亀の子タワシが救いたい世界
ねすと
希望の不在
3日前からしとしとと降り続いていた雨もようやくおさまり、灰色で覆われていた空にようやく青が見え始めていた。蒸気と間違えそうになるほどの湿気を含んだ空気も、なんだか和らいだ気がする。ふと頬に神経を集中させれば、気持ちのいい風が流れていくのを感じた。この調子だと、すぐに晴れ間が拡がることだろう。雲で蓋をされ行き場を無くした湿気も、次第に消えていくに違いない。
「もうすぐ、つくんだんさー」と、同じように青の切れ端を見ながら隣にいる案内人が笑った。ラグビーボールのような体型の山男。それだけ言えば、もうその男は形容できてしまう。無精髭に、まるで登山でもするような重装備。深緑と黄土色の一式は、いたるところに傷を持ちならがもその仕事を放棄することはない。修復したというより、もともと頑丈な造りになっているのだろう。このご時世では、一回一回修理するより最初から壊れにくいものを造っておいたほう後々楽になる。壊れやすいものを造り、品物の回転率を良くして利益を上げていたところもあると聞くが、修理に必要な材料が手に入り難くなっている昨今、どれだけ回っているのか怪しいところだ。やはり堅実が一番ということだろう。
隣には、山男の横幅の3分の1ほどしかない女性。決して小柄ではないのだが、山男の体型が素晴らしいために、どうしてもそう見えてしまう。動物の皮をなめて作ったレインコートも、山男のもののためにかなり大きい。それが余計に彼女を小柄に見せていた。
女性の名を、ユトリと言う。
山男が一歩進むごとにドッチャドッチャとぬかるんだ泥が跳ねる。どう見てもユトリよりゆったり歩いているのにも関わらず、歩幅の差なのだろう、遅れる様子はない。
「大丈夫かー、女子にはキッツい道になるんで」
「これぐらい、どうってことないです」
案内人の優しさに素直に笑顔を返す。確かに、泥が靴にべっとりと張り付くこの道は、歩く度に靴が重くなっていく。このまま歩けば随分と厚底な靴になりそうだ。いつかはこの山男の身長にさえ届くだろうが、そんなころには重くて一歩も歩けなくなってしまうだろう。定期的に泥を落とさなければ、女子でなくともあっという間に息切れしてしまう。
風を通さない作りになっているレインコートが、このときばかりは恨めしい。前を開けていても、全く風が通らないのだ。脱いでしまいたいが、背中にある荷物が邪魔で、そう簡単に脱ぐことはできない。
「この辺りは雨が降るとすーぐ崩れる。悪かったな、足止めしてしまって」
「いえ」と返すが、返答までに少し間をあけてしまった。普通の会話ならなんてことない間のはずだが、ひっかかるものがあったのだろう。山男はぼんやりと話し出す。
「もう少し前なら、整備してくれる人もいたんだけどなー、なんせ、このご時世だ。みーんな辞めんてしまった。おいも見回りをしてはいるが、広いだんで。まったくと言っていいほんど、把握しておれねえ」
「わかりますよ。まあ、ここまですんなり来れ過ぎたんです。もっとかかるもんだと思ってましたから。雨で予定が遅れたとはいえ、3日ほど早いですよ。……だからですかね」反省するように、笑う。「少し遅れたぐらいで、イライラしてしまいました」
だっはっはっ、と山男は豪快に笑った。つられて、こちらも笑う。細かいことなんて吹き飛ばしてしまいそうな笑い方だ。広大な海を見ると自分の悩みの小ささを思い知るというが、こうも豪快に笑い飛ばされるとさっきまであった苛立ちもなんだかどうでもよくなってしまう。この山男でなかったら、きっと何度か衝突があったに違いない。
「で、雨で遅れた数日。なにか収集はあったかね?」
「収集?」
「あちこち回って情報を集めていた、玄武様の後継人のことだんさ」
ああ、と返事を返すが、その先がすんなりと続かない。「……それが」と歯切れが悪くなってしまう。「あるにはあるんですが、曖昧も曖昧で、10人に聞けば10人違うことを返す有様で、とても有益なものとは」
「まあ、そうだろうな」
「ですが、この辺りにいるだろう、というのは、共通してました」
共通しているのに、『だろう』。しっかりと断定できないのは、誰もその玄武の後継人を見たことないからだった。『声は聞こえる』と言う情報はいくつもあった。けれど、それだけだ。
『もしかしたら、空気そのものなのかな』。聞いた中の一人がそう言ったとき、辺りにいた人がみな賛同したことを思い出す。見えない存在。いるかいないかわからない存在。それはそれで神様らしいが、それでは少し困る。
「この辺りに、なにかあるんですか? 玄武様に纏わるなにか」
「いんやー。なにもなかったはずだ。あー、岩はあるかー、岩だけは」
岩というのは、さっきから見えているものだろう。ユトリと山男が歩いている道の両脇に、ゴツゴツとした、人一人分はありそうな大きなものが広原に”刺さって”いる。まるでこの道を作るのに邪魔な岩を投げ飛ばしたような格好だ。この隣にいる山男がしたようにも見えるが、単純に力任せでできる仕事でもない。重機を入れようにも、この辺りまで来れるとは思えない。
となると、『キーワード』によるものだと判断がつくのだが、山男の『キーワード』は別のものだ。力関係に作用するものではない。
「というか、岩しかないなー、もうここは。すんこし前は家族連れがピクニックとかで来てたんだけとなー」
ピクニック。懐かしい単語だ。今でもあるところはあるが、もうこの辺りでは死語だろう。手入れのされてない広原は芝が荒れ、あまり見栄えするものではない。岩で視界が遮られるとは言え、それでもどこまでも広がる敷地はそれなに見応えがあるのだけれど。
「いいですね。たまにはのんびりとするのも」
「だとしたら、今日はやめんとき。寝転んだりしたら、服がべっしょべっしょになるんで」
「ここら辺は危険生物とかはいないですか?」
「危険生物? いんねえ、いんねえ、いたと聞いたことはねえし」
「……もっと危険な場所だと、思っていたんですけどね」
なんせ、案内人が必要なぐらいだ。どこかのゲームよろしく、神様に会うにはそれなりの試練が必要なもんだと思っていた。それがこんなファミリー向けの娯楽地なんて、しっかりと準備して来たユトリがバカみたいである。
「鬱蒼とした森林で、道に迷ったらもう二度と出られないぐらいの場所を想像していたのですが」
「だっはっはっ」
「……なぜ、案内人が必要なんです? ここまで一本道だったようにも思えるんですが」
村からここまで、分かれ道があったことは一度もない。ずっと泥濘んだ道を歩いてきただけだ。芝のない、人が歩いているとわかる道。”生きて”いる道だ。まだ人の行き来があるのだろう。
「それはだなー。単純に、危険だからさー」と山男は言った。
「……危険?」
先ほどの発言に矛盾しているようにも思えるが、山男はまた豪快に笑う。
「みんなあんたみたいに素直に道なりに言ってくれればいいんだけどな、そうはいかん。急がば回れ、だんで。玄武様に会おうとするあまり、この広原を突っ切ろうとする輩も当然いる」
それは、そうだろう。緩やかにカーブしている道をみたら、その最短距離を進もうというのは自然の考えだ。
「……それは、いけませんか?」
「道は、安全のためにあるもんだ」
「…………」
「安全に歩けるように、道がある。この道は、人が歩いてできた道だ。機械で適当にひんたんでない、長年かけて、安全な場所を残すように、少しづつ少しづつできた道だ。だんから、それなりに、意味がある」
「もし」と、ユトリは訊く。「このまま道を外れたら、どうなります?」
「さあてなあ。おいは外れたことがないからわかんねー。ただ、迷う、とは聞いたことあんなー」
迷う。こんな、場所で? ユトリが眉根を寄せると、山男はやはりのんびりと話し出した。
「この辺りは、景色が同じだで。どこ行っても代わり映えしない景色が延々続く。だから、わかんなくなる。どこにいるのか、どのくらい歩いたか。どっちから来たのか、どっちへ行けばいいのか」
もし、この道を見失えば、あとは広原だけだ。大海原に一人筏で取り残された状況と同じ。右も左もわからなくなり、迷うことになる。
「この道がくねくねしてるのも、岩があんのも、歩いている人を飽きさせない策だんで」
「……わかりました」
ユトリは言った。この男は、案内人というより、監視役なのだろう。ちゃんと行ったかどうか見届けるために居る。その役割があるということは、それなりに迷子も多かったということ。素直にこの男を雇って良かったと思う。
「んー、そろそろ、おいたちもお別れだんで」
山男の歩幅が少しずつ短くなる。そして、ゆっくりと停止した。
「この先、まっすぐ行けば、玄武様がいる場所に着けるだんで。だんから、おいはここまで。あとは、あんた一人でいきー」
「……そこまで、一緒に行ってくれないんですか?」
「だっはっはっ。あんたみたいな美女に言われると、なかなか誘われるセリフだんけどな、残念ながら、おいは玄武様に会う理由がないだで」
理由がなくてもいいじゃないか。そう思うのはユトリがここの住民でないからだろう。ここにはここのやり方がある。それはルールであり、掟だ。
「今日はあんた以外玄武様に会う人はいねえ。行っても一人だけだんで。ゆっくり話をしい」
ユトリは前を見る。道はもう少し先まで伸び、そこから緩やかに右に曲がっている。その先はどうやら坂になっているらしく、道が上がっているのがわかった。
「玄武様によんろしくなー」
「会えたら、ですけどね」
山男をその場において、ユトリは歩を進める。3歩ほど先に行ったところで振り返ってみると、もう山男はそこにいなかった。
それほど急でない坂を登ると、そこは行き止まりだった。
崖に、なっていた。
坂は短かったが、ここに来るまでにそれなりに上がってきていたのだろう。下を覗き込めば、肝が冷えるほどの高さがある。下は海になっていたが、ゴツゴツした岩が剣山のように飛び出しており、波が当たっては白くなって消えていく。きっと飛び降りれば即死できるだろう。
「さて」耳にかかる髪を避けながら、呟く。
来たはいいけれど。
ぐるりと見渡す。なにもない。
いや、あの山男が言っていたように、岩だけしかない。
まるでミステリーサークルのように岩が刺さっているが、それ以外変わったところはない。玄武が祀られているような祠も無ければ、お供えすらない。本当にここにいるのだろうか。
「……困ったな。玄武様降臨の儀式でも必要だったのかな」
ここまで所在が知れているのだから、行けば当然会えると思っていた。豪邸とまではいかないものの威厳を保つためのそれなりの社なり祠なりを構え、それらしく振る舞う。玄武本人ほどの力がないと知っているが、その正式な後継者だ。神様は敬う人が多いほど大きな力を使える種類もいる。四獣はそれに含まれないらしいが、後継者もそうとは限らないだろう。
都合のいいように解釈しているだけかもしれないが、その夢を見せてくれるのも神様の務めだ。
「会うに値しないのか、それとも今は審査中なのか」
その場を右往左往しながら後継者を探す。透明になっている、隠し扉があって地下に潜れるようになっている。岩に見えて実は異界に繋がるゲートだった。あやゆる可能性を考えてその場を調べてみたが、なにもない。
行けば会えるもんだと思っていたのだが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。そういえば、その辺りについてもあの村の住人はなにも言ってはこなかった。だからこそ、行けば会えるもんだと勘違いしていたのだが。
神様に会うための儀式など、この辺りのことを知らないユトリには見当もつかない 。朝の挨拶のように一般化されているものもあるのだ。儀式を儀式として思っていない、あの村の住人なら幼い子どもでも当たり前に行う行為だとすると、もうお手上げである。
「踊り、いや、歌か」
ユトリの住んでいた地域にも、それに近い風習はあった。けれど、それは何人かで行うものだ。ここがそうであると判断はできないが、1人で来た以上、いや、来れた以上、1人でも十分にできるものであるはずである。
となると、ユトリの頭には一つだけ浮かぶ。言葉だ。神様に会うために必要な言葉。それは。
「『キーワード』かな」
ユトリが崖ギリギリに立つ。鋭角の三角形のなっているそこは、先端に立ってしまえばもう大海原しか視界に入らない。海からは潮の香りを纏った風がユトリを危ないと言っているかのように後ろへ後ろへ追いやっていく。危険だけれど、柵もなにもない。あった形跡はあるが、撤去されたか、壊れたままになっているのだろう。飛び降りる人などもういないからだろうか。ここで死ぬか、あと数年生きるか。大差ないに違いない。
「出てきてくれればいいんだけど」
わずかに半身になり、右手を前に出した。親指を立て、人差し指を前に、残りの指を中に握る。ピストルのような形を作った。
《バン》
ユトリが言った途端、それは”放たれた”。
光線。
人差し指から放たれたそれは真っ直ぐ大海原を進んでいく。太さはユトリの腕ほどだろう。黄色とも白とも言えない色をもったそれは、あっという間に水平線に溶けて見えなくなった。なにもない方向へ打ったのでなにも当たらなかったはずだが、もしなにかにあたったら大変なことになってしまう。
あたったら、殺せる。殺せてしまう。
これを守護である玄武に見せるのはどうかと思うが、これがユトリの『キーワード』なのだからしかたない。これが、ユトリが示すことができる、人と神をつなぐ、唯一のものだ。
『キーワード』。それは文字通り、鍵となる言葉。
人は生まれるとき、神様に会い、そして鍵を渡されるのだという。
人の才能を解放させる鍵。限界への扉をこじ開ける鍵。貴方を信じますという誓いと、神様との約束。
神様から貰った唯一無二の才能。それを行使するための条件が、『キーワード』だ。
発動条件は単純に、『キーワード』を口にすること。それは単語だったり文章だったり、擬音語や擬態語だったりする。一貫性があるわけではなく、同じような種類の才能でも『キーワード』が違うことも珍しくない。また、複数の才能を持つ人もいる。その人は神に愛された子ということで、特別な目で見られることもある。
それだけ『キーワード』は大切なもので、だからこそ、神様という存在に対して見せれるものはそれしか思い浮かばなかった。
だが。
「……異常なし」
打った前と後とで、変化は見られない。玄武が降臨される様子もないし、攻撃をされる様子もない。
神様と人間との繋がりを持つものとして『キーワード』を言ったのだが、そう簡単な話ではなかったらしい。
「これじゃダメ? それとも別のなにかが必要なにかしら」
ユトリの『キーワード』は《バン》と《バキュン》。どちらも光線を放つものだ。ワードに差があるとは言え、大差はないはずである。
「なーんで声すら聞こえないのかしらねー」
声だけは聞こえるとの噂の玄武の後継人。それすら聞こえないのを見ると、やはりもう一つの『キーワード』が必要なのだろうか。
ユトリはまた構える。ただし、今度は刺さっている岩のひとつに向かって。
当たれば岩くらい簡単に砕けるだろうが、まあ大丈夫であろう。近くに人もいないことを十分に確認して。
「これが私の『キーワード』。最後のひとつよ」
《バキュ
『キーワード』を言いかけた、そのときだった。
「わーーーー!!!! 待ってください待ってください待ってくださーい!!」
今、ユトリが破砕しようとした岩の影から、なにかが飛び出してきた。
「隠れていたのは謝りますので撃たないでください!」
「……え?」
少年、だった。
10歳ほどの少年だった。
少年の背中には、亀の甲羅があった。
いや、甲羅を『着ていた』。
黒いスーツに同じく黒のベレー帽。そして黒の革靴。こちらを見る瞳は明るいブラウン。髪も同じくブラウンだった。そこまで見れば、普通の少年なのだが、ただ一つ、普通の少年とは違うところがあった。
甲羅である。
背中を覆う甲羅。ただ背負っているようにも見えるが、よく見ればそうじゃないことがわかる。本当に、甲羅があるのだ。
ただ、あまりに不恰好である。普通の少年の背中にいきなり甲羅があるのだ。ユトリの知る亀の甲羅というものは、頭から足まで入ることのできる大きなものである。もちろん少年の持つそれも同じものであるが、だとしたら、なぜスーツなどいうぴっちりとした服が着れるのだ。しかも、胴回りは普通のそれとなんにも変わらないのである。それに、甲羅はむき出しで、布は纏っていない。
あれではまるでスーツを着たあとで甲羅を『着る』か、背中に接着剤かなにかで甲羅を貼り付けたようなものではないか。
そう思いたくなるのであるが、どうもそうとは思えない。
「酷いです! ここは曲がりなりにも一応神聖な場所なんですよ、なのにいきなり破壊行為をしようだなんて、罰当たりもいいところです 」
ズビシッと指を差されるが、全く怖くない。当たり前だ。自分の半分ほどの年齢の少年に糾弾されようとも『ああ、なんか騒いでるな』ぐらいにしか感じないユトリである。兄弟が多かったからであろう。このぐらいの年齢の男子の扱いぐらいは心得ている。
が、今回はそれが通じるとは思えない。
「全く、本当はもっとこう、神々しく登場しようかと思っていたのに、計算が狂ったじゃないですか」
やれやれと言ったぐらいに肩を竦める少年。神々しさどころか、威厳が全く感じられない。だが、ここにいるということは、彼があの。
「声しか聞こえないって、噂だったんだけど……」
「え?」と少年は言い、それから「ああ」となにか合点が言ったように手を打った。
「だってそれはほら、声だけってのは、なんか、神様っぽいじゃないですか」
神様っぽい。それはお告げのことを言っているのだろうか。
「実際は、今みたいに隠れていただけなんですけど」
「おい」
なんだそれは。
「この辺りは隠れられるものがたくさんありますから、案外困りませんでしたよ。必死に探そうとする無粋な人もいませんでしたし。もちろん、破壊しようとした人はあなたが初めてです」
口を尖らせて抗議される。別にこちらとて、人がいれば破壊しようとも思わなかった。神聖な場所と明記でもされていればまた別だったのだが、辺鄙な場所である。立て看板なんてものもないし、あちこちに『生えて』いる岩も、信仰心がなければ道端に転がる小石と同然だ。ユトリにしてみれば、小石を蹴飛ばそうとしただけなのに、といった程度である。
しかし、そう反論しても無駄だとなんとなくわかる。
「ぼく、姿を消すとかできませんもん。甲羅に隠れることはできますが、それは隠れるとは言えませんし。もし下手に見つかって竜宮城へ連れていけと言われても困ります」
もしそんなことを言える人がいたらお目にかかりたいものである。少なくとも、ユトリにその発想はなかった。もしいきなりこんな人に出会ったら、一目散に逃げ出しているはずである。新種として捕まえようという気にすらならない。
それでも彼に向き合ってこうして会話をしているのは、彼が、ユトリが会いたかった人ではないかという可能性があるからである。
玄武の口が止まる瞬間を狙い、「あー……それで、キミは、玄武様の」
玄武、という単語に、彼が反応を見せた。
「玄武さんですか?」
「知ってるんだ」
心外ですね。と少年。「ぼくはこれでも、玄武さんを唯一『さん付け』することを許された人間ですよ」
確かに、さっきも『玄武さん』と言っていた。玄武を様付けすることを強要されたわけではなかったが、自然と様付けするようになっている。だが、目の前の少年はそれをしておらず、しかも『さん付けすることを許された』とも言った。それが実に当たり前だったので聞き流してしまったが、今記憶を反芻して見るとかなりの違和感だ。
というより、まず『さん付け』すること自体思いつかないだろう。様を含めて名前みたいなものだ。
「……それじゃあ、玄武様の後継人ってやっぱり」
「なにか言いました?」
「いえ。なんでも」
ユトリは息を吐き、姿勢を正す。
「じゃあ、神様。改めて謝罪を。……ごめんなさいね。ここがそこまで神聖な場所とは知らなかったの。ついでに、自己紹介もいいかしら。私の名前はユトリ。歳は25。ここから西にある国で生まれ育った」
「はあ……ユトリさん、ですか」
「今は無職だけど、前は働いていたからね。貯金はある。だから、少しぐらいなら、神様に奉納……あなたに報酬を支払うことももできる、はず。あまり高いのは出世払いになるけど、前金としてなら、十分に払ってあげるわ」
「……それで?」
立て続けに出される情報が上手くつながらず、少年が問いかける。ユトリは端的に言ってみることにした。
「ねえ、キミ、ちょっと手伝ってくれない?」
「……手伝う? いったい、なにをですか?」
「決まってるじゃない。悪魔を殺すの。手伝ってくれない?」
「…………」
「そのために、私はあなたに会いに来たの」
5年後、地球を滅ぼす。
そう勧告があったのは、ユトリとこの少年が出会う一年ほど前のことだった。すなわち、あと4年で地球は滅ぼされてしまう。
誰に?
悪魔にだ。
理由は不明。方法も不明。正確な日時も不明と来ている。これではいたずらか、誰かの『キーワード』による洒落のひとつだと思っていたのだが、どうやらそうじゃないらしい。
嘘か真か、この勧告は1000年前からあったそうだ。
1000年前に初めてその声が聞こえ、次はその500年あと。次は300年あと。100年、50年と続き、そして今だ。6回もあったのにも関わらず、この世界が初めてその対策に取り組んだのは50年の勧告のみ。そのときに出撃したのが、玄武を含んだ四獣であった。
朱雀、青龍、白虎、そして玄武。
彼らは悪魔の破壊、もしくは殺害を目的とし行動したらしいが、ある日を境に全く連絡がつかなくなった。きっと悪魔と戦闘を繰り広げているのだろうということで全員、それこそ世界中の人が安心しきっていた。
楽観的といえばそれまでなのだろう。
全員の頭には、『これで平和が訪れる』としか浮かんでいなかった。
正義は悪に必ず勝つ。
それは当たり前であったし、普遍なものであった。だからこその安堵だったのだろうが、それは間違っていた。
5年後、地球を滅ぼす。その声と同時に、死体が4つ見つかった。
四獣だった。
全員殺されていた。
「悪魔って、どうして今更」
今更、と少年は言ったが、それはユトリに怒れることではなかった。もう世界は諦めていた。生き残ることを放棄したのだ。四獣で無理なのだから、もう勝つ術はない。潔く皆で死のうという結論にいたったのだ。
四獣という存在はそれほどまでに頼れる存在で、絶対だった。
「死にたくないんですか?」
「まあ、違うっちゃあ、嘘になるけど」
ユトリは言って「でも、本当の理由はそうじゃない」と続けた。
「今から6年後、すなわち悪魔が滅ぼすと言った日から2年後まで、生きたいだけなんだ」
それが終わったら、死んでもいいとユトリは言った。
「……その日に、なにがあるんですか?」
「恋人の処刑日」
さらりと言う。言い慣れたとも言う口調で。
「私の恋人はさ、『クルイ』って言うんだ。いくらなんでも、聞いたことぐらいあるんじゃないかな」
少年はうなづいた。ゆっくりと、その名前を持つ意味を、考えていた。
クルイ。無邪気なクルイ。邪気が無いことで有名なクルイくん。地球最後の極悪人とまで言われた連続殺人犯だ。
彼が逮捕されたニュースは世界中で報道された。あれほど注目された事件はなかったのではないかと言われたほどだ。まだ悪魔による『5年後に云々』の前だったので、彼が悪魔だと本気で信じている人もいた。今も信じている人もいると聞くが、四獣の死体が発見された今、それを信じている人は少ないだろう。
彼の『キーワード』では四獣に到底太刀打ちできるものではなかったし、彼の殺し方と四獣の殺され方に大きな差があった。もちろん、わざと変えたということもあり得るが、心象的に、違うと判断された。
四獣たちは一撃で殺されていたが、クルイの殺し方は少し違う。
実験的、なのだ。
殺すことを目的としていない。結果、死んだだけだ。ゴールが同じだけで、そこに行き着く過程を変える。それを楽しむ。それがクルイだった。
彼は殺人ひとつひとつを映像に録画し、それを公開していた。そのどれもが、子どもが行うような酷く幼稚な実験的なものばかりだった。
1人目。彼は硫酸を飲まされて死んだ。クルイ曰く。胃酸とどちらが強いか試してみたいとのことだった。だが、うまくいかなかった。直接口に流し込んだため、被害者がほとんどを吐き出してしまったのだ。結果、胃まで到達せず、クルイの望んだ結果にならなかった。被害者は、ゆっくりと死んでいった。
2人目。実験の続き。前回の失敗を踏まえ、今度は長い漏斗のようなものを使って直接胃に流し込んだ。硫酸ではなく、今度は王水を使ったという。2人目も死んだ。どちらが強いのか、わからなかった。
3人目。人一人を監禁し、飲まず食わずで放置させた。極限まで飢えたところで、クルイはある提案を投げかけた。「右手と右足と左手と左足、要らないのはどれだ? 要らないものを切り落とし、焼いてこよう」。人は自分を食べることでどれだけ生きれるかというものだった。被害者は四肢を食べ尽くし、血をギリギリまで飲み、身体が小さく小さくなり、死んだ。
4人目。海外のコミックのように、至近距離で爆風を浴びると、人は骨だけを残し、肉は吹き飛ぶのか、という実験だったが、結果は明らかだった。4人目は当然爆死した。
5人目。全員の失敗を踏まえ、再チャレンジ。今度は人型の分厚い鉄板に、磔にした。吹き飛ばないよう、主要な骨はドリルで鉄板に固定されていた。前回よりだいぶ完成系に近づいたものの、肉が上手く吹き飛ばず、汚くなって終わった。5人目も死んだ。これで見切りをつけたのか再々チャレンジはしなかった。
6人目。溺死。テープで体をグルグル巻きに固定し、身動きとれなくしたあと、湖に沈めた。口には長いホースが付けられており、それは湖の水面まで達していた。そこから呼吸できるというわけだ。ホースの先端には細い紐がくくりつけてあり、それが近くの木に括り付けられているおかげでホースが沈むことはなかった。クルイの望んだ結果は、紐がいつか切れ、ホースが水面に落ちての溺死だったのだが、紐がなかなか切れなかった。結局、雨が降ってきてホースに入り、溺死した。実験名は不明。
7人目。卵とパン粉をまぶされて油に落とされた。揚げられた。ペットにあげるのだという。実験ではなかった。ちなみに、ペットは犬だった。食べなかった。
8人目、9人目。比較実験。8人目は、100kgの鉄の塊を頭に落とされて死んだ。頭が砕かれた。比較の9人目は100kgの綿の塊を落としたとき、どうなるかを見るのだという。綿を顔に落とされ、頭は砕かれなかったが、呼吸ができずに死んだ。
10人目。首を切り落としてから、人はどのくらいの時間で死ぬのだろうという検証実験。結果は一撃で首を切断できず、失敗。
11人目。再チャレンジしようというところで、クルイは捕まった。
「彼の『キーワード』は『平等』。それに対して開く扉は、『同一視認』」
彼は、扉を開いている間、”ヒトがみんな同じに見えている”のだという。
親も兄弟も年配も子どもも赤ちゃんも赤の他人も、そして恋人であろうとも、彼は同じ形をしたモノ、としか判断できない。
ここにある岩と同じなのだ。多少の差はあろうとも、それが区別できない。区別できても、それを含めて名前をつけてしまう。例えば岩。例えば雑草。例えばヒト。
クルイは逮捕の直前、警察に向かってこう言ったそうだ。「たくさんある内のひとつを壊しただけじゃん。みんなはコップを割っても誰にも謝らないのに、どうして僕はひとつ壊しただけでこんなに怒られなきゃいけないの?」
「……ユトリさんは、彼を助けたいんですか?」
少年が訊くと、ユトリはすぐ首を横に振って否定した。
「『キーワード』が原因だとしても、クルイがしたことに変わりない。罰は受けるべきだと思うし、多分、ここで止めなきゃクルイはまた誰かを殺すからね。ちょうどいいのかもしれない」
「その罰が、死刑だとしてもですか?」
クルイは、捕まる前から死刑が決まっていた唯一の犯罪者だった。世界初、と言っていいかもしれない。情状酌量の余地なし。生きる価値なし。それに反対するものは誰もいなかった。
「うん」
ユトリも、その一人だ。彼の処罰を、妥当のものだと受け入れた。
「でも、ユトリさん。世界はどうせ刑の執行前に……」
「それが納得できないから、こうしてはるばる会いにきたんじゃない。悪魔なんていう訳のわからないもんに全部壊されてたまるもんですか。クルイを殺すのは、この私よ」
ユトリは少年を撃つ真似をして見せた。こうやって、とでも言いたいように。
「私の前職はね、警察官だったの。クルイを捕まえたのもこの私。殺すのも、私がやる。誰にも邪魔させない」
「……ぼくはよくわからないんですが」と少年が一拍挟む。「それが、愛、なんですか?」
若干的外れな、けれど的を射ている発言。ユトリは一瞬ポカンとしてしまったが、すぐに笑みを返した。
「そうとも呼べるかも。クルイのことを一番わかっているのは私。だから、最期まで私が責任を持って面倒を見なきゃいけない。愛じゃなきゃ、義務とかでもいいけど」
「そのために、悪魔を殺す?」
「そう」
「玄武さん……四獣ですらできなかったのに?」
ユトリは言い放った。
「たった一回失敗しただけじゃない」
「…………」
「二回目をすればいいのよ」
二回目。すなわち、四獣それぞれの後継者を見つけて、悪魔と再戦する。話にすれば簡単だが、それは果たして現実的なのだろうか。
弟子が一人前になるには時間がかかる。ましてや四獣という力の象徴だった者達だ。椅子が空いたからといえ、そこに座ったものが急に力を持つわけではない。弟子が一人前になるには、師匠を超えなくはいけない。それも目に見える形でだ。『死』という一種の神格化してしまった彼らを超えるのは極めて困難。
なのに、ユトリはそれを、あと4年で仕上げるつもりだという。
「玄武様を殺した奴が憎いでしょう? だから、一緒に悪魔を殺しましょう」
少年は、しばらく考えてから、ゆっくりと言った。
「条件を言ってもいいですか?」
流石にタダで来てくれるわけがない。ユトリは当然のように頷いた。
「ぼくは、まあ、見ての通り可愛いお子様なので、過度な期待をされてもいささか困ります。もしこの先、運良く悪魔に会えたときがあっても、確実に殺すことを約束することはできません。さらに、ぼくの『キーワード』は守り関係なので、殺す役目はユトリさん、もしくは別の方になります」
「いいわ。もし悪魔を逃しても、殺されなければOKよ。役目に関しても了解。私の『キーワード』は攻撃特化。それぐらいお安い御用。それに、もしこの先白虎の後継者に会えれば、攻撃関係はそっちに任せてもいいかもしれないわね」
それだけ? とユトリが問う。少年は「あとひとつだけ」と人差し指を立てた。
「ぼくを、ボディーガードとして、雇ってくれませんか?」
「は?」
その提案は予想しておらず、ユトリの口がポカンと開く。
「その報酬として、ぼくに食事と、衣服と、寝床をください。……正直に言うと、ぼくはここに居るだけなので、お金を持っていないんです。食事やらは用意されているので、自分で魚を捕ったり、ということもしたことありません。今ユトリさんに付いていっても、悪魔に会うまで、ぼくは養ってもらうしかできないんですよ」
《守って》。左手を前に出し、少年が言う。すると、その手のひらに、小さな透明の板が現れた。透明度の非常に高い板だ。向こうを見ても景色が歪んでいない。5センチ四方の板は、少年が拳を握ると音もなく消えてしまった。
「ご覧の通り。ぼくは壁を出してあなたを守ることができます。……どうですか?」
どうですか、もなにも、もともと報酬は支払うと決めている。なのになぜ今更? そんなユトリの表情を読み取ったのか。少年がまた口を開く。
「単純に、ぼくのプライドだと思ってください。ただ後ろをついて回って生活させてもらって、は嫌なんですよ」
もし悪魔の居場所がわかり、明日にでも討ち入りができるというのなら話は別だが、今はどこにいるのか見当も付かない状況だ。もしかしたら4年間ずっと探して回ることになるかもしれない。その間、なにもしないでずっと養ってもらうのは気がひけるのだろう。最悪、悪魔が見つからなくては仕事らしいことをなにもしない恐れだってあるのだ。
「……いいわ。了解。あなたを雇いましょう。書面でも書けばいいのかしら?」
「いえ、口約束で構いません。それなりに信用していますから」
では改めて、と少年が姿勢を正す。
「玄武さんを殺したのは、許せません。あの人は、ぼくの親みたいな存在でしたから。それに、このまま黙って死ぬよりも、癪です。あなたについていきます」
少年が、拳を前に突き出す。それを見て、ユトリも同じように拳を突き出した。コツン、と音はしないが確かに鳴って、そして契約が完了する。
「ぼくはタワシと言います。玄武さんが付けてくれた名前です。亀の子のタワシ。これからよろしくお願いしますね。ユトリさん」
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