記憶を踏みつけて愛に近づく

ritsuca

第1話

 ごめんねと謝られて、何が、と返した。数ヵ月ぶりの逢瀬は、そうして始まった。

 社会人になって、そろそろ5年。働き始めて少しした頃に知り合って付き合い始めた彼とは、ここ数ヵ月間、電話もメールもぱたりと途絶えていた。急に連絡がきたのは昨日のことで、それでよくまぁ部屋に入れたものだとは自分でも思う。好きかどうかを問われても、もうあまりよくわからない。別れようと言われないから別れていないだけ。それだけのような気すらしてくる。

 そんなことを思い返しながら、沸かしたばかりのお湯を保温ポットに入れて持ってきたところで、環奈は首を傾げた。

「このコップ、二つあったっけ?」

 一人暮らしだしこの部屋は狭いからと、環奈は極力食器を増やさないようにしている。一応各種類とも二人分ずつは最低限揃えているが、同じ柄のものを二つずつ買う気にはなれず、柄違いのものを買っていた筈だった。

 ソファーの前のローテーブルには、同じ柄のマグカップが二つ、仲良く並んでいる。

「僕がお揃いのコップで飲みたかったから」

 出したんだよ、とも、持ってきたよ、とも続けられそうで続かない返答に、そう、とだけ返して、環奈は彼の隣に座った。

 ソファーの前のテレビは黒い画面のままで、珍しいなと思いながら、環奈はリモコンに手を伸ばす。部屋にいるときはソファーで過ごすかベッドで寝るかのどちらかなので、大抵のものはソファーから手が届く範囲にあった。とても快適である。快適だからこそ彼氏と連絡が途絶えても平気になってしまうのでは、と半ば説教混じりに新婚の友人から指摘されたのはいつのことだったか。そう指摘していた友人ももう一児の母になったので、きっと1年以上は前のことなのだろう。何もかもが、億劫に思われてくる。だって。

「あ、この俳優、小さい頃こんなだったのか。オーラとか全然ない」

 適当につけたチャンネルで流れていたのは、ゲストの家族の足跡、歴史を辿るという趣旨の番組。最終回を迎えたの迎えていないのという話を耳にした気もするのだが、あれは別の番組の話だったのか。

 へぇ、とひとりごちる声に、そういえばこの人の幼い頃の写真を見せてもらったことはないはずだ、と思う。恐らくそのはずだ。こちらの幼い頃の写真を見せて欲しいと言われた記憶も、断った記憶もないのだから。

 そう、思っていた。

「そういえば、環奈はあまり雰囲気が変わってないね」

「え」

「あれ、覚えてないの? 心外だなぁ。僕はずっと覚えていたのに。付き合う時に言わなかったっけ?」

 言ってない。聞いてない。なんだそれは。なんだそれは。

 居心地よく整えていた筈の部屋が、突然異国になったような、そんな心地に、ぐらりと揺らぐ。

「ほら、ほしぞら保育園。ずっと一緒だったのに覚えてないの? って、そうか。無理もないか。環奈はずっと一緒だったものね、杏奈ちゃんと」

 あんちゃん。かんちゃん。

 ふたりでひとりだったころ。ひとりがふたりだったころ。

 ふたりはふたりと知ったのは、さほど昔のことではない。家を出ることにした、あの頃。

 あのこはわたしではない。わたしはあのこではない。

 あのこはわたしにならない。わたしはあのこになれない。

 カタカタと、音がする。

「顔色が悪い、……ごめん」

「あなたが謝るようなことでは」

「あるでしょう。だって、震えてる」

 どうやら手に取ったばかりのマグカップとローテーブルが触れ合っていたらしい。そっと手を外されたら、音は止んだ。

 外された手を、そのまま握り込まれる。彼の手は、かさついていた。そうか、もう、そんな季節か。ハンドクリームとリップクリームを、また買い足しておかなければならない。ずっと通っていたお店にはもう行けないから、会社の近くのどこかで適当に。

「わだかまりが、何かあるんだろうなとは思ってた。お父さんやお母さんの話が出ても杏奈ちゃんのことはずっと話題にならないし、披露宴で見たとき、環奈の表情はとても硬かったから」

「ひろう、えん」

「うちの従兄の。環奈からすれば、杏奈ちゃんの。世間は狭いんだなってあのとき、思った。うちは当時三世代で住んでいたから、従兄はうちにも杏奈ちゃんを連れてきたんだ。従兄は祖父のお気に入りというか、ほんの少しだけ行き来しづらい場所にお互いずっと住んでいたから、気軽に会えるようで会えない距離が絶妙なスパイスになっていたようで」

「すぱいす」

「そう、スパイス」

 鸚鵡返しにところどころを繰り返すばかりの声は、自分の声のようで、姉の声のようで、誰の声でもないようにも聞こえた。

 握り込んだ手をやわやわと触りながら、彼の声は続く。

「それで、従兄がきた。僕はそのときは下宿先にいたから同席はしなかったけれど、招待状が届くよりも前にやけに興奮した文面のLINEが母から届いて。それで、知った。知ったというか、思い出したというか。働き出して会ったとき、手を取らなきゃと思った。僕らの通っていた保育園の子たちはほぼほぼ近所から通っていて、小学校も大体2択だった。小学校入学で途絶えた縁が、それよりもずっと広がった筈の社会人生活で交わったなら、それに加えて、親戚を介しても繋がっているなら、ただの偶然じゃないだろう、って。手を取らなかったら、きっと後悔すると思った。まぁ、プライベートのアドレスを書き足して渡した名刺のおかげで合コンに誘われるとは夢にも思わなかったけど」

 そういえば新人の頃、部内の先輩に頼まれて、合コンの勧誘と参加を迫られたことがあったかもしれない。先輩はとっくに転職して会社を去っていったし、その後はお付き合い期間に突入していたので、数合わせで誘われたときも彼を口実に断っていたのだった。

 でも、これは本筋ではない。本筋ではないからあっさり思い出せるのだろうなと、自嘲気味に思う。

 あのこになれない、と感じたことは、経緯も何もかもが曇りガラスを通してしかもう思い出せない。その割に、そのことに少し触れただけで、じくじくと、痛い。

 あのこには、なれない。

 握り込まれた手はそのままに、ぎゅっと身体を小さくする。肩に手を回すでもない、抱きしめるでもない、見つめるでもない彼の距離が、いつもならば快いのに、いまはとても寒かった。

「ずっと話に出ないからおかしいなとは思っていて。出そうとしたことは何度かあるんだけど、出せなかった。でも、この前実家に顔を出したら、従兄の一家がいてね。そう、杏奈ちゃんも。環奈、元気ですか、って訊かれたんだ。でも、ここしばらく、僕らは会ってなかったし、連絡も取り合っていなかった。だから、そう伝えたんだ。そうですか、って。一言だけ、返ってきた声で披露宴の頃の環奈を思い出して。僕は何をしていたんだろう、と思った。あのとき手を取らなきゃって思ったのに、どうして僕はいまそうしていないんだろう、って。それで、連絡した。それが、昨日」

 日付が変わって、もう、テレビはとっくに別の番組に移っている。そうだ、明日も平日なのに、こんな時間まで起きていて、いいのか。彼は。私は。終電は。

 ふと我に返った環奈を横目で見て、彼は笑う。環奈の見たことのない、でも、そう、これがきっとずっとほしかった。どろりとした笑みを浮かべて。

 居心地の悪さのような、むず痒さのような何かに、小さくした身体を、丸め込む。膝に埋めようとした頭は、握り込まれた手と一緒にさらわれた。

「ねぇ、環奈。いつまで僕に従兄の、裕一の影を見てるの。僕が、邦彦が手を取らなきゃと思ったのは、環奈、君だよ」

 知ってた? 明日は今年限りの祝日だよ。だから大丈夫、夜は長い。君のそれを、壊してあげる。踏みつけて、粉々に。

 耳に流し込まれた声に、環奈は目を伏せた。

 あのときほしかった声とは違う。似ても似つかない。でも、そうだ、これがずっとほしかった。

 曇りガラスの向こうから振り向いた、あのこになれないわたしが、小さく頷いた。

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