第22話 夜空
その1ヶ月後、大矢優花は産気づき、日間賀島診療所・助産科の分娩室に入った。夫である大矢祐司も仕事を切り上げ、診療所へと向かった。
大矢祐司と優花。2人にとっては待望の赤ちゃんだった。
今から7ヶ月程前、大矢祐司は当時まだ松川理化学研究所であった現在の総合理化学研究所に採用されることになった。それはセピアシステム再起動の実績を買われ、新たに動き出したフェニックスプロジェクトの一員として参画することになったからだ。
そして、その2ヶ月後。国立脳研やメディカルフロンティア、若葉台総合病院を交えた打合せの場において何気なく話した身の上話から若葉台総合病院の十月十日プロジェクトを知ったのだった。
祐司は興味本位でその事を妊娠5ヶ月であった優花に話した。すると、優花は「そりゃ、面白そうね」と言って、ここ日間賀島診療所へ足を運ぶようになったのだった。優花自身も気に入ったのか、常駐医である生方恵子の勧めもあり、臨月に入ってからはここ泊まり込んで、今日と言う日を迎えていた。
若葉台総合病院の十月十日プロジェクト。
それはこの日間賀島診療所の裏庭に元々あった古民家を改築して、そこに妊婦さんが集い、薪割り、鋸挽き、雑巾がけ、畑仕事などの昔ながらの労働を体験しながら、自然なお産に必要な、力強くしなやかな身体と心を養うという体験型のプロジェクトであった。
自分が好きなときにここへ来て、自分の好きなことを体験して、その日に帰るのであればそれもいいし、泊まっていくのであればそれもいいし、船がなくなったのならば、もちろん泊まればいい。
と言った具合で診療所のルールを守った上であれば基本自由であった。
万が一、いざと言うときがあったとしても産婦人科医である生方恵子女医、総合診療医である八神英二医師が常駐しているため、医療上も法律上も何ら問題はなかった。医療機器も母体である若葉台総合病院がそろえる最新型だ。
そんな妊婦が安心して、十月十日を過ごせる環境、
それが波多野 涼の夢、日間賀島・十月十日プロジェクトであった。
夜空を見上げる八神英二と大矢祐司。
日間賀島診療所から見える夜空は同じ愛知県であっても名古屋市、一宮市とは雲泥の差であった。都心では明るい星、一等星くらいしか見えないのだが、ここ日間賀島ではその一等星の周りを彩る淡い光の星々もくっきりと見えるのだった。
「出産には立ち会わないの?」
「立ち会わなくていいって。そこに居てくれればいいって言われました」
「そっか」
英二は片手に持っていたコーラを祐司に手渡した。
「はいよ。今日はジュースね。祝杯は後日ってことで」
そう言って英二はニヤッと笑った。
「あ、すいません」
すぐ隣で必死に頑張っている妻を前にアルコールはまずいよな、英二の配慮だった。
「そういや、先日の発表。おめでとう」
「八神先生を含む、先人の皆さんのおかげです」
「ま、そうだったとしても最後に形としたのは君たちの世代だ。そこに誇りを持ちなさい」
「はい」
「にしてもスピカシステムとは…誰が考えた名称だい?」
「所長です、桐嶋所長。セピアのピとエリカのカと、あとは語呂いいってことでスピカだそうです」
「桐嶋さんね。なかなかいいセンスしているね」
「え?」
「あれだよ、スピカは」
英二は夜空を指差した。
「星なんですか?」
「え?知らなかったの?」
「はい」
「おいおい、なになに。うしかい座のアルクトゥールス、おとめ座のスピカ、しし座のデネボラ、この3つの星を結んだのが、『春の大三角形』ってやつじゃない。ま、季節はもう夏だけどね」
「そうだったんですか。スピカって星の名前だったんですね」
「そうだよ」
おとめ座で最も明るい恒星、全天21の一等星のひとつ。春の夜に青白く輝く星、それが『スピカ』であった。
「きっと、あの星のように輝き続けるよ。君たちの夢も」
「はい」
そのときだった。赤ん坊の泣き声が診療所に響いた。
英二は腕時計を見た。時刻は夜10時をまわった頃であった。
「おめでとう」
「はいっ」
大矢祐司はそう言って、分娩室へ駈け出して行った。
と、ほぼ同時に英二の携帯が静かに鳴った。
『ピッピッピッ』
メールの着信であった。
「お父さん、生まれたよ。元気な女の子、名前は『
娘である
嬉しいけれど時間も時間だ、今から電話をするのはやめよう。そう思った英二は携帯のメール画面を開いた。そして、
「おめでとう」
と一言、送信したのだった。
日間賀島の夜空を見上げる八神英二。
今夜のスピカはいつもより、よりいっそう輝いて見えた。
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