スノウ



自分が塵芥ちりあくたであると認められなければ(否、認めるというのはそれが真実である時にする行為)、私は私を保っていられなかっただろう(真実でないゆえに、それはごまかしであり欺瞞)。矮小で極微なバクテリアに過ぎないのだと断じなければ、私は私の頭上から降るプランクトンの排出物、あるいは死骸であるスノウに対して傘を差せないことをどのように受け止めることとなっただろう。そも、受け止めることなどできなかったのではないか。あるいはそうであった方が幸福だったのかもしれない。現実を現実のまま理解することができず、スノウを神秘的かつ清らかで無垢な物だと誤認したなら。ああ、誤認。私はスノウを正しく認識しているつもりなのか。厭っているのが正しい反応だと? スノウは間違いなく生命の結実であり昇華であるというのに。それは賛歌とは言えないだろうが、真理にはぼんやりと近い。奇跡とは呼ばないだろうが、摂理と呼ぶのは悪くない。そう、それがスノウの実体だ。それが分かっていながら私は厭う。それが生命の仄暗い輝きであるゆえに。最も我慢ならないのは、降り積もるスノウを払い落とすことができないことだ。私の手はそれをするには汚れすぎているのだ。聖遺物にも等しいスノウに触れることなど許されない。ゆえに私は傘を持たなければならなかったはずなのに。


私は深海に生まれた。

鮟鱇あんこうが息をしている隣で。

当然ながらそこには、

傘は売っていない。

浮かび上がって、そして、這いずって、傘を買いに行くには勇気が足りなかった。

少し深すぎたし、肺も強くはなかった。

何より、この深海で息吹き続けることが私にとっての全てなのだと固く思い込んでいた。

そして実際に私はそうした。


スノウは堆積を続け、私はそれがために緩やかに意識を失っていき、深海に自分を留め置くことすらできなくなった結果、自然的調和のままに、私の体は静かな浮上を続けた。深海を脱する頃には、もはや私は何の意識も感覚も持ち得なかった。浮上の過程でスノウはわずかずつ零れていったが、私の体は深海で生きる為にしかできあがっておらず、もはや自我を取り戻すことはかなわなくなっていたのだ。それらは全て、私が傘を持ち得なかったせいだと断じてもいいのだろうか。



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