◆第一章 異世界ウォーカー

【02】バグ玉


「やあ、蔦壁つたかべ。今、ちょっといいかな?」


 努めて明るい口調で、『凪早なぎはや晴矢はれや』が呼びかける。

 図書室のカウンターの向こう、本を整理していた様子の『蔦壁つたかべロコア』が、その手を止めて振り向いた。


「……えっと、凪早なぎはやくん? 同じクラスの?」

「そうそう。同じクラスの、凪早晴矢。名前を覚えてくれてるなんて、光栄だな」


 ドキリと高鳴る鼓動を誤魔化すかのようにして、晴矢は頬をポリポリと掻いた。

 一方、声を掛けられた蔦壁ロコアは、何も心当たりが無いといった様子で、どこか不思議そうな表情だ。

 それもそのはず。

 同じクラスとはいえ、これまで、接点という接点がほとんど無かったからだ。


「……ごめんなさい、図書館はもう閉館なの。今日は貸し出しできないから……」


 言いながら、トコトコと早足でロコアがカウンターの前までやって来る。

 小鳥のさえずりのような声が、晴矢の耳を心地よくくすぐった。


 化学や美術の授業などで、同じ席に座って話をしたことがあるぐらい。

 これだけ間近で、しかも2人きりで、面と向かって話すのは初めてのことだ。


 肩あたりで切りそろえられた黒髪がフワリと揺れ、トレードマークとも言える濃紺縁のうこんふちの眼鏡がキラリと光を反射する。

 背丈は平均より少し低いぐらい。

 インドア派らしき白い肌には日焼けの後もない。

 白のブラウスの上に濃紺のカーディガン、下はチェックのスカートにひざ下までの黒の靴下、そして黒の革靴。

 この高校の制服を、きちんとした身だしなみで着込んでいる。


 見た目は、どこにでもいそうな優等生っぽい地味めの女子高生。

 同じクラスの女子の中でも、さほど目立つことはない。

 言うなれば、まるで新緑に漂う爽やかな空気のような清涼感。


 教室では、いつも何かの本を読んでいる。

 しかも図書委員だ。

 よほど、本が好きなのだろう。


 時々、本を読んでいる途中に顔を上げ、窓の外を眺めていることがある。

 どこか儚げで、寂しげな、遠い目をして……。

 その横顔に、いつもドキリとするのだ。


「『蔦壁ってさ、いいよね────』」


 友人たちに、そんな言葉を投げかけてみたことはある。

 だが、誰一人として、それに同意する者はいなかった。

 晴矢には、それが不思議で仕方がない。

 こんなにも……。


「凪早くん? もう本が決まってるなら、急いで貸し出し手続きしちゃうけど?」


 不思議そうに小首を傾げるロコアの言葉に、ハッと我に返る。


 すでに夕刻を過ぎ、まもなく学校の正門が閉まる時間だ。

 図書室はすでに主電灯を落としてあり、カウンターの明かりだけが灯っている。

 薄暗がりに包まれて、図書室はしんと静まり返っていた。


 それもそのはず。

 こうして人気ひとけがなくなるまで、ジッと待っていたのだから。


「ああ、いやいや。本を借りに来たわけじゃないから」


 晴矢の言葉に、ロコアは少し驚いた様子で目を見開いた。


「凪早くんて、風紀委員だった? 図書委員の仕事はもうあと10分ほどで終わるから、そのあと鍵はきちんと職員室まで……」

「いやいやいや、風紀委員でもないよ! ははは、さすが真面目だよね」


 「そこがまたいい」なんて心の奥でつぶやきながら、晴矢は腕組みをして「うんうん」とばかりに頷いた。

 だがその仕草は、ロコアのお気に召さなかったらしい。

 怪訝そうな表情で眉をしかめると、キュッとばかりに口端を結んでしまった。


 すぐにでも踵を返そうとする雰囲気を感じて、慌てたように晴矢はポケットをまさぐり始めた。


「ごめんごめん、手短に要件を言うよ! 蔦壁ってさ、今話題の『指輪の騎士』って知ってる? 人気ソシャゲーを題材にしたライトノベル原作の映画シリーズで、今度、最新シーズンやるじゃん?……あれれ、どこやったかな?」


 『指輪の騎士』と聞いても、ロコアはピンと来ない様子だ。

 だが、晴矢の意図は察したようだ。

 ゆっくりと肩を落とし、申し訳無さそうな表情で、小さくため息を付いている。


「……ごめんなさい。わたし、ソシャゲーはやらないから」


 断られる事も予想しないではなかったが、この手応えの悪さは晴矢の予想の遥か上を行っていた。

 なんとか良い流れに持ち込もうと、晴矢は一生懸命に頭を巡らせる。


「へえ、そうなんだ。そいつは残念。ああ、だったらさ、良ければソシャゲー版に招待するよ。招待コードで入力したら最初から超強いユニットが入手できるしさ……って、おい! チケットどこ行ったよ……!」


 慌てると、すべての事が上手く行かないものだ。

 こうしているうちにも、特に興味を惹かれない様子のロコアが、立ち去ろうとする気配を漂わせている。


「初心者支援機能あるからさ、お、俺がレベル上げ手伝うよ! そ、それに映画の方はさ、ファン待望の水着回なんだよね! いつもは性能重視の無骨な鎧に身を包んじゃってる助手のブリジットが露出度120%の黒ビキニってウワサ! しかもその水着が、チケット予約特典でソシャゲー内で使用可能なんだ!」


 「(女の子に『水着回だよ!』って、アホか!)」なんて自分にツッコミながらも、ドギマギしすぎて他にいい言葉が出てこない。

 全身から冷や汗が吹き出して、ますます頭の中が真っ白になってしまう。


「つ、ついに辿り着いた理想郷ヴォルケーノ! そこの領主がイケメンでさ! 茶髪で浮気症のイケメンでさ! そこに狙いを定めた助手ブリジットが、自慢のボディを大胆な水着姿で誘惑真っ最中に起きる……」

「……ごめんなさい。図書委員の仕事、終わらせたいから」


 ロコアが、そっと頭を下げたその時だった。


 薄暗かったはずの図書室が突然、淡い黄緑色の光に染められた。

 そしてカウンター奥の図書整理室からフワ~リと、黄緑色の光球が漂い出てきた。


「な、なんだ、あれ!? ひ、人魂!?」


 びっくりして、思わず一歩、後ずさる。

 晴矢の驚く声に、ロコアがその視線を追って後ろを振り返った。


「これは……『バグだま』! いつの間に!」

「ばぐ、だま?」


 驚く2人を見据えるようにして、黄緑色の光球がフワリと宙で円を描く。

 光球が天井付近でピタリと静止した時、晴矢はまるで光球と視線が合ったかのような感覚に襲われた。


「……へ?」


 同時に、身体がピクリとも動かなくなる。

 そんな晴矢に向かって、黄緑色の光球が突進してきた!


「ちょっ!? うわあああああああああああああああ!!!」


 絶叫する晴矢の胸に、「ドン!」と衝撃が走る!


「ぅぐぶぇっ!!!」


 衝撃が全身を駆け抜ける。


「────バグ玉が、人に……!?」


 驚愕するロコアの声を遠くに、晴矢の意識がグラリと揺れた────。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



凪早なぎはやくん、凪早なぎはやくん!」

「……ほえ?」


 呼びかける声に気づいて、凪早なぎはや晴矢はれやは情けない声を上げた。

 まだ、意識が朦朧としている。

 身体の上下の感覚があやふやで、自分がどこにいるのかわからない、そんな気分に陥っていた。


「……あれれ?……なんか……妙にフワフワして……?」


 ボヤッとする目をこすり、しぱしぱと瞬いてみる。

 徐々に視界が戻ってきた時、背中がトンと何かにぶつかる感触がした。


 真下に、心配そうな表情で晴矢を見上げる女子生徒がいる。

 蔦壁つたかべロコアだ。

 晴矢の意識が戻ったことに、ホッとしたように胸を撫で下ろしている。

 意識を失ってからさほど時間は経っていないのか、図書室はしんとして静まり返っているままだ。


「良かった……大丈夫? 怪我はない?」

「うう~ん、と……痛いところはないよ。でも……」


 まだボンヤリしている頭で、辺りを見渡してみる。


「ど、どうなってんだ、これ?」


 背中に当っているのは天井だ。

 どこからどう見ても、身体が浮いている。


 状況がイマイチ飲み込めないでいると、晴矢の背後で、天井板がギシっと音を立てた。

 同時に、一瞬、建物全体が震えた感じがした。


「おおお?」

「校舎全体が揺れた……?」


 どうやらロコアも、同じように感じたようだ。

 そうしているうちにも、再び背後で天井板がミシリミシリと軋んで、本棚がグラグラと揺れ始める。


「凪早くん、天井から離れて」


 ロコアの言葉に、ハッとなる。

 慌てて天井を蹴り、両手を平泳ぎのように動かした。

 すると、浮いていた身体がスウーッと宙を滑っていく。

 まるで、宙を泳いでるかのように。


「おおお!? ちゅ、宙を泳いでるぞ、俺!?」


 ロコアの頭上をスイスイと旋回しながらも、晴矢はまだ状況が飲み込めないでいた。

 どうしてこうなったのか────?

 フワフワしている身体のせいだろうか、まるで夢の中にでもいるような心地で、現実味が湧いてこないのだ。


「きっと、バグ玉のせい。バグ玉が凪早くんの身体に、取り憑いたから……」

「そ、そうなのか……? これって……夢、じゃないよな?」


 平泳ぎをやめ、自分の身体を眺め回してみる。

 まるで重力を感じられず、フワフワと宙に留まっているようだ。


 不安げな眼差しを、ロコアに送る。

 ロコアは、神妙な顔つきで晴矢を見上げていた。


「凪早くん、いろいろ説明したいことはあるけど、ひとまず……」


 ロコアは肩を落として「ほう」とひとつ溜め息をつくと、申し訳無さそうな表情で晴矢を見上げた。


「────わたしと一緒に、異世界に来てもらっていい?」



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