一章 旅立ちのとき

第1話 訃報

 ルチアが生まれたカーティス家は代々著名な天文学者を輩出する家系だ。ルチアの姉エレーヌも、国一番のマービリオン大学へ女だてらに飛び級で入学し父の跡を継いだ才媛だった。

 十三歳のルチアにとって、十も歳の離れた姉は亡き両親の代わりだ。しかし学問以外に関しては浮き世離れした姉に頭を悩まされたことは少なくない。


 ある日、嬉しそうに頬を高揚させたエレーヌにリビングへ呼ばれ、顔を出した途端に抱きすくめられ頬ずりをされる。

「聞いて私のルチア! 今度私も海軍の探検隊に入れてもらえることになったの!」

 子どものようにエレーヌははしゃぎ、何度も頬に口付けされる。ルチアと同じ色をした、深海のような濃紺の瞳を輝かせる姉の姿に呆れながらも、ルチアも微笑みかける。

「お姉ちゃん、凄い。良かったね!」

 海軍が率いる新大陸への探検隊は、国家の威信をかけた精鋭たちの集まりだ。考古学者、物理学者、地理学者――そして天文学者などあらゆる学問の専門家たちが国中から集められ、海軍の保護を受けながら新大陸を駆け回る。その中に名前を連ねることは、学者人生において大変な名誉とされる。

「なんと今回は女性ばっかり集められているのよ。中央政府がいくら女性の社会進出をうたっても、実際に活躍できている人は少数でしょう? 女性ばかりの探検隊が成功すれば、きっと他の人たちへの希望になると思うの」


 この二十年間で家に閉じこもるばかりだった女性が外に出始めたが、エレーヌのように学問を究めようとする女性は少ない。姉がそんな現状を嘆いていることはルチアもよく知っていた。

 しかしエレーヌは喜びの表情を翻し、目元を下げてルチアのプラチナブロンドの髪を梳いた。

「愛しいルチア。だから、しばらく家を離れなければいけないの。ハウスメイドを雇うから家のことは大丈夫だとは思うけれど……いつも寂しい思いをさせてごめんなさい」

「私なら自分のことは自分で出来るから大丈夫よ、お姉ちゃんと違って」

 家事が全くできない姉を揶揄すると、まあ、とエレーヌは頬を膨らませた。

「ひどいわね。私だってやろうと思えばできるのよ? 私がやるよりルチアのほうが上手いから任せているだけで。証拠に今日の夕食は私が作ってあげるから!」

「……本気で止めて」

「嫌です! なんと言おうと、今日は私の番よ」

 壊滅的な料理の味を思い出すだけで胃がきりきりと痛む。しかし必死なルチアをまったく意に介さない様子で腰に腕を当て宣言された。

 致命的なことに、本人には全く自覚がない。殺人級の料理を食べて泡を吹き、隣家の人間に病院へ担ぎ込まれたことは今でもたまに夢を見る。

 なんとか料理の話題から離れようとルチアは探検の話に戻すことにする。

「それよりお姉ちゃん、探検隊ってどこにいくの?」

「あら、言ってなかった? マッテラ島よ」

 姉の言葉に思わずルチアは飛び上がる。

「そんな! あそこに行くなんて無謀過ぎるよ!」

 未踏の地と呼ばれるマッテラ島は、マービリオンの北端からわずかに臨むことができるほどの近距離にあるが、たどり着くための海域は氷山や大きな渦が待ち構えておりどこよりも危険が伴うと言われている。

「止めてお姉ちゃん。他のところならいくらでも応援するから!」

「……ごめんね、ルチア」

 ルチアの必死な引き止めに、エレーヌは寂しげな表情を浮かべる。

「私、もう決めたの。私はマッテラ島の秘密を知りたい。こんな機会はもうないわ」

 頑固な姉が一度決めたら実行する性格なのは嫌ほど知っていた。ルチアは嘆息してから、諦めたように笑う。

「家のことは任せておいて。その代わりちゃんと帰ってきてよ」

「もちろんよ、ルチア」


 そう言って元気に笑うエレーヌをルチアは待ち続けた。

――十六歳の誕生日を一人で迎える、今日この日まで。





 仁王立ちで腕を組んだルチアは射抜くような瞳を男へと突き刺し、右手の人差し指を玄関ホールの出口へと向けた。わずかに指先が震えていることに気付かれないよう、毅然とした表情を見せる。

「お姉ちゃんが死んだなんて嘘。さっさと出て行って」

「ルチア・カーティス。君のような娘でもこの制服の意味は知っているはずだ」

 白を基調とした詰め襟の制服はマービリオン共和国の海軍の証だ。海軍という名前だが、この国に軍と呼べるものは彼らしかおらず陸地も彼らの管轄だった。

 彼らの威光はルチアももちろん理解していたが、それでもめげずに反論を述べる。

「私の名前を知っているなら、今この家が女性一人で暮らしていると分かっているはず。それにも関わらず男一人がこんな早朝に訪問するわけ? 海軍っていうのは非常識な集団なのかしら」

「法に基づき、エレーヌ・カーティスの研究結果をすべて回収するためだ。君も学者一家の娘として、それくらいは知らないはずがない」

 国内の著名な一族は国家予算を使うことができ、カーティス家もその一つだった。そのために研究を受け継ぐものが皆無となれば国へすべての成果を引き渡し、二度と国からの手厚い援助を期待することはできなくなる。

「姉が死んだと証明されなければ、手渡す理由はないはずよ。それに、手渡す相手は海軍でなく大統領宛てのはず。なぜあなたたちが取りに来るの?」

「大統領――しいては、政府はそこまで手が回らない。現在我々海軍がその任務を代行しているだけだ。先ほど言った通り探検隊の乗っていた船が近海で座礁しているのを発見した。船の中には誰一人残っておらず、おそらく海の底へと沈んだと推測できる」

「姉が死んだという証拠を見せて」

 ルチアの言葉に、男は呆れたように首を横に振った。

「死体を見せろと言うのか? 水死体がどのようなものか知っているか。海水で皮膚はふやけ、身体は膨張し――」

「やめて!」

 淡々と述べる男の言葉を遮り、思わず声を荒らげるルチアに男はぶしつけな目を向けた。

「ルチア・カーティス。両親、そして姉とカーティス家の天文学者は全て途絶えた。これは国からの命令である。今すぐにすべての研究結果を差し出すのだ」

「……なら、私がカーティス家の当主になる。両親と姉の研究をついで、私が天文学者になったわ。今、この場でね」

「なにを馬鹿な」

「私もカーティス家の人間よ。優秀な両親と姉を持った私が無知なはずがないでしょう。だから今日からカーティス家の主は私。後を継ぐものがいる以上あなたたちの好き勝手には出来ないはずよ」

 言い切るルチアを男はじっと見る。値踏みするようなぶしつけな視線がルチアを捉えるが、顎を上げてそれを見返す。

「――あと一年、次の審査会までに学者として一定以上の成果が見られなければ終わりだ」

 国の保護を受けるためには毎年ある程度の成果を見せ、認められなくてはならない。エレーヌも毎年冬になると中央政府に赴き、研究成果を披露しているのをルチアも知っている。探検隊に入ったエレーヌは一時的に審査会を免除されている状態だった。

 男の言葉に内心で胸を降ろす。

「ならマッテラ島への航路を無事に発見すれば、認めてもらえるわよね」

「……豪語するな。海軍でも果たしえなかった道だぞ」

「望むところよ」

「では君を正式にカーティス家の当主と認めよう。成果を期待しているぞ」

 あざける様な笑みを浮かべて男が言い放ったあと、踵を返し玄関から出て行くのを見送る。ルチアは最後までひるむことなく顔を上げ――男の姿が見えなくなった途端にその場で崩れ落ちた。

(お姉ちゃんが死んだ……? そんなの、絶対嘘よ。だって、帰ってくるって約束したもの)

 ルチアとて姉の帰りを大人しく待っていたわけではなかった。姉の書斎をひっくり返し手がかりを探し、中央政府へ何度も足を運び姉の足取りを尋ねた。しかし返ってくる答えは決まって「現在調査中」の一言だけだった。

(どうしよう。当主になるなんて言っちゃったけど、なにをすれば良いの?)

 姉と違い、最低限の教養だけを家庭教師から学んだルチアに専門的な知識などない。海軍の男に言ったことなど、虚勢を張ったに過ぎない。

 けれど、両親と姉が大事にしている研究結果を引き渡すことなどルチアにはできなかった。

(さっきの男は船に一人もいないと言っていた。なら、どこかで生きている可能性だってあるはず)

 重い足取りで自室へ戻り、デスクの上へ姉の手がかりになりそうなものを広げる。その中に一枚の封書が目に入る。半年ほど前に送られてきたそれは、行方が知れないエレーヌに宛てられたものだ。罪悪感にかられながらも、手がかりになればと封蝋をこじ開けた日のことを思い返す。

(何度読んでも恋文ね……)

 丁寧な文字で書かれていた手紙には、歯の浮くような言葉が並べられていた。

『愛するエレーヌへ。こうして手紙を書くのも久しぶりだ。俺たちを祝福してくれる大勢の友がゼノで待っている。結婚式の日まで、あと半年だ。祝福の鐘も待ちきれないように鳴り響いている。……最近手紙をくれなくなった君を、皆心配している。どうか連絡が欲しい。――君を愛する男より』

 初めて読んだときには、結婚の文字でルチアは目を見開いた。仕事に一生を捧げるかのように過ごしていた姉に、いつのまに結婚の約束をするような存在がいたのか。

(結婚式の日まであと半年、ってもうすぐなのよね)

 本当に手紙の通りエレーヌの恋人からの手紙であれば、結婚式など実行できるわけがなかった。姉の現在の様子を伝えようにも、手紙には差出人の名も居場所も記載がない。

 大陸中を飛び回っていた姉ならば、どこか遠い場所に恋人がいてもおかしくはない。しかし結婚を約束するような仲であれば、音信が途絶えたのを不思議に思い家まで訪ねてきてもおかしくはない。

 けれどこの三年間、そのような人物の来訪は一度足りともなかった。

 ため息をつきながらもう一度手紙を読み返したとき、一つの単語に引っかかりを感じ呟いた。

「ゼノ……?」

 島の北端に位置するゼノ市は国の中で一番小さな都市ではあるが、北上にあるマッテラ島への探険には欠かせない場所でもある。

(確か、この辺に置いたような)

 ルチアが戸棚を漁ると一冊の大衆向けの雑誌を見つけ出す。つい最近ハウスメイドが読み終わったからと置いていき、暇つぶしに読んでいたそれの表紙に予想通りの文字を見つけ読み上げる。

「――海賊王がゼノ市を制圧。傲慢市長、ついに陥落」

 見出しを口にしてから違和感に納得する。現在ゼノ市は内乱の最中にいるはずだった。ゼノ市長の悪い噂は遠く離れた中央区に住むルチアの耳にも届くほどだが、どんな市長であれ一つの市が制圧された今、海軍の介入は時間の問題とされている。

(そんなところで結婚式? 縁起が悪過ぎるでしょう)

 内乱後のゼノ市の治安は最低レベルに達している。しかもエレーヌは中央区に住む人間である以上、わざわざゼノ市での結婚式に拘る必要性を感じない。

「海賊王……か」

 海洋国家とはいえ、ここ中央区は海に面しない内陸にある。それに加え、共和国の誕生と共に設立された海軍の登場によって海賊は下火になった。そのせいでルチアは一度も海賊という存在を目にしたことはない。

 しかし、それでも生き残った海賊たちは国にとって脅威とされている。

(でもお姉ちゃんの手がかりはこれしかない)

 ゼノ市でエレーヌを待っている人間がいるのは確実だ。ルチアにとって手がかりを持っていそうな人物は手紙の主しか思い当たることがなかった。

 決意を秘めた表情をみせ、ルチアはワンピースを脱ぎ捨てペチコート一枚になるとクローゼットから一着の服を手に取る。亜麻で出来たそれは、先ほどまで来ていた服に比べるとかなり質素なものだ。しかしルチアは気にせずそれを手早く身につけた。薄手のブラウスにベスト、そしてズボンに足を通すと茶色いブーツの紐を固く結ぶ。

 デスクから小さめのナイフを取り出し、鏡の前に立つ。淡いブロンドの、腰までの長い髪を物憂げな表情で手に取る。艶やかな長い髪はルチアのお気に入りだった。

 逡巡したのは一瞬だけだ。ナイフを一閃すると、プラチナブロンドの長い髪がはらりと絨毯に飛び散った。ひやりと冷たい空気が首元に触れ、ルチアは身震いをした。

 最後にマントを羽織ると、鏡の中には可憐な少女でなく少年へと変貌したルチアが映しだされていた。

「他には……あ、これも」

 両親の形見である深い碧の宝石がついたペンダントを首からかける。ルチアとエレーヌの瞳に似ているからあげるよ――そう言って笑う父の顔を思い出して胸が詰まる。

 大事な形見をマントの中に押し込み、必要最低限の荷物をトランクケースに詰め込んだ。そしてペンを取り、今日来るはずのハウスメイドへと書き置きを残した。


――姉を探しに行ってきます。

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