問に答えてくれるものはいなかった。


 クラスに戻ると、全員の視線が俺に集まり絡みついて、俺を捕縛しようとしているかのようだった。俺は気にせず自分の席に座る。


「川内君、あなた、なんでこのクラスに編入してきたの?」


 水村がにっこりと尋ねる。俺はちらりと視線を投げて答える。


「両親が離婚して、母とこの近くに引っ越したからだけど? 最初の自己紹介の時に言ったよね」


「前はどこの高校にいたの?」


「城南だけど」


「城南高校ならこの辺りからでも通えるわよね。わざわざ試験を受けて編入する必要は無いわ」


 俺は視線を机に向けたまま言葉を継ぐ。


「なにが言いたいの?」


「あなたは何を知っているの?」


 水村を見上げる。彼女はこわばった顔で、怖ろしいものを見るような表情で、俺を見つめている。


「いろいろ知ってるよ」


「たとえば?」


「たとえば、プールが閉鎖されている理由とか。人が死んだんだよね」


「なんで……?」


「死んだ人は今でもプールにいるのかな。会ってみたいよね」


 水村は恐る恐ると言った風情で口を開いた。


「ねえ、川内君。川内って、お母さんの旧姓なのよね? じゃあ、前の名前はなんて言うの?」


「大堀」


 クラスの時間が止まったかのように、静寂がおとずれた。その後すぐに教師がやってきてクラスメイトは皆席にく。昼休みは終わり、授業が始められた。瀬田は放課後になっても戻ってこなかった。


 夕暮れの教室で誰もいないことを確認してから、俺は瀬田の机の中を探った。出てきた教科書やノートには、予想通り汚い言葉が書き連ねてある。その中に、妙な言葉を見つけた。


『次はお前の番だ にげろ』


 ノートの一番最後のページ、隅の方に小さく書かれたその言葉を見て、俺は教室を飛び出した。プールにたどりつくと、その扉を掴み揺すってみた。だが鍵がかかっていて、びくともしない。プールと校庭を隔てるフェンスをよじ登る。フェンスの向こうに飛びおりて、プール脇に駆けより水底をのぞく。

 プールの底に、瀬田が沈んでいた。目を開いてぼんやりと夕焼けの空を見上げていた。




 救急車とパトカーがやってきて、校内は大騒ぎになった。部活動で居残っていた生徒がやじ馬にやってきて、警官から事情を聞かれている俺を遠巻きに眺めている。警官の隣に立った担任が俺を詰問した。


「なんでプールになんか入ったんだ! 立ち入り禁止だろう!」


「転校してきたばっかりで知らなかったんです」


「だからと言って鍵がかかった施設にしのびこむなんて……!」


「まあまあ、先生。彼も死体を見つけたりして動揺しているでしょうから。今日のところは勘弁してやったらどうですか」


 後ろから聞こえた声に振り返る。暢気な口調で話しかけてきたぼさぼさ頭の刑事は、美緒の事件を捜査していたうちの一人、田沢だった。俺はその偶然に驚き目を開いた。


「刑事さん……」


「川内君、と言ったね。ご足労だけれど、署まで一緒に来てくれるかな。くわしい事情を聞きたいんでね」


「川内はまだ未成年です、この事は学校で調査を……」


「先生、これは事件なんです。人が一人死んでいるんですよ。校内でどうにかできる問題じゃない」


 刑事が眼光鋭く担任に近づく。担任は怖気づいたようで一歩下がった。


「川内、変なことは言うんじゃないぞ」


「ほう、先生。変なこととはどんなことですか」


 担任は、うっと唸ったまま黙ってしまった。刑事は俺の背を押しパトカーに乗せた。パトカーは静かに発進した。


「大堀君、今は川内君と言うんだね」


「はい。あのあとすぐに両親が離婚したもので」


「それは大変だったね。妹さんの事ではわれわれは力になれず、申し訳なかった。もっと捜査できていたら……」


 田沢刑事の言った言葉に俺は眉をひそめた。彼はそれ以降なにも語らず、パトカーは警察署についた。刑事は、彼のあとに続いて降りようとした俺に手を差し伸べて、ぐいっと引っぱった。俺は立ちあがったが体勢を崩し、彼が俺の肩を支えた。彼は俺の肩を掴み口を近づける。


「妹さんは事故じゃない」


「え?」


 俺の耳元で囁いたことなどなかったように、刑事は飄々として警察署内に入っていった。



 事情聴取というにはあまりにもおざなりな質問に当たり障りのない返事をして、俺は警察署を出た。そこにあの刑事が立っていて、俺に手を上げて見せた。


「帰るなら途中まで一緒に行こう、暗い道は危ないからね。私はまた学校に戻るから」


 そう言って背中を見せて歩いていく刑事に俺は走って追いついた。


「あの、さっきの……」


「それにしても、まいったねえ」


 唐突に刑事は大きな声を上げた。


「君も大変な目にあって、疲れたろう。今日は早めに休んだ方がいいよ」


「えっと……、あの」


「私は今夜は夜勤になりそうでね、いや、まいったよ」


 刑事は足早に歩き警察署の門を抜けると、スーツのポケットを探り小さな機械を掴み出した。それを靴で踏みつぶすと、俺の方に顔を向けた。鋭い目つきで俺の体の中を値踏みするようだった。


「妹さんは事故じゃない」


「……どういう意味ですか」


 まっすぐ前を向いて、刑事は歩きだした。


「あの事件、自殺かもしれないと捜査していた。だが突然、事故死ということになって捜査打ち切りが言い渡された。世間的に大問題にしないためにそういった決定が下されることは、実はままあることだ。それで俺たちも納得していた。けれど、俺は気付いたんだ」


 刑事はちらりと横目で俺を見た。


「捜査資料がすべて消えている事に。もちろん君の家に返されたという形跡もない。教科書、ノート、司法解剖診断書、それに関係者への聴取報告書も、なにもかもだ」


「それは、どういう……」


 交差点についた。信号は赤だ。俺たちは立ち止まる。


「誰かが隠したんだ」


 暗くなった道を、行き交う車のヘッドライトが照らす。刑事の表情は暗く、その目は遠くを見ていた。


「事件はまた起きた。注意した方がいい。妹さんの事は私が責任を持って調べる。君は関わらない方がいい」


 刑事は足早に道を渡り立ち去った。俺は何が起きたのか理解できず、その場から動けずにいた。歩行者用の青い信号がチカチカと点滅していた。




 翌日、ざわめいている教室に俺が入ると、声はぴたりとやんだ。クラス中の視線が俺に向かってくる。俺は自分の席に座ると机の中、化学の教科書を引っ張り出した。

 ぎょっとした。

 教科書は一面真っ黒に塗りつぶされていた。いや、そうではない。読めないくらい小さな字で隅から隅まで一つの言葉が書き込まれていたのだ。


「にげろ にげろ にげろ にげろ」


 ページをめくってもめくっても、どこもかしこも黒く、その文字で埋めつくされている。俺は勢いよく顔を上げた。クラスメイトは皆俺から目をそらし、それぞれの席にもどり静かに腰かけた。教室には静寂だけが広がっていた。


 屋上からプールを見下ろす。昨日の事件があったため、プールの周りには黄色のテープが張り巡らされ警官が何人か歩きまわっていた。フェンスの中では白い手袋をつけた鑑識官がプールサイドにしゃがみ込み、探し残したなにかをまだ探し出そうとしている。

 俺は手すりに掴まったままぼんやりとそれらを眺める。

 どういう意味だろう、にげろ、とは。あれを書いたのはクラスのやつらか? だとしたらなぜ今までの美緒や瀬田のような罵詈雑言ではなく、にげろという警告だけなんだ? あの警告は、美緒のノートにも書いてあったのか?


「かわうちくん」


 その声に、はっと振り返る。


「瀬田……」


 そこには肩から頭から雫を垂らして瀬田が立っていた。皮膚は蝋のように白く、その瞳はなにも映していなかった。


「かわうちくん、にげて……。つぎはきみのばんだ」


 びしょびしょに濡れた瀬田は、階段にむかって歩いていく。


「待て、瀬田!」


 追いかけたが、瀬田の姿は階段の途中で消えた。屋上からてんてんと続いた水滴も、そこでぷつりと途絶えた。俺は寒気を感じ、自分の体を抱きしめた。



 警察の捜査は三日間続いていた。警察官たちが立ち去っても、プールを囲む黄色のテープはそのまま残された。俺はそのテープの前に立ち、ぼんやりとフェンスを見上げる。あのフェンスの向こう側で、いったい何が起きているんだ? これはただの水難事故じゃないのか? 瀬田はどうして死んだんだ?

 何一つ答えは出ない。踵を返そうとしたところに、声を掛けられた。


「川内君」


「刑事さん」


 あの刑事が手を上げながら近づいてきた。


「ここは立ち入り禁止だよ。何しているのかな」


「ちょっと……、瀬田の事を考えてたんです」


 田沢刑事は片眉を上げて、さも意外だというような顔をした。


「妹さんの事じゃなく、クラスメイトの事を気にしていたのか」


「瀬田は、いじめにあっていました」


「そうらしいね」


 ちらりと刑事の顔を見上げると、難しい顔をして自分の靴を見つめていた。


「瀬田のノートを見ましたか」


「ああ。君の妹さんのノートと似ていた。酷いもんだ」


「次はお前の番だ にげろ」


「え?」


「そう書いてあったんです。瀬田のノートに」


 刑事は両手をひろげた。


「そんな言葉はどのノートにも書かれていなかったよ」


「そんなはずはない。数学のノートです。一番最後のページに……」


 刑事は首を振って見せる。


「証拠品として捜査されたんだ。ノートの隅から隅まですべての言葉が調べられている。見落としは無い」


「でも、じゃあ誰かが隠したんじゃ……」


「私も確認した。そんな言葉は無かったよ」


 俺は肩から力が抜けるのを感じた。よろりと一歩下がる。


「川内君、君は一体、何を見たんだい」



 

 風呂に肩まで浸かってぼんやりと美緒の事を考える。水の底に沈んで、しかし美緒は幸せそうに微笑んでいた。苦しんだ様子もなく、何かを恨んだことなどないようなきれいな表情だった。司法解剖された美緒の肺の中は水で満たされていて、普通それだけ水を飲んだら苦しくて微笑んでなどいられないのだと聞かされた。

 美緒に一体、何が起きていたのだろう。

 温かい湯にほぐされて、俺の体から緊張が解けていく。平気なふりをしていたが、俺の心はすり減っていた。今に始まった事じゃない。美緒が死んでからずっと、俺は心を半分なくしたようなものだった。


 ふと気付くと、顔が半分湯の中に沈んでいた。あわてて立ち上がる。どうやら居眠りしていたらしい。風呂の湯をいくばくか飲んでしまったらしいが、苦しさはなかった。それよりもなぜか落ちつくような、いつまでも湯に浸かっていたいような、懐かしいような気持ちだけが残った。




 俺の教科書には日々、落書きが増えていった。それらはただの落書きで、汚い言葉を連ねてあるだけだ。隅々まで確認しても『にげろ』の文字は見当たらない。俺はほっとして教科書を机の中にしまう。

 ふと、机の中に何か濡れたものが入っている事に気付いた。何やら嫌なにおいがする。いやがらせに雑巾でも入れられたのだろうか。それを掴んで引っ張り出そうとしたが何かに引っかかっているようで出て来ない。仕方なくしゃがみ込み、細い引き出しの奥を覗き込んだ。

 そこには真っ黒な二つの穴があった。まばらな濡れた髪の毛がぴたりと貼りついた、それは眼窩だった。眼球はとうに腐って流れ落ちたのだろう。引き出しの幅にきっちりと切りそろえられたかのように頭骨の眼窩部分だけが机の奥におさまっていた。

 きろり、と視線がこちらを向いた。無いはずの眼球が俺の顔を睨んだ。

 俺はあわてて立ち上がり、机を蹴り倒した。机は教科書をばらまきながら音高く床にぶち当たる。息を乱して俺は後退り、できるだけ机から離れようとした。

 クラスの者は皆、俺を遠巻きに見つめ、何かを諦めたような何かが去るのをただ待っているような目をしていた。

 息をととのえ気を落ちつかせると、俺は机に近づき恐る恐る引き出しを覗きこんだ。そこにはなにもない。引き出しにはなにも入っていない。そっと手を差し入れてみたが、濡れているようなこともない。けれど俺の鼓動はどくどくといつまでも荒く鳴りつづけていた。


 その日の授業を俺はすべてさぼった。あの机の前にじっと座っている事など、到底できなかった。校舎の裏、人目のない場所に座り込む。そこからは中庭とプールがよく見えた。俺の目は自然とプールに向かう。黄色のテープはまだ張られたままだ。瀬田が死んでから二、三日は大騒ぎしていたマスコミもすでに姿を見せない。新しく起きた猟奇殺人事件に世の中は踊らされている。こうやって、瀬田も忘れられていくのだろう。美緒のように。

 ふと、視線の先、人の動きに気付き目をそちらにやる。田沢刑事がプールに向かって歩いていくところだった。俺は急いで校舎の陰から走り出した。


「刑事さん!」


 プールの入り口の前に立っている田沢刑事に声をかけたが、彼は返事をしなかった。


「なにかあったんですか?」


 刑事は振り返らずに、ぼんやりとした声音で答えた。


「五十年前にも、死んでるんだ、ここで」


「え?」


「三人。皆、水の底で幸せそうにしていたよ」


「……刑事さん?」


「にげるんだ」


 俺はぴたりと動きを止める。


「にげろ つぎはきみのばんだ」


 刑事はゆっくりとこちらに顔を向けた。その顔は半分しかなかった。大きな刃物で抉りとられたかのように、ざっくりと切り口が鮮やかだった。真っ赤な肉の中に、薄いピンク色の脳がたらりと垂れさがっていた。しかしその口元にはゆるやかな微笑が浮かんでいる。田沢刑事はその血だらけの手で俺の腕を握る。俺はゆっくりと地面に崩れ落ちた。


 目を開けると、まっ白い天井とまっ白いカーテンが見えた。そこが保健室のベッドの上だと気付いたのは、保健医が誰かと話している声が聞こえたからだ。体を起こしてカーテンから外を覗いてみると、保健医の向かいの椅子に座っていたのは水村ゆかりだった。


「川内君、気がついた?」


 水村は微笑みながらも俺と目をあわせようとはしない。保健医が立ち上がり俺の脈をとる。


「うん。だいぶ落ち着いたみたいね。あなた脳貧血を起こして運ばれたのよ。歩けるようなら教室へ帰ってもいいわよ」


 俺はなんとなく水村を眺めた。水村は俺とできるだけ距離を取ろうとしているようだった。


「まだ少しふらふらするんで、休んでてもいいですか」


 保健医はうなずき、水村はほっとした様子で保健室を出ていった。なんだろう。水村は俺を恐れているように見える。クラスの者たちも同様に、俺に近づかないように関わらないように気を配っている。それなのに増える落書き。わけがわからなかった。


 カーテンを引いて枕に頭を乗せた時、プール前で見た光景を思い出した。血だらけの刑事。思わず飛び起きる。ぐるりとあたりを見回すが、変なものは何もない。自分の腕を見下ろす。そこには血なんてついていなかった。

 夢だったんだ。貧血を起こして眠っている間の夢。俺はほっと息を吐いて布団を頭までかぶった。

 だがそれが夢ではなかった事を、俺は夕方のニュースで知った。

 テレビの中、いつものニュースキャスターが普段通りの顔で、猟奇殺人犯と渡りあった刑事が、犯人が隠し持っていた鉈で頭を割られて死亡したと伝えた。

殺されたのは、田沢刑事だった。


 風呂の中で俺は刑事に掴まれた腕を、何度も何度もごしごしと赤くなるまで擦った。血などついてはいないけれど、恐かった。どこか真っ暗な穴の中に引きずり込まれるような気がした。机の中に見た二つの眼窩に吸い込まれるような気がした。


 気付くと俺はゆらゆら揺れる水面を見ていた。いつのまに海に来ていたのだろう。温かい小さな波に揺られ、俺は手足を動かそうとした。しかし体のすぐそばには硬い壁があり、俺の体は窮屈に折り曲げられていた。はっと気がついた。海じゃない、ここは風呂じゃないか!

 慌てて水面に顔を突き出す。鼻に入っていた湯を咳き込んで押し流す。酸素を求めて胸が激しく上下した。いつの間に湯に潜ったのか覚えていなかった。眠ってしまったのか? それにしては全身すっぽりと狭い浴槽に入り込んでいたのはなぜだ。自分で手足を曲げ、浴槽の底に横たわらなければ、頭の先まで湯の中に入ったりしない。俺は、どうしたんだ?

 俺が自分で湯に潜ろうとしたのか?

 考えても答えは出ない。俺は浴槽から出て湯面を見つめた。俺自身の影が水面にうつり、薄暗い湯がたゆたっていた。


 朝、机の中から教科書を引っ張り出す。いつも通り落書きが増えている。もうそろそろ教科書の文字が見えなくなるくらいに黒い文字で埋めつくされようとしている。ここ数日に増えた落書きは皆「出ていけ」「邪魔だ」「消えろ」などという言葉が主だ。俺をこのクラスから追い出そうとしている。それは、誰のためだ? 俺はここに居続けていいのか?

 自問しても答えは出ない。けれど俺は美緒が死んだ理由を知るまでここから立ち去るつもりはなかった。


『五十年前にも、死んでるんだ、ここで』


 刑事は死んだ。その直後に俺は刑事の姿を見た。その言葉が夢や気のせいだとは思えない。俺は図書館へ向かった。

 卒業アルバムを並べている棚の前に立つ。去年のものから順に遡っていく。五年前、十年前、四十九年前、五十一年前。なぜか、五十年前のアルバムだけは並んでいなかった。最初からそんなものは存在しなかったかのように棚には一冊のアルバムが入る隙間もなかった。


「なにか探し物?」


 数冊の本を抱えた五十年配の司書の先生に声をかけられた。彼女は優しげに微笑んでいたが、その目は笑ってはいなかった。俺はゆっくりと立ち上がる。


「なぜないんですか?」


「なにが?」


 先生の肩がぴくりと揺れた。けれど笑みは崩さない。


「アルバムですよ、五十年前の」


「そこに並んでないかしら?」


 先生が指差す先に、もちろんアルバムは並んでいない。にもかかわらず、彼女の指はぴたりと四十九年前と五十一年前のアルバムの間を指差していた。


「先生は五十年前の事を知っているんですね」


「なんのこと?」


「三人死んだ」


 先生の顔から笑みが消え、かわりに瞳に翳りがさした。


「あなたが、大堀さんのお兄さんなのね」


 俺は黙って頷く。


「来なさい。アルバムを見せるわ」


 誰もいない司書室に通される。窓のない小さな部屋には壁一面に本棚がとりつけられ、持ち出し禁止の本が並んでいる。先生はその棚の本を数冊抜き取ると、その後ろに隠してあったアルバムを取り出した。

 無言で俺の手に渡されたアルバムをめくる。なんという事のない普通のアルバムだ。運動会やら修学旅行やらの写真が並んでいる。ページをめくっていくとクラスの集合写真のあとに個人別の顔写真、その下に名前が書いてある。何枚かのページをめくり最後の一枚。ぎょっとして手が止まった。

 ページが真っ黒に塗りつぶされていた。

最後の写真は特進クラスの顔写真だ。その一人一人の顔を丁寧に少しの隙間も残さぬように塗りつぶしてある。


「……これは?」


「何度交換してもこうなるの。誰かのいたずらだと思っていたわ。けれど鍵の掛かった司書室に置いておいてもこうなるのよ。こんなもの、生徒に見せられないでしょう」


 塗りつぶされた顔写真の中、きれいなままの写真が三人だけ残されている。はっきりと顔のわかる三人は、三人とも幸せそうに笑っていた。

「この三人が、そうなんですね」


 先生はゆっくりと頷く。


「亡くなった三人よ」




 気がつくと俺はプールサイドに立っていた。見上げると半月が美しく光っていた。プールの中をのぞきこむと、人が沈んでいた。卒業アルバムで顔を見た三人と瀬田、そして


「おにいちゃん」


 美緒。

 水の中、美緒は幸せそうに微笑んで俺を呼ぶ。


「おにいちゃん」


 俺は美緒に向かって手を伸ばす。美緒の手が俺に触れる。瞬間、水が俺の手を這いあがり、肩から頭から俺のすべてを包み込んだ。息ができない。逃げ出したいのに、美緒が俺の手を握って離さない。


「おにいちゃん」


 美緒の美しい笑顔が俺を呼ぶ。


「来て、ここへ」



 飛び起きた。はあはあと荒い息を吐く。見回す。暗い部屋だ。俺の部屋だ。体を触ってみても水など浴びていない。ただ、激しい汗が流れおちていた。




 クラス中の視線は俺から逸らされ、クラスメイト達はひそひそと会話を続ける。いつもどおりの朝だ。俺は席につき、机の中から教科書を取り出す。ぴたりと手が止まる。落書きがない。科学の教科書だけ、きれいに落書きが消えていた。

 ちがう、落書きではなかった。

 この教科書に書かれていたのは「にげろ」という文字だけだったはずだ。びっしりと、ページが真っ黒になるほどびっしりと連なっていた「にげろ」の文字が一つ残らず消えていた。俺はページを最初から最後まで、何度も何度も繰ってみた。しかしやはり教科書は元の姿を取り戻し、元素記号や数式で埋めつくされていた。

 顔をあげてみると、クラス中の生徒が怪訝な表情で俺を見ていた。こいつらじゃないのか? こいつらが教科書を取り変えたわけじゃないのか?


「水村」


 俺が呼びかけると、水村ゆかりはびくっと身をすくめた。


「俺の科学の教科書を知らないか」


 水村は恐る恐る俺の手元を指差す。


「そこにあるじゃない」


「ちがう、俺の教科書はこんなにきれいじゃ……」


 手元に視線を落とした俺は教科書を取り落とした。さっきまで白かったページに落書きがされていた。なんということのない文字。「消えろ」だの「邪魔だ」だの見慣れた文字。

 さっきまで確かにそこには落書きなんてなかったのに。落ちた教科書のページが風にあおられ捲れる。そこに書いてある文字。


『おれのばんがきた』


「川内君……」


 遠巻きに俺を眺めている水村に目を向ける。そこには水村ではなく死んだ生徒達が立っていた。三人の先輩、瀬田。

 美緒だけがいない。

 俺は教室を飛び出した。



 フェンスをよじ登りプールサイドに手をつき、水の中を覗きこむ。そこに、美緒はいた。


「美緒」

 水の中、美緒は口を動かしている。なにか喋っているようだが聞こえない。水に耳を付けてみると、耳を震わす不思議な感触と共に美緒の声が聞こえてきた。


「おにいちゃん、いっしょにきて」


「どこへ?」


「みずのそこ。たゆたうところ。なつかしいばしょへ」


 美緒が俺に手を伸ばす。俺は美緒の手を取る。そっと、手を引かれるままに水の中に入る。ああ、なんてやわらかな。全身をひたす安心感に、俺はゆったりと目を閉じる。体を丸め、手足を縮める。まるで胎児に戻ったみたいだ。とくん、とくん、と自分の鼓動だけが聞こえる。俺は静かに水底に沈んでいく。水底で俺は美緒に抱きしめられる。

 ああ、なんてきもちがいい。


 俺は静かに微笑んだ。




 三人目が死んだ。

 水村ゆかりはクラス代表として川内家へ弔問に行った。川内の母、公恵は何も目に入らぬ様子で畳を見つめていた。祭壇に飾られた川内の写真は朗らかに笑っていて、ゆかりは初めて見るその表情に胸を抉られたような痛みを感じた。


「……ごめんなさい」


 ゆかりが深々と頭を下げても、公恵は反応しなかった。ゆかりは持っていた白百合を祭壇に置くと、また深く頭を下げ川内家を出た。


「ちょっといいかな」


 門を出たところで、長身の刑事に呼び止められた。開いて見せた警察手帳には「磯貝知樹」と書いてある。


「君は川内君のクラスメイト?」


「はい、そうです」


「もしかして、なんだけど。川内君はクラスでいじめにあっていたりしなかったかな」


 ゆかりは磯貝の目を見てはっきりと答えた。


「私達は川内君をいじめていました」


 磯貝は大きく目を見開き、しばらく口をぽかんと開けた。


「え、ええっと。それは、なにか理由があったのかな、いじめられるような……」


「魅入られていたから」


「みいられていた?」


「だから出ていかせたかった。もしかしたら逃げられるかもしれないと思った。けれど忠告があいつに聞かれたら、こんどは他の人の番だから……」


 背を向けて歩き出したゆかりに、磯貝は小走りに追い付く。


「あいつって、誰の事? いったい君は何を知ってるの?」


「なにもかも」


 ゆかりは足を止め、磯貝をしげしげと見つめた。磯貝はなぜだか緊張して冷や汗を流す。ぽたりと汗が地面に落ちた。


「刑事さん、見せてあげます。水妖を」


 磯貝は首をかしげながらゆかりの手を取った。


突然、泥色の濁流が磯貝を押し流そうとした。腰まで濁流に浸かり左右を見ても、泥水しか目に入るものはない。磯貝は必死にゆかりの手を掴んで流されまいとした。けれどそちらを見ると、そこにいたのはゆかりではなかった。肉の削げ落ちた死体、まばらに残った毛髪、真っ黒な眼窩に目玉は無い。なのにその目は磯貝を見つめていた。


「おまえのばんだ」


「うわあ!」


 手を振りほどくと、そこは代り映えのしないアスファルトの上だった。ぱたぱたと体を触ってみたが、水に濡れてなどいない。はっとして左右を見渡すと、ゆかりが背中を見せて立ち去ろうとしていた。磯貝は一瞬、追いかけようと思ったが、先ほど見た光景が磯貝の足を鈍らせた。ゆかりは何事もなかったかのように去っていった。



 資料室で今回の事件のことを調べようとして、磯貝は奇妙なことに気付いた。先に亡くなった二人、大堀美緒と瀬田秀平の捜査資料がないのだ。なにもかもごっそりと、まるで最初から事件など存在しなかったかのように。資料室担当の婦警を捕まえて尋ねると


「特殊資料として県警の扱いになったので移動しました」


 それだけ短く答えて、それ以降の質問を避けようとするようにそそくさと去っていった。磯貝は取り残された資料室で腕組みをした。何かが起きている。けれどそれがなんなのか、磯貝には分からなかった。


 自分の机に戻ると、その机の上に段ボール箱が置かれていた。ミカン箱程度の大きさで、中身は文具やらノートやら誰かの私物のようだった。


「ああ、磯貝、それな田沢さんの遺品だ。お前から田沢さんの奥さんに渡してあげてくれ」


 磯貝は頷くとダンボールを床に下ろし、今日の仕事を終えるために書類を捲った。

 田沢は猟奇殺人犯に頭を割られて亡くなった。街中で、昼日中の事だった。真夏の暑い日で陽炎が立っていた。それなのになぜか田沢の遺体はずぶぬれで、スーツから水がしたたり落ちていた。その水は塩素系消毒剤を含んだ、プールの水であるらしいということだった。


 田沢の家は山沿いの田んぼに囲まれた豪農だ。両親は農業を営み、長男が家を継いでいる。田沢夫妻はその敷地内に一軒のこじんまりした家を建てて住んでいた。

 玄関のチャイムを押すと田沢の妻、涼子がドアを開けた。髪がほつれて化粧っけのない頬にかかっている。


「奥さん、突然で済みません。田沢さんの私物を届けに来ました」


 涼子は小さく頷くと磯貝を家にあげた。

 仏壇に線香をたて両手を合わせる。真新しい仏壇は洋間にも合うモダンなデザインだった。身なりに頓着しない田沢には似合わないと、磯貝は苦い思いで唇を噛んだ。


「本当に主人がお世話になりました」


 氷がたくさん入った麦茶をテーブルに出しながら涼子が深々と頭を下げる。磯貝は慌てて自分も頭を下げ、持ってきたダンボールを涼子の方へ押し出した。


「これ、田沢さんの机とかロッカーに入ってたものです。お返しします」


 涼子はダンボール箱から古い青年向け漫画雑誌を取り上げ、小さく笑う。表紙では肉感的なグラビアアイドルが無邪気に笑っている。


「あの人、私が嫌がるって知ってるから、こういう雑誌は家に持ち込まなかったんです。けど、職場で読んでたら同じだわ。私、ちゃんと知ってたんですよ、主人がこの雑誌を買っている事」


 涼子は一つ一つ箱の中身を手に取りながら、思い出を語っていく。磯貝はじっと聞いている。麦茶の氷が融けて、カランと鳴った。


「あら、これはなに?」


 ダンボール箱の底から出てきたのは一冊の卒業アルバムだった。五十年前の海藤高校の卒業アルバム。涼子はパラパラと捲ってみたが、取り立てておかしいところは無かった。


「主人の出身校ではないし、間違って紛れたんじゃないかしら」


「そうですか。では持って帰ります。どうも長々とおじゃましました」


「いいえ、こちらこそお引き留めしてしまって……」


 玄関で靴を履き終えた磯貝がドアを開けようとしたのを、涼子が止めた。


「そう言えば、主人が亡くなる直前にメールを送ってきていたんですけど」


「メールですか?」


「『水妖を見た』って。なにかわかります?」


 磯貝は肌が粟立つのを感じた。




 田沢家から持ち帰ったアルバムを自宅の机の上に放り出し、ネクタイを緩める。真夏の炎天下ネクタイをしているのは地獄だったが、磯貝は刑事は夏でもスーツだと、小さい頃に見たドラマの影響で今も思い込んでいる。クールビズが当たり前の昨今、捜査室内でただ一人、スーツを着用している。

 団扇で首筋に風を送りつつふとアルバムを捲ってみた。五十年前と言うと、磯貝はまだ産まれていない。両親がまだ幼いころだ。写真の中、古臭い髪形の子供たちが精一杯の青春を謳歌している。ぱらぱらと捲っていって、最後のページ、ぎょっとして手が止まった。ページが一面真っ黒に塗りつぶされていた。ページの端から端まで墨で線を引いたように黒々と。その中に、三人の生徒の顔だけがくっきりと浮かび上がっていた。

磯貝は呆然とページを見つめた。さっき田沢家で見た時にはこんなことは無かった。思わずアルバムから手を離す。ぱらぱらとページが捲れて真ん中に近いところで止まった。そこには普段の学校生活を写したスナップショットが載っている。科学の実験中だったり、給食の時間だったり、登下校中の風景だったり、水泳の授業だったり。

 ふと、プールの写真に目が引きつけられた。三人の男女が写っているその後ろ、その水面に、なにか黒いものが写っている。磯貝はアルバムに顔を近づけそのものを見つめた。


「ひっ!」


 そこには青白い肌の、目が落ち窪んだ水死体の姿があった。その女は五十年前の写真の奥から、磯貝のことを見つめていた。


 それ以来、磯貝はどこにでもその顔を見た。

 顔を洗う水の中に、昼休みのお茶の中に、缶ビールの水滴にさえ、その顔は現れた。写真に写っていたものとは少し違う。落ち窪んだ目は流れ落ち、眼窩だけになった頭骨が五十年の月日を感じさせた。そのものは、確実に時を刻んでいた。成長するように、老衰するように、姿を変えていた。

 風呂の湯の中に横たわるその者の姿を見たとき、磯貝は悲鳴を上げてその場にしゃがみこんだ。




 下校時刻の校門前には弾けるような笑い声があふれていた。磯貝は居心地悪く足を組み変えながら立っている。通り過ぎる学生たちがあからさまに不審の目で磯貝を見ていった。磯貝は、いっそのこと警察手帳をかざしたまま立っていたい衝動にかられた。

 水村ゆかりが校門をくぐったのは、磯貝が門前に立ってから三十分ほど後の事だった。ゆかりが部活動をしていなかった事に、磯貝は心の底から感謝した。


「刑事さん」


 ゆかりは磯貝に一瞥もくれず歩きながら話しだした。


「消えて下さい、邪魔です」


「え? それってどういう……」


「私の視界から消えて下さい。もう二度と現れないで」


 その言葉は死んだ川内の教科書に書きなぐられていた言葉の数々と同じで、磯貝は青くなった。


「俺が魅入られたっていうことか!? ほんとうに!?」


「話しかけないで」


「頼む、どうしたらいいんだ!? どうしたら生き延びられる!?」


「三人死んだ」


「え?」


「三人で終わるはず。どうしてかわからない。四人目が始まった理由が」


「四人目は俺じゃない。田沢さんだ」


 ゆかりはびくりと体を揺らし、磯貝に目を向けた。


「瀬田君の事件を担当していた刑事だよ。彼は言ったそうだ。『水妖を見た』ってね」


 ゆかりは目をそらすと足早に歩きはじめた。


「待ってくれよ! 教えてくれ! あれはいったい何なんだ!?」


 ゆかりは歩きながらぽつりと呟く。


「プールの底から……」


「底?」


 ゆかりははっとして刑事の目を見た。


「消えて」


 ゆかりはそう言い残すと、磯貝から走って逃げ出した。


「プールの……そこ?」


 磯貝は道の真ん中に立ちつくした。



 図書館で古い新聞を閲覧する。デジタル化された新聞は言語検索ができたが『海藤高校』と言うワードでは求めるものは何も見つからなかった。『プール』と検索すると1538件ヒットした。あまりの数字に頭を抱えた。しかし一つ一つ見出しを確かめていく。プール開きや新型のレジャープールがお目見えしたといったおめでたい記事が続く。その中に、水の事故の情報が混ざりだした。子供が溺れて救急車で運ばれたとかプールサイドで日射病で倒れる人がいたとか、磯貝が知りたい情報とは近いけれど違った。目指していた五十年前の記事を見つけるまでに、二時間を費やした。

『市内の高校に新プール完成 新しいプールを今日、お披露目した。真新しいプールに生徒は大はしゃぎで飛びこんでいた。なお、新設のプールは地元の有志の寄付で賄われた』


「市立の高校なのに、なんで財源が市費じゃないんだ……?」


 磯貝はさらにページを捲り、探していたもう一つの記事を見つけだした。


「『市立高校で死亡事故』 本日午後三時ごろ、市立海藤高校の水泳授業中に三人の生徒が溺れてなくなった。亡くなったのは三年生の木月満代さん(18)、古沼正くん(18)、田中航介君(17)。三人は水泳授業の自由時間に姿が見えなくなり、授業後に溺れて意識がない状態で発見され、緊急搬送されたが病院で死亡が確認された。警察は事件と事故、両面から捜査を進めている」


 それ以降、その事故について書かれている記事は無かった。


 磯貝は海藤高校の門を過ぎる。事件の真相がわからないままの現在、プールそばには警官が配備され、プールに近づくものがないよう監視している。磯貝は警官に小さく頭を下げ、張り巡らされた黄色のテープをくぐった。


『プールのそこ』


 水村ゆかりが言った言葉。そこに道があるかもしれない。磯貝はプールサイドに立った。

 水は抜かれ、塗装が剥げたプールの床やひびが入った壁面がよく見えた。磯貝はプールの中に下りてみる。水が入っていたら胸の下くらいまでの深さがあっただろう。溺れるには十分な水嵩だ。しゃがみ込んでプールのそこをノックしてみる。コンクリートはにぶくこつこつという音を立てただけで、とくに変わったところは見受けられない。

 プールサイドに上がってぐるりとプールの周りを一周してみる。ふと、配管室が目に留まった。中をのぞいてみると、何本かの太いパイプとバルブ、いくつかのメーターがある。給水や排水を行うための施設だろう。やや埃っぽく塩素臭い。部屋の中を見渡して、妙なものが置いてある事に気付いた。

 靴で蹴り飛ばせそうな小さな祠。赤い染料は剥げかけて祠の古さを物語っている。磯貝はしゃがみこんで祠の扉を開いてみた。中には透明な球が祀られていた。磯貝は祠の中に手を伸ばす。


「何をしてるんだ!」


 突然の大声に驚き振り返る。そこには作業着を着た老人が大きな熊手を握って立っていた。その熊手を構え、磯貝に打ちかかろうとした。


「待ってくれ! 怪しいものじゃない!」


 言いながら一歩下がると、靴が水を踏んだ。ぬるりとした泥の感触が靴越しに伝わってくる。磯貝は慌てて足元を見下ろした。


「……沼だ……、いつのまにこんなところに」


 ぐるりと周囲を見回すと、雑木が密に生えた杜の中のようだった。先ほどの祠が沼の真ん中に安置されている。

 磯貝は混乱して目眩を起こし水の中に膝をついた。その水の中に、真っ黒な穴が二つ見え、磯貝は固く目を閉じた。しばらく目を閉じていると、膝のあたりから泥水が滲みてくるのがわかった。磯貝はそっと目を開けた。

 老人は磯貝の様子を見下ろしていた。


「お前の番か」


 老人の言葉に磯貝は短く悲鳴を上げた。その場から立ち去ろうとする老人の足にしがみつく。


「待ってくれ! 助けてくれ! どうやったら逃げられるんだ、水妖から!」


 ざぶざぶと泥をはね上げとりすがる磯貝の言葉に老人は驚き目を開く。


「水妖……、その名をどうして……」


「助けてくれ、たすけてくれ!」


「わかった。一緒に来なさい。ここでは聞かれてしまう」


 老人は磯貝を立たせると背を押してやりながら杜から外へ出た。杜を抜けると、見慣れた校舎があった。そこにあったのは海藤高校の校舎だ。振り返ると小さな杜は校内の一角にある事が分かった。沼の場所には本来ならプールがあるはずだった。磯貝はぼんやりと自分の足を見下ろす。沼の水を吸ったズボンが重かった。


 老人は校舎の隅、用務員室へ入った。畳敷きの四畳半の部屋に小さな流し台、小さな卓袱台、部屋の隅に積まれた布団、ガスコンロの上の鍋とやかん、それだけが置かれている。冷蔵庫もテレビもクーラーもない。窓の外、風鈴がちりんと鳴る。老人はやかんから、煮出した麦茶を湯呑に注ぐと卓袱台に置いた。磯貝に『すわれ』と顎で指し示す。磯貝は胡坐をかき、ジャケットを脱いでネクタイを緩めた。深い深い溜め息が出る。



「あんたはあれを見たんだな」


 老人が静かに磯貝に尋ねる。磯貝は自分の膝を見つめたまま小さくうなずいた。


「あれは見たものを虜にする。いや、虜にされたものだけが見る事ができる」


 磯貝はゆっくりと顔を上げ、老人をまっすぐに見つめた。ぼさぼさの白髪頭、薄汚れた作業着、首に手ぬぐいをぶら下げている。


「あんたは何を知ってるんだ?」


 老人は静かに答えた。


「何もかも」


「教えてくれ! どうしたらあれから逃げられるんだ!?」


 老人は眉根を寄せ、苦しそうに呟く。


「教えられんのだよ。知ってしまったらもう口に出すことはできない。口にすれば儂が魅入られる」


 磯貝は老人の膝に縋りついた。


「そんな……、そんな……、助けてくれ! 助けて下さい!」


 老人は諦めのような感情を滲ませた目で、磯貝を見下ろす。


「あんたも知るしかない。あれを、知るしか」


「どうやって!?」


「沼の底だ」


「底に何があるって言うんだ!」


 老人は黙然として、磯貝がいくら揺すってもそれ以上何も話しはしなかった。


 磯貝は転げるように杜に戻ると、沼の水の中に潜り底に手をついた。必死に探るが、何も変わったところはない。何度も水面に顔を出し息継ぎをしてまた潜る。何度も何度も潜った。手は泥と小石を掴むばかりだった。水面に顔を出し荒い息を吐く。その時、沼の中から手が突き出し、磯貝の腕を握った。見下ろすと二つの目が磯貝を見上げていた。腐れて肉が削げ落ち、髪が抜けかけた女だった。その目玉はどろりとして今にも溶け出しそうだった。けれど確かに、その女は磯貝を見つめていた。磯貝は大きな悲鳴を上げた。


 悲鳴に飛び起きる。磯貝はプールの底で空を見上げていた。プールの壁はひび割れ塗装は剥げ、水は一滴も流れていなかった。磯貝は自分の体をぱたぱたと触ってみる。スーツは濡れてなどいない。プールの縁に上って配管室へ走る。扉を開けると、そこには壊れた祠があった。覗きこんでみても透明な球はなかった。

 磯貝がふらふらとプールから出ると、警官が敬礼してから黄色のテープを持ち上げてくれた。磯貝はテープをくぐり、その場で屑折れた。




「あの沼はなんだ?」


 放課後の校門前、磯貝は水村ゆかりをつかまえて強く肩を揺さぶった。ゆかりは逡巡したが、数日の間に様変わりした磯貝の姿に目を伏せた。髪を振り乱し、目を充血させ頬がこけた顔は、骸骨を思わせた。ゆかりは静かに語りだした。


「プールは沼を埋め立てて作られたんです。祠ではもう押さえきれなくなっていたから」


「あの祠はなんだ!? あそこにあった球はどこにいった!?」


「私が割ってしまったんです」


「割ったから、こんなことになったのか!?」


「そうかもしれません。そうじゃないかもしれません。私があれを割ったのは、プールの底に亀裂が走った日でした。そこからあれが出て来ようとしたのか……」


「あんたのせいだ!」


 磯貝はゆかりを揺さぶりつづける。


「あんたが! 俺を殺すんだ! あんたが!」


 校舎から数人の教師が走ってきて、磯貝は取り押さえられた。けれど磯貝はいつまでも叫び続けた。暴行の現行犯として収容された留置所で、磯貝は首を吊って死んだ。その体はなぜか滴るほどの水で濡れていた。




 満々と水が入ったビーカーが揺れる。水面に波紋が広がり広がった波紋がビーカーの縁に触れる。波紋はもともと無かったもののようにビーカーに吸収されて消える。

 水面に波紋が生まれる。波紋が消える。波紋が生まれる。波紋が消える。

 波紋はどんどんくっきりと、より強く縁にぶつかる。ビーカーがそれを押さえきれないほどに強く、強く。

 とうとうビーカーの縁から水がつうっと一すじ零れおちる。水はビーカーの側面を伝い床へ、床の上を這いさらに広がっていく。

 波紋が生まれる。波紋は消えず、床の上に広がる。どこまでも。



 ゆかりは跳ね起きた。呼吸が荒い。汗をかいて髪がぺたりと額にくっついている。

 恐い、恐い夢を見ていたような気がする。けれどもう思い出せない。ゆかりは呼吸を落ちつけて時計を見る。午前二時、窓の外は真っ暗だ。

 あの日以来、ゆかりはカーテンを閉める事ができなくなった。窓を打つ水音が雨なのか別のものなのか、毎夜確かめずにはいられなかった。




 その日、水泳部はこの夏初めてのプール清掃をしていた。部長のゆかりもジャージの裾をあげてデッキブラシで床を磨いた。


「こらー! まじめにやれ!」


 副部長の声に振り返ると、一年生の男子部員が二人、デッキブラシを振りまわして騒いでいた。二人は副部長に追いかけられ走り回り、一人の男子部員が勢いよくこけた。こけた拍子に手にしていたデッキブラシで思いきりプールの底をつき、そこに小さな亀裂が入った。


「あーあ。どうすんだよこれ」


 ぼやく副部長の肩を撫でて苦笑いを見せ、ゆかりが近づいて亀裂を触ってみると、表面的なものではなく、奥まで深く溝ができているように感じられた。ひざまずいて亀裂をのぞいてみると、何かと目があった。それは真っ黒でなにもない二つの穴なのに視線だけを発していた。ゆかりは飛びあがり二、三歩下がった。


「部長? どうしたんですか」


 呼ばれて辺りを見回すと、部員たちが心配そうにゆかりを見ていた。亀裂はもうただの亀裂で、ゆかりはほっと胸をなでおろした。

 水泳部の顧問は亀裂を見るとゆかりに水を出してみるよう指示を出した。亀裂から水が漏れないか見るのだと言う。ゆかりは配管室へ走り、給水のバルブを回そうとした。冬季の間閉めっぱなしだったバルブはなかなか回らず、ゆかりは渾身の力でバルブを引っ張った。急に回転したバルブの勢いに押され、ゆかりは尻餅をついた。そのとき、何かが割れるぱりんという硬質な音がした。足元を見ると、小さな祠がななめに崩れ、中に入っていた水晶球が真っ二つに砕けていた。


 プールに十センチ程度水を溜めて様子を見てみても水位は変わらず、亀裂の事は不問に付された。ゆかりが割った水晶球も持ち主も、なぜそこにあったのかもわからぬまま、いつのまにかどこかへ消えてしまっていた。配管室の中には壊れかけた祠だけが残された。



 窓の外は真っ暗だったが、なぜか部屋の中はぼんやりと見る事ができる。ゆかりはベッドから下り、机に乗せた水晶球を手に取った。祠に置いてあったものと同じような大きさ、同じような透明さ。眠れなかったゆかりに札をくれた霊媒師から譲り受けた。ゆかりは両手で水晶球を祈るように握りしめた。


 早朝、まだ開いていない校門をよじ登り、黄色いテープをくぐってゆかりはプールに忍び込んだ。プールの中はカラカラに乾燥していて亀裂がよく見えた。ゆかりはプールの底に下り、亀裂をのぞきこむ。何もいない、視線も感じない。プールサイドに上がり、配管室のドアを開ける。部屋の隅、パイプとパイプの間の隙間に祠だけが残されている。そこに、持ってきた新しい水晶球を置く。

ふいに、激しい水音がした。慌てて外へ出るとプールの中、濁流が渦を巻いていた。


「うそ……、なんで」


 泥を多量に含んだ茶色の濁流はどんどん水嵩を増しプールの縁から溢れだした。ゆかりの足元に茶色の水が押し寄せる。


「いやあ!」


 逃げ出そうとしたゆかりの足をすくい、水が押し流す。すぐにゆかりは濁流にのまれ、プールの底に消えた。




 ゆかりの遺体はその日の夜遅くに発見された。乾いたコンクリートの上、一日中夏の陽にさらされていたというのに、ゆかりの遺体は泥水で汚れべったりと重かった。

 


 複数の鑑識官がプールの中、隅々まで調べ上げていく。もうこの作業も四度目だ。四人の生徒がこの場所で死んでいる。またこの学校の事件を担当することになった鑑識官の岸は重い溜め息をついた。何か通常では考えられない事が起きている。それはわかっているのに、誰もそれが何かつきとめる事も終わらせる事も出来ないでいる。

 そう考えて、しかし岸は首を振り、考えを頭から追い出す。科学に基づいて捜査すべき自分の立場を思い出し、プールの調査に戻る。プールの底、くっきりと入った亀裂を覗きこむ。これももう何度も繰り返した行動だ。髪の毛一本落ちていたことはない。と思ったが、亀裂の底に何かが見えた。目を近づけて見るとそこには深い穴が開いていた。今までこんなものに気付いたことはない。よくよく見るとその穴は、こちらを覗いているようだった。眼球が抜け落ちた眼窩のようだった。

 その時突然、濁流が岸の体を押し流した。がぶりと頭まで茶色の水に浸かる。ごうごうと流れていく水の上に顔を出そうともがくが、強い流れの中で岸は翻弄され流されるだけだった。必死で手足をばたつかせていると、手に何かが触れた。縋りつき両手でしっかり握る。それは岸を水面に引っぱり上げてくれた。急いで息を吸う。咳き込むと口と鼻から水が出ていく。自分が握っているものが視界に入る。それはやわらかな女性の腕だった。腕を辿り肩を見つめ、その先に視線を伸ばす。


「……水村ゆかり?」


「見せてあげる。水妖を」


 白くふっくらとしていたゆかりの顔の肉がぐずりと崩れ落ちる。腕の肉も手先まで腐敗臭を撒き散らしながらぬるりと滑っていく。


「ひいっ」


 小さく悲鳴を上げたが濁流に押し流される恐怖の方が強く、岸はむき出しになった腕の骨にしがみつく。ゆかりの体からは肉が削げ、髪が抜け落ち、目玉が溶け落ちて大きな丸い眼窩だけが黒々と頭蓋骨のなかに残った。それは亀裂の底に見た穴だった。


「つぎは おまえのばんだ」


「助けてくれ! 嫌だ! 助けてくれ!」


 骸骨は肉のない顔で笑ってみせると、岸をゆっくりと水から引き上げた。


「三人よこせ」




「おい、岸! どうした、大丈夫か!?」


 肩を揺すられ、はっと我に帰る。プールの中はあいかわらず夏の熱気にさらされていて、水など一滴も見えない。


「うわ、お前これ全部汗か? 大丈夫か」


 言われて自分を見下ろすと、全身ずぶぬれになっていた。肩からポタリと泥水が落ちる。岸は呆然と己の手を見つめる。手が、足が、震えて止まらない。


「岸? 体調が悪いのか?」


「いや……、いや。大丈夫だ。なあ、沢田。見せてやろうか」


 沢田は首をかしげる。


「何を」


 岸は満面の笑みを浮かべる。その笑みはなにか憑きものが憑いたようで、沢田は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「見せてやるよ。水妖を」


 岸はゆっくりと手を伸ばした。

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