第2話 後悔はいつまでも1

 都雅が目を覚ますと、遠い天井が見えた。等間隔に蛍光灯が並ぶ、暗い天井。背中の下は堅く、冷たい感触が衣服越しに伝わってくる。床の上に寝ていたようだった。頭の下にだけ何か布のようなものが敷かれている。

 ここがどこだか分からない。でも、どこで記憶が途切れたのかは覚えていた。

 意識の中に何かが浸食してくる威圧感が、まだ生々しく心のどこかに残っている。

 ――まずいな。

 瞬いて、再び上を見る。体が重い。動くのが億劫だった。そんな場合じゃないのに。それは分かっているのに、何もしたくない。

「都雅ちゃん」

 呼ぶ声に気がついて目を向けると、美佐子が、ほっとした顔で都雅を見ていた。

 寒そうな格好をしているなと思ってから、頭に敷いていたのが、美佐子の上着だと気がつく。美佐子の隣には、少年が猫のような格好で座り込んでいる。誰かの体操着を拝借した菊だった。彼らの後ろには、灰色の鉄パイプの林が見える。机の脚と椅子の脚だ。どこかの教室に逃げ込んだのだろう。

 大きく息を吐いて、だるい体を持ち上げようとした。腕をついて、痛みに驚いた。添え木を当てて包帯を巻いた、傷ついた腕を見る。

 怪我をしていたんだった。打ちのめされて、重傷を負ったのに、自分はどうしてこんなところにいるんだろう。どうしてあんな恐ろしいものを追ってきたんだろう。

 ――人に責められるのが嫌だから? 追い詰められて怖くて、仕方なく? こんなに傷ついているのに、分かってもくれなくて、無茶ばかり言って押し付けてくる人のために? 別に無理しなくたって、もっと楽な方法があるのに。

「都雅ちゃん、大丈夫? 怪我は? 倒れたときに頭打ったりしてない?」

 美佐子に助けられながら、なんとか身を起こす。都雅は応えず、陰鬱な表情で立ち上がった。途端によろけて、近くの机に手をつく。ずきりと痛みが走って、唇を噛み締めた。その様子を見ていた美佐子が、痛みの声さえ上げない都雅のかわりのように、小さな悲鳴を上げた。

「都雅ちゃん! 無理しないで」

「放っとけ」

 そばに寄ろうとした美佐子に、拒絶の言葉を投げる。驚いた美佐子の足が遠慮がちに止まった。

「……でも、大丈夫なの? 都雅ちゃん、突然倒れたのよ」

「うるさい!」

 一喝と共に、都雅の拳が机を叩きつける。腕はまたひどく痛んだが、もうどうでも良かった。痛くたって、傷んだって、なにの意味もない。どうせ、こんな体。こんな命。

「都雅ちゃん……?」

 机に両手をついて震えている少女に、さっきとは別の意味で驚いた美佐子が声をかける。都雅はもう、反応しなかった。美佐子は戸惑った様子で、菊と目を合わせる。

 そして、拒絶を向けられたのに、都雅の方へと手を伸べる。都雅の肩を支えるように。

 だがそれは、適わなかった。



 噴き出すように、重苦しい気配が現れた。無視する事など許さない、そして出来るわけもないほどの、威圧感。

 暗い教室の黒板の前に、少女は立っていた。美佐子の良く知る友人の姿をした、けれども彼女の日常からはかけ離れた存在。

 そこに君臨して夜の領分を支配するもの。

「彩花……」

 名を呼んで、どうにかしたくて、でも何もできなかった。

 何とかしたくてここに来たのに、何もできない。見たこともない表情で別人のように話す友人を、どうしたら助けられるのか分からない。それに様子がおかしい都雅のそばを離れられなかった。

「おやおや」

 美佐子になど目もくれず、少女は感嘆を込めた声をあげた。

 都雅は反応を見せない。暗い瞳を自分の手に据えたまま、動こうとしなかった。何かに耐えるように、余裕のない目は一点から動かない。



 バタバタと乱暴に駆けてくる音がして、美佐子も菊もびくりと顔を向ける。

 無遠慮に扉をガタガタ鳴らす音が響いた。鍵のかかった扉に苛立つ声がする。

 美佐子が教室に駆け込んだときには、菊が後ろ側の扉を蹴飛ばしてドアを開けた。今はそれをとりあえず元の位置に立てかけてあるのだが、相手はそんなことに気づく余裕もないようだった。

 教室の前の扉が勢いよく教室の中に倒れこんできた。美佐子は再び、びくりと肩を震わせる。

 長い髪を乱暴にかきあげながら、扉を踏みつけ、麗人が教室に乗りこんでくる。教室に入るなり、細い眉をつりあげて、黒板の前の少女を見た。

 後ろから駆けてきた崇子に、美佐子たちの方を指差して、情け容赦のない声で命じる。

「目触りだからあっちで結界でもはっててよ。ガタガタ震えてたってそれくらいならできるだろ」

 不機嫌な声と言葉に驚いた崇子は、一瞬足を止めたものの、壁伝いに教室の後列の方へ回りこんだ。最後尾の机のところに都雅が立っている。その横に美佐子がいて、彼女を守るように駆けつけて前に立つ菊がいる。

「ポンポンあちこちに現れて、便利でいいよねえ。ぼくも覚えようかな、そういうの」

 険悪な表情のまま、皮肉げに蓮が言う。その彼と、間近に立つ崇子を見遣り、怪訝そうに菊が声をあげた。

「おぬしら、もう一人はどうした」

 怪訝そうに菊が言った。それはとても、軽はずみな言葉だった。思ったことがすぐ口に出る菊の良いところで悪いところだ。少し考えれば、何かの作戦でわざと別の場所にいるのだとか、遅れてきているのだとか、察せられるところなのに。もしくは。

「うるさいなっ! ちょっとくらい、状況を察するとかしてみたらどうだ! お前らのせいなのに!」

 蓮は言うにつれてどんどん怒りが抑えられなくなっている。怖気づきながら、菊は続けた。

「何をそんなに逆上しとるんじゃい」

「怒ってるからに、決まってるだろっ!」

 蓮が力いっぱい怒鳴る。その剣幕に、菊がようやく口をつぐんだのなど気にも留めず、眼差しは、はじめからずっと魔族に据えられていた。

「どうしてお前がそこにいるんだ」

 凄絶としか言い様のない容貌で、声を低く抑えて言葉を落とす。菊と同じ言葉を、わざわざ問いかける。眉をつりあげて、相手を睨みつける目が尋常でなかった。

 そんな視線を悠々と受けて、魔族は愉快そうに笑った。

「わざわざ聴きたいのかい? それを、わたしの口から」

 そう言って、少女は嘲笑った。

 蓮が口をつぐむ。怒りのあまりに言葉も出せなくなったようだった。一度大きく息を飲み込む。そして、吐く息と一緒に、震える言葉を落としていく。

「いいよ、別に。言わなくても。ああ分かってるよ。何がどうなってあんたがそこにいるのかくらい。分かってるけど、そういうことは、あっちゃいけないことだったんだよ、ぼくとしては」

 さらにもう一呼吸。同時に彼は顔を上げて相手をきつく睨みつけた。

 無言で拳を振り上げる。足を踏み出し、魔族のついた少女に向けて振り下ろした。コンクリートも粉砕できるその拳を。

 拳は、少女まで届かなかった。少し前で止まってしまう。けれど、見えない壁に阻まれた蓮は、力を緩めずに振り切った。尋常でない力に押されて、少女が後ろへ吹き飛ぶ。

 壁に叩きつけられて、鈍い音がした。美佐子と、状況をうかがっていた崇子が息を呑む。

「何をしとるんじゃ!」

 菊が抗議の声を上げる。

 だが蓮は、菊の抗議を無視した。本当に聞いていなかったのかもしれない。ただ彼は、魔族が壁を離れ、二歩ふらふらと歩いて止まったのを凝視している。

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