第4話 レイスと生首4
遠くで、声がする。
低く、抑揚のある穏やかな声。
唄か?
いや、祝詞か?
男のものとも女のものとも知れないその声は、深遠の闇の中で丸くなっていたレイスの心にさざ波をもたらし。
やがて、周囲の濃い闇が灰色へと変化し、更にそれが明け方を思わせる静謐な光へと推移していく。
目を開けるべきだと、控えめな意見が頭をかすめる。
しかし同時に、何かとてつもなく怖ろしいことがあったような気がして、躊躇った。
「・・・・・・まったく、平和な寝顔だな」
くすりと笑う、柔らかな女性の声がした。
そっと、頬をつつかれ。
「ヨダレが出てるぞ男前」
その声が聞こえてきたのは、あまりにも至近距離。
さすがに異常事態だと思ったが、ここしばらく縁遠かった平和な眠りは魅惑的で。
優しい手つきで、髪をすかれた。
肌に感じる、他人の温もり。
朝晩冷え込みはじめた季節なので、長らく独り寝を続けてきた独身男には、それはとてつもなく心地良いものだった。
再び、穏やかな無意識の海に飲み込まれかけて・・・・・・
――――待て、自分。
レイスは急激に、思い出してしまった。
あの巨大な・・・・・・生首を。
「・・・・・・お?」
パチリと瞼を開き、鍛えられた反射神経でがばっと起き上がった彼に、共寝をしていた女が呑気な声を上げた。
ここがどこだとか。
薄絹一枚着たきりで、女性と一枚の布団に包まっていたことだとか。
そんなことよりもっと!
「く、首はっ」
きょろきょろと周囲を見回すと、そこは分厚いカーテンで覆われた空間だった。
寝所だ。
さして悩む間もなく、それを悟り。
事の重大さを認識するより先に、己が眠っていたのが、あの巨大な女の生首が鎮座していたその場所だということに慄いた。
急にガタガタと震え始めたレイスを見ても、女性は大して驚いた様子はなかった。
「寒い」
すっと伸びてきたしなやかな腕が、強張ったレイスの首に回された。
一瞬、あのとぐろのような長い髪を連想して、撥ね付けようとしたのだが、それより先にぐいと真後ろに引っ張られて、ふかふかの布団の上にポスンと背中から倒れこんだ。
「まだ夜が明けたばかりだ。二度寝しても今日ばかりは文句を言われまい」
「・・・・・・・え?」
ごそり、と温かくて柔らかな肢体が寄り添ってきた。
騎士として戦うことに慣れたレイスだが、さすがに生身の女性がすりよってくるのを退けることはできなかった。
「え?」
短い黒髪が、男にしては色白なレイスの肌に触れている。
「ええええっ?!」
「やかましい」
唸るような声は、耳に心地よく。
肌に触れる他人の熱に、呆然とした。
「寝ろといったら寝ろ。私はこの贅沢を満喫したい」
喉を鳴らす猫のような眠たげな声色に、ますますレイスの顔面から血の気が失せる。
「ど、ど、どどど」
「どうしてと聞きたいのか?」
ちろり、と半分だけ開いた彼女の目に、レイスはコクコクと頷いた。
「神儀長を待たずに気絶したお前が悪い」
軽くあくびを噛み殺して、彼女は再び目を閉じた。
「わたしが湯浴みから戻ってきたら、お前は白目を剥いて倒れていて、近衛どもが嬉々として鎧やら服やら脱がせていたよ」
「・・・・・・」
レイスは真っ青になった。
もちろん、あの黒衣の女近衛たちからセクハラされたとか、襲われそうになったのだとか、そんなことを考えたわけではない。
いくら生首お化けに卒倒してしまったからといって、身包みはがされるのに気絶したままだったというのが問題なのだ。
近衛としてというよりも、男として、色々マズい気がする。
「も、申しわけありませ・・・・・・」
「お前が気絶したわけはちゃんと説明したんだが、神儀長も女官長も近衛どもも聞いちゃあいない」
「・・・・・・あ、あの」
「ということで、長い付き合いになりそうだねぇ」
彼女はもう一度、あふう・・・・・と猫のようなあくびを洩らした。
「まあ、よろしく頼むよ・・・・・・夫君どの」
囁くようなその言葉を、じっくり吟味して・・・・・・
「・・・・・・はい?」
レイスは温かい布団の中で、間抜けな声を上げた。
その後、まんじりともせず日が高くなるまで彼女の抱き枕になっていた。
高貴な女性と臥所をともにしている緊張と、例の巨大な生首幽霊への恐怖と。
考えなければならないもっと大切なことがあるはずなのに、思考はまったく働いてくれなかった。
やけにテンションの高い女官たちが起こしに来たのは、昼近く。
さすがに幽霊が出てくる時刻は過ぎているので、寝所にも隣の部屋にも昨夜の怖ろしい姿はなくなっていた。
それにほっとすると同時に、呆れたような笑ったような溜息が耳に届き、振り返ると、体温を感じるほど近くに薄い夜着姿の彼女がいて。
改めて、ぎょっとした。
同じ布団の中で同じ体温となってまどろんでいる時よりも、明るい朝日の差す部屋で見る薄衣姿のほうが何倍も心臓に悪い。
しかも、寝起きそのままの着乱れた胸元から、たっぷりとしたふくらみが半ば零れ落ちんばかりに露出していて。
レイスは慌てて目を逸らし、いつの間にか着せられていた己の夜着の襟をこそこそと整えた。
「なるほど、明るくなったら大丈夫なのか」
「・・・・・はい、大変なご迷惑をお掛けして申しわけありませんでした」
一晩同じ臥所で過ごしたとはいえ、男女の親密な交わりがあったわけではなく、むしろ身分のある女性に対して不敬な真似をしでかしてしまった感覚しかなくて。
レイスはひどく気まずい思いで頭を垂れた。
「迷惑ではなかったよ。いやむしろ、迷惑をかけそうなのはこちらのほうだ」
「・・・・・・は?」
「さあさあ! 朝餉の準備が整いましたよ。こちらへどうぞ」
よく聞き取れなかった彼女の台詞を問い返そうとしたのだが、朝から素晴らしく明るく張りのあるキャンベラさんの大声にかき消されてしまった。
女官たちが皆、いやにニコニコと笑っているのが気になった。
はじめは、情けなくも見知らぬ女性の寝所でひっくりかえってしまった無作法を嘲笑われているのかと思ったが、どうやらそんな感じではない。
生温かいというよりも、朗らかな。
100パーセント心から嬉しそうな笑顔を向けられて、反射的に愛想笑いを返してしまったレイスを責めるのはお門違いというものだろう。
長らく恋人もいないさびしい独身男には、ひらひらと優美に動く女官さんたちの可愛らしい様子が、どこか現実味がないというか、眩しすぎる絵画の世界のように見えたといおうか。
ぼけ~っと見とれているうちに、豪勢なご馳走が並んだ前に座らされ。
あれよあれよと言う間に、手に杯を持たされていた。
しかも中身は、朝から酒だ。
酒がまったく飲めないレイスには、匂いですぐにそれと知れたが、断りを入れるより先に「さあどうぞ」「ぐぐっと一口」「飲んでくださいませ」
ピーチクパーチクと可憐な口ぶりですすめられ、訳がわからないままに舐めるように杯に口を付ける。
視界の端で、短髪の美女が小さく溜息をつくのが見えた。
まずい。
身分が上の者から杯を口にする決まりなど、子供でも知っている作法なのだ。
一瞬血の気が下がったレイスの目の前で、彼女は手にしていた同じ杯を迷うことなく豪快にあおった。
わっと、その場がわいた。
まるで宴会場のようなその様子に、違和感を覚えたレイスの感覚は正常だ。
しかし、自らがここにいることこそおかしなことだと認識していたので、己の身に何が起こっているのか、まったくもってわかっていなかった。
気のせいでもなんでもなく、お祝いモードな朝食というか昼食を勧められて、そこでようやくハタと我に返り。
己の職務について思い出した。
揃いも揃って美人な女官さんたちの、現実味のないヒラヒラな女官服が急激に視界から遠ざかった。
こんなところでのんびりと酒宴を満喫している場合ではない!
この時刻になるまで、後宮警備の職務を忘れていたというのは大問題だった。
職場放棄でのクビは確実だろう。
「・・・・・・どうした?」
目のやり場に困るほどの薄絹で、朝から胸焼けがしそうなほど分厚い肉を食べていた女が、どすんと落ち込んだ風情のレイスに小首を傾げた。
「食べないのか?」
「・・・・・・・いえ」
レイスはすっかり食欲を失くして、項垂れた。
「きちんと食べないと力がでないぞ」
そういいながら、大きく切り分けられた肉を一口でパクリと頬張り、さらに次の肉をフォークに刺す。
見る見る間に皿から料理が減っていく。
それはもう、見事なほどの食べっぷりで。
食欲旺盛な同僚たちにも遜色ないほどの量が、短時間で彼女の胃袋に消えていった。
「口に合わないか?」
前で合わせるタイプの夜着は申しわけ程度に身体を隠しているに過ぎず、彼女が動くたびにチラチラと際どいところまで見えそうだ。
本来であれば、そちらが気になって仕方がないだろうに、レイスは見る見る間に料理が消えていく口元から目が離せなかった。
「い、いえ」
まさか、女性に向かって「すごい食べっぷりですね」などと言うわけにもいかず、レイスは慌てて視線を反らせる。
「まあ、本当・・・・・・・お肉が重いようでしたら、お魚をお持ちしましょうか?」
レイスは傍らで給仕をしてくれていたキャンベラさんに慌てて手を振った。
「いや、食欲がないというか、喉を通らないというか」
とんでもない。
こんな豪勢な食事をレイスのぶんまで用意してくれただけでも申し訳ないのに、さらに別のものを作らせるなど。
「いつも朝はあまり食べませんし」
「それはいけない」
レイスが慌てて頭を振ると、体格もだが食べっぷりも男並みな彼女が、ふと手を止めて顔を顰めた。
「体力が持たないだろう。ほら」
唇に直接触れたものに、反射的に口を開けてしまった。
間を置かずぐいと押し込まれたのは、レイスの一口には大きすぎる肉の塊だった。
「あらまあ」
女官たちがクスクスと笑っている。
傍から見れば、恋人同士の「あ~ん」ぱくり。という情景そのものだったと気付いたのは、口の中のものをなんとか咀嚼し終えた後だ。
「パンも食べるか?」
「い、いえ! 自分で・・・・・・」
あわあわと手を左右に振るレイスを面白そうに見ながら、彼女はベーコンとチーズの混ざったパンを千切った。
それもやはり、レイスの一口には大きすぎる塊だった。
強引に押し込まれたものに悪戦苦闘しながら、涙目で上座を見やると、しどけない薄絹を身にまとった黒髪の美女は、完全に面白がっている顔でレイスを見ていた。
からかわれているのだとすぐにわかったが、文句を言おうにも相手は高貴な身分の方だし、それ以前の問題で、絶え間なくものを口にねじ込まれるので喋る余裕などなかった。
レイスは知らない。
この状況が凄まじく誇張され、らぶらぶな新婚夫婦の睦ましい情景として、後宮はおろかあらゆる場所にまで噂が広がっていくことに。
まだ状況がよくわかっていない彼の、まったく知らないところで、レイスフォード・ハイドンの名前は瞬く間に伝わっていった。
それは、彼がひそかに望んでいた騎士としての名声ではなく。
男嫌いで通っていた女帝、ルシリア・ロウラン・ハザーランド陛下がはじめて側に侍ることを許した夫君として。
そして遠からぬ先には、未来の女帝となる赤子の父親として。
当の本人がそれを知るのは、まだ先の話。
レイスにとっての急務は、近衛騎士の職をどうすればクビにならないか考えることだった。
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