第8話 桜の花びら

 ああ、違う。この娘が彼女であるならば、こんなしゃべり方はしない。あの人はもっと周囲を明るく照らし出すような、お日様のような人だった。けれど、この娘は月だ。

 だったらなぜ、この少女は振り返ってぼくに疑問を投げかけた?


 一縷の望み。

 黙ったまま何も言えなかったぼくと彼女を、新入生たちはどんどん追い抜いてゆく。やがて周囲から人通りがなくなる頃。

 呆れるでも茶化すでもなく、少女はぼくに背を向けて歩きだそうとして――。


「あ……」


 何もないところで足をもつれさせた。

 反射的に両腕を伸ばし、彼女を背中から抱き留める。


「…………」

「…………」


 左腕は腹部に、右腕は胸に。

 あまり大きくはないけれど、そこには手で触れてはならないもののような柔らかさがあった。

 冷や汗が滲んだ。ふたりして固まったまま、数秒が経過する。


 落ち着け。一旦落ち着け。

 自分に言い聞かせる。ここで大声で謝ろうものなら、新入生のほとんどが中庭に向かっているとはいえ、誰かが振り返るかもしれない。どう言い繕っても、ぼくが突然抱きついたとしか思われない状況だ。

 初日で学園生活を終わらせるわけにはいかない。

 まずは落ち着くんだ。深呼吸をして……良い匂いがする……。

 また数秒が経過した。少女はぴくりとも動かない。


 そっと、何事もなかったかのように。

 自分に言い聞かせながら、ゆっくりと両腕を解く。震えそうになる声をなるべく抑え込んで、ぼくは小声で「ごめん」と呟いた。

 新雪のような髪を揺らして振り返った女子が、眉をわずかにひそめて首をかしげた。


「……なぜ謝るの? わたしは今、転倒しかけた。だからあなたが手を差し伸べ、わたしを元の体勢に戻してくれた。とても合理的な行動」


 な、何か変わってるな、この娘……。


「あなたにも損害は発生しないし、わたしの損傷を防いでくれた。むしろわたしは、あなたにお礼を言わなければならない」


 抑揚のない声で静かに告げて、赤い瞳を細めるでもなく、感情なく「ありがとう」と呟く少女。まるで感謝の意など伝わっちゃこない。


「わたしに何か用?」


 やはり別人だ。彼女はこんなしゃべり方をしない。

 でも、不自然なくらいに似ている。似すぎている。


「その、ぼ、ぼくは高桜一樹っていうんだ。あの……、ヘンなことを聞くけど、ヘンな意味じゃないから教えて欲しい」

「……わたしにこたえられることなら」

「君にお姉さんはいない? 九年前の大戦の七日目に、君とそっくりの人に助けてもらったんだ。メタルと戦っていた人なんだけど……」


 容姿のことは言うべきじゃないだろう。真っ白な髪も、赤い瞳も、個人的にはとても綺麗だと思うけれど。

 数秒間、思考する表情を見せた後、少女は静かに囁く。


「彼女はもういない。九年前のその日から、この世界のどこにも」

「それって……」

「もう、いない」


 少女は感情を表すことなく、ただ静かに繰り返した。

 時が流れる。音もなく。


「冗談……だろ……?」

「いいえ」


 両膝が折れた。

 マヌケなぼくは、ようやくこの気持ちを自覚した。


 このときまでは自分でも気がつかなかったけど、ぼくはやはりあの人のことを、未だに引きずっていたんだ。

 恋愛を、尊敬にすり替えていた。


 帝都防衛高校が創立されたのは、首都大戦の二年後。あの頃はまだ、メタルの侵攻に対する組織だった迎撃態勢が確立されちゃいなかった。

 現在は帝高を含む南東、南西に位置する装甲人型兵器ランド・グライド専門の高校と、北端に位置する英雄のみで構成された大学があって、三校が協力体制でメタルを辛うじて東京に封じ込めている。それでも犠牲となるパイロットは少なくない。


 今でさえこんな有様なのに、学校すらないまま起こった九年前の首都大戦の犠牲者数は熾烈を極めた。装甲人型兵器ランド・グライドの技術だって、出始めの当時はまだまだ未発達だったはずだ。


「そっか……。……あの人はもう、いないんだ……」


 あの日、ぼくを助けた後に――。

 ぽっかりと、胸の中に穴が空いた気がした。

 まだ、名前も聞いていなかった。命を助けてもらったのに。


「そっか……そうなんだ……。あ、あれ? 何だこれ、くそ……」


 ぽろ、ぽろ、涙が頬を転がり落ちてゆく。

 恥ずかしくて、顔を真っ赤に染めて、何度拭き取っても、笑みを浮かべようとしても失敗してしまう。


「ご、ごめん、こんな……はは……みっともない……」


 こんなにもあの人のことを想っていた自分に驚いた。

 膝が震えてしまって、立ち上がることさえできない。自分の身体じゃないかのように、いうことをきかない。


「生命を助けてもらったのに……まだ、お礼さえ……言えてなかったんだ……」


 膝をついて頭を垂れていたぼくを、突然彼女の全身が包んだ。


「――っ!?」

「大丈夫」


 あのときと同じ声。記憶が重なる。

 長く白い髪が、ぼくの肩に滑り落ちてきた。あの頃の、彼女の身体の感触はもう忘れてしまっていたけれど。


「大丈夫。あなたにそう伝えてと、このカラダが言っている。不思議。脳からの指令ではなく、指先が、腕が、全身が、わたしに命じる。あなたに伝えて、と。これはとても非合理的感情。けれど、わたしは――」


 誰もいなくなった桜の舞い散るグラウンドで抱きしめられ、ぼくは彼女の言葉の一部さえ理解できなかったけれど、それでも耳を傾けていた。


「――わたしはイツキに伝える。あなたは大丈夫だと」


 頬をすり寄せて額を当て、感情のない赤い瞳と見つめ合う。


「……キミの、名前は……?」


 ざぁっと、遮るもののない春の風が流れた。桜の花びらが舞い上がり、ぼくらはほんの少しの間だけ瞳を閉じる。


「――リサ・アバカロフ」

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